silva09

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.9 2003/06/07

------< クロスオーバー >-------------------------------------
中世哲学とライプニッツ

スコラ学とライプニッツ。一見、ちょっと意外な感じの組み合わせですが、底流
にまで降りていこうとすれば、そこには綿々と連なる同じ問題系が見えてくる…
…というようなことを感じさせるのが、山内志朗『ライプニッツーーなぜ私は世
界にひとりしかいないのか』(NHK出版、2003)です。著者はスコラ学の専門
家で、これまでにも『普遍論争』や『天使の記号学』など興味深い著作がありま
す。今回は「哲学のエッセンス」シリーズという入門書としてライプニッツを取
り上げているわけですが、小著ながら、どうにもスコラ的な陰影を色濃くとどめ
た、なかなか興味深い一冊になっています。

副題にあるように、「なぜ自分がひとりしか存在しないのか」という問題から出
発して、ライプニッツの思想のキーワードを巡っていく、という内容です。この
唯一性、13世紀のドゥンス・スコトゥスなど盛期スコラ哲学の重要テーマの1つ
ですね。それらを源流としてライプニッツのモナド概念を捉え直そうというのは
面白い試みかもしれません。というのも、普通、モナドについて振り返るという
と、古代のピュタゴラス学派やプラトンあたりから、いきなりニコラウス・ク
サーヌス(最近注目されているようですが)あたりにまで飛んでいってしまい、
中世の間は忘れ去られていたかのように解説されるからです。もちろん言葉とし
て出てこない、というのはあるかもしれませんが、ある種の考え方が底流として
その間を繋いでいた、と見る方が作業仮説としては面白いのではないでしょう
か?その意味で、中世哲学を専門とする人がこのように触手を伸ばすのは広く歓
迎すべきことのように思われるのですが……。

○『ライプニッツーーなぜ私は世界にひとりしかいないのか』
山内志朗著、NHK出版、2003、ISBN 4-14-009304-8

------< 新刊情報 >--------------------------------------------
新刊情報です。

○『西欧中世の宮廷文明』
里見元一郎著、近代文芸社、2003
ISBN 4773370076

中世の宮廷付属礼拝堂から騎士が行き交う社交の場への発展史をめぐる論考のよ
うです。新書サイズのハンディな一冊。

○『フランス中世歴史散歩』
レジーヌ、ジョルジュ・ペルヌー著、福本秀子訳、白水社、2003
ISBN 4-560-02848-6

ご存じフランスの中世史家レジーヌ・ペルヌーが、元『パリ・マッチ』誌編集長
だった弟さんとフランス各地を案内するという歴史ガイド。なかなか楽しそうで
すね。

------< 文献講読シリーズ >-----------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その5

今回は7章の途中から8章までです。ザクセン人との戦いの話が続きます。

               **********
Poterat siquidem citius finiri, si Saxonum hoc perfidia pateretur. Difficile
dictu est, quoties superati ac supplices regi se dediderunt, imperata
facturos polliciti sunt, obsides qui imperabantur absque dilatione dederunt,
legatos qui mittebantur susceperunt, aliquoties ita domiti et emolliti, ut
etiam cultum daemonum dimittere et Christianae religioni se subdere velle
promitterent; Sed sicut ad haec facienda aliquoties proni, sic ad eadem
pervertenda semper fuere praecipites, non sit ut satis aestimare, ad utrum
horum faciliores verius dici possint; quippe cum post inchoatum cum eis
bellum vix ullus annus exactus sit, quo non ab eis huiuscemodi facta sit
permutatio. Sed magnanimitas regis ac perpetua tam in adversis quam in
prosperis mentis constantia nulla eorum mutabilitate vel vinci poterat vel
ab his quae agere coeperat defatigari.

ザクセン側が誠実さを示していたなら、戦は確かにもっと早くに終わっていただ
ろう。彼らが幾度征服されては王に嘆願したか、幾度取り決めを結んだか、要請
された人質を幾度ただちに返したか、遣わした使者を幾度受け入れたか、ここで
語るのは難しい。制圧され力の弱まった彼らは何度か、異教の神々の崇拝を放棄
しキリスト教に帰依すると約束したりもした。だが、何度かそうしようとはする
のだが、常に考えを変える傾向もあり、これらのうちどちらに傾きやすいのか、
十分な確信をもって言うことはできない。彼らとの戦が始まってから、そのよう
な変更がなかった年などほとんどない。だが、王の寛大さと、敵対関係でも繁栄
でも変わらないその恒常心は、彼らの変わりやすさによって打ち負かされること
も、自ら始めた行動によって疲弊することもなかった。

Nam numquam eos huiuscemodi aliquid perpetrantes inpune ferre passus
est, quin aut ipse per se ducto aut per comites suos misso exercitu
perfidiam ulcisceretur et dignam ab eis poenam exigeret, usque dum,
omnibus qui resistere solebant profligatis et in suam potestatem redactis,
decem milia hominum ex his qui utrasque ripas Albis fluminis incolebant
cum uxoribus et parvulis sublatos transtulit et huc atque illuc per Galliam et
Germaniam multimoda divisione distribuit. Eaque conditione a rege
proposita et ab illis suscepta tractum per tot annos bellum constat esse
finitum, ut, abiecto daemonum cultu et relictis patriis caerimoniis,
Christianae fidei atque religionis sacramenta susciperent et Francis adunati
unus cum eis populus efficerentur.

