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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.12 2003/07/19

------新刊情報--------------------------------------------
いくつか新刊情報が届いています。夏は避暑地で読書……と行きたいところです
が、忙しかったりすると、なかなか都市部を離れられません(笑)。

○『聖像画論争とイスラーム』
若林啓史著、知泉書館、ISBN:4-901654-14-4

内容説明には「7世紀のイスラーム帝国による征服後の、パレスティナ、シリ
ア、エジプトのキリスト教徒の歴史をたどる。受身の存続にとどまることなく、
主体的に共有の文明を築いていった姿を描く論考」とあります。7世紀ごろの中
東の歴史というのも、アクチャルな問題を孕んでいそうですね。

○『セロ 中世セルビアの村と家 』(人間科学叢書35)
ストヤン・ノヴァコヴィチ著、越村勲、唐沢晃一訳、刀水書房、ISBN:4-
88708-294-0

なんと、中世セルビアの農村社会史を詳述した一冊とのことです。バルカンあた
りは、地政的にも重要な地域ですが、文化的背景なども含めなかなか見えてこな
いもどかしさがあります。その意味でも貴重な一冊だと思われます。

○『十字軍の思想』(ちくま新書422)
山内進著、筑摩書房、ISBN:4-480-06122-3

『北の十字軍』(講談社選書メチエ)などの著者による最新刊。十字軍の思想的
背景にはなかなか面白い問題があるように思えますが、これは昨今の対イスラム
的な米欧のスタンスまで視野に入れた概説書のようです。


------文献講読シリーズ-----------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その8

今回は前半の戦記部分の最後をなす13章と14章を見てみます。フン族とデーン
人との戦いについてです。
               # # # # # #
[13 ] Maximum omnium, quae ab illo gesta sunt, bellorum praeter
Saxonicum huic bello successit, illud videlicet, quod contra Avares sive
Hunos susceptum est. Quod ille et animosius quam cetera et longe maiori
apparatu administravit. Unam tamen per se in Pannoniam - nam hanc
provinciam ea gens tum incolebat - expeditionem fecit, cetera filio suo
Pippino ac praefectis provinciarum, comitibus etiam atque legatis
perficienda commisit. Quod cum ab his strenuissime fuisset administratum,
octavo tandem anno conpletum est. Quot proelia in eo gesta, quantum
sanguinis effusum sit, testatur vacua omni habitatore Pannonia et locus, in
quo regia Kagani erat, ita desertus, ut ne vestigium quidem in eo humanae
habitationis appareat. Tota in hoc bello Hunorum nobilitas periit. tota gloria
decidit.

彼が収めた戦のうち、ザクセン人との戦いを除き最も大きな戦が、この戦(前項
のスラブ人との戦い)に続いた。アヴァレスもしくはフン族に対して起こった戦
だ。王はその戦に、他よりも精力的に、またより長く周到な準備でもって臨ん
だ。だが彼自身が率いたのはパンノニア(ハンガリー)ーーその地方には当時、
同民族が定住していたーーへの遠征だけで、他の制圧は王の息子ピピンと地方の
総督、伯、さらには特使に委ねた。王は精力的に戦を進めたが、終結したのは8
年後だった。どれほどの戦闘が行われ、どれほどの血が流されたかは、パンノニ
アから住民がすっかりいなくなったことからも窺い知れる。また、ハーンの王国
があった場所も荒廃し、そこには人が住む痕跡すら残っていない。この戦いで、
フン族の貴族はすべて死に、あらゆる栄光も潰えた。

Omnis pecunia et congesti ex longo tempore thesauri direpti sunt. Neque
ullum bellum contra Francos exortum humana potest memoria recordari,
quo illi magis ditati et opibus aucti sint. Quippe cum usque in id temporis
poene pauperes viderentur, tantum auri et argenti in regia repertum, tot
spolia pretiosa in proeliis sublata, ut merito credi possit hoc Francos Hunis
iuste eripuisse, quod Huni prius aliis gentibus iniuste eripuerunt. Duo tantum
ex proceribus Francorum eo bello perierunt: Ericus dux Foroiulanus in
Liburnia iuxta