彼らは時おり約束を反故にしたが、罰されずにすんだことは一度もなかった。王
自らが率いた、あるいは代理に委ねた軍により、不誠実は罰せられ、相応の罰が
科せられた。しまいには、抵抗し続けた者はすべて滅ぼし、自分の管轄下におさ
め、エルベ川の両岸に住んでいたうち、1万人もの男たちを、妻と子どもも含め
て移住させ、ガリアとゲルマニアに様々な形で分割し住まわせた。また、王が示
した条件を彼らが受け入れ、長い年月続いた戦争も終結に至った。その条件と
は、異教の崇拝と先祖から受け継いだ儀式を放棄し、キリストの信仰と秘蹟の宗
教を受け入れ、フランク族に編入して単一の民族となることだった。

[8] Hoc bello, licet per multum temporis spatium traheretur, ipse non
amplius cum hoste quam bis acie conflixit, semel iuxta montem qui Osneggi
dicitur in loco Theotmelli nominato et iterum apud Hasa fluvium, et hoc uno
mense, paucis quoque interpositis diebus. His duobus proeliis hostes adeo
profligati ac devicti sunt, ut ulterius regem neque provocare neque venienti
resistere, nisi aliqua loci munitione defensi, auderent. Plures tamen eo bello
tam ex nobilitate Francorum quam Saxonum et functi summis honoribus viri
consumpti sunt. Tandemque anno tricesimo tertio finitum est, cum interim
tot ac tanta in diversis terrarum partibus bella contra Francos et exorta sint
et sollertia regis administrata, ut merito intuentibus in dubium venire possit,
utrum in eo aut laborum patientiam aut felicitatem potius mirari conveniat.

8.この戦は長い年月続いたが、にもかかわらず、シャルル自身は二度しか敵と
相まみえていない。一度目は、デトモルトという名の場所でオズニングと呼ばれ
ている山の近く、二度目はハーゼ川(?)で、これは数日を置いて一ヶ月のうち
に行われた。この二度の戦闘では、敵は壊滅し、征服され、別の城塞を守る以外
に、王に対してそれ以上挑発したり、進撃に対して抵抗したりしなくなった。と
はいえ、この戦では、フランク人、ザクセン人双方で、高貴な家柄の出で名誉あ
る地位に就いていた多くの男たちが命を落とした。33年を経てようやく戦が終
わるまでの間、各地でフランク人に対する多くの戦闘が起こったが、王はそれを
巧みにおさめた。とはいえ、この功績を改めて考えてみると、讃えるべきは苦労
に耐え忍んだことなのか、それとも幸運に恵まれたことなのか、疑問を呈しても
無理はないだろう。

Nam biennio ante Italicum hoc bellum sumpsit exordium, et cum sine
intermissione gereretur, nihil tamen ex his quae aliubi erant gerenda
dimissum aut ulla in parte ab aeque operoso certamine cessatum est. Nam
rex, omnium qui sua aetate gentibus dominabantur et prudentia maximus et
animi magnitudine praestantissimus, nihil in his quae vel suscipienda erant
vel exsequenda aut propter laborem detractavit aut propter periculum
exhorruit, verum unumquodque secundum suam qualitatem et subire et
ferre doctus nec in adversis cedere nec in prosperis falso blandienti
fortunae adsentiri solebat.

この戦はイタリアとの戦争が起きる2年前に始まり、絶え間なく続いたが、だか
らといって、他の平定すべき戦がおろそかにされたり、同じように骨の折れる戦
の一部が放棄されたりすることはなかった。王は、その時代に部族を支配してい
たあらゆる王のうち、最も周到であり、最も優れた見識の広さをもっていて、な
すべきいかなること、果たすべきいかなることにおいても、労苦を惜しむことも
なく、また危険に尻込みしたりもしなかった。その都度、おのれの才覚でもって
引き受けてはこなし、敵に譲歩することも、繁栄にあって偽りの幸運に惑わされ
ることもなかった。

               **********

ザクセン族に初めて言及した史料はプトレマイオスの『地誌』なのだそうです
(未確認です。ちょっと確認したいですね)。前回ちょっと取り上げたサン・
ヴィクトルのヨアンネスの『王国分割論』(14世紀)には、中世の百科事典に
相当するセビリアのイシドルスの『語源録』(7世紀)からの引用があります。
『語源録』第9巻には、「ザクセン族は海岸の道なき湿地に住み、勇敢さと機敏
さに長けている。その名(saxum:岩)で呼ばれるのは、頑強で逞しく、他の海
賊に立ち向かうからである」とあります(ちなみにイシドルスの『語源録』は、
http://www.thelatinlibrary.com/isidore.htmlなどにあります)。

補足(というか確認ですが)しておくと、ザクセン人は現在の北西ドイツあたり
に住んでいて、その一部がアンゲルン族とともにブリテン島に渡ったということ
で、これがアングロ=サクソンと呼ばれることになります。どうもこのザクセン
族、多数の小部族の寄せ集めのようなものだったらしいとされています。シャル
ルマーニュが彼らと戦ったのは772年から804年までで、本文にもありますが、
移住やキリスト教への改宗を強いたようです。

次回は9章、10章あたりを見ていきます。今度はスペインなどでの戦いです
(戦争の話は14章あたりまで続きます)。

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(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)
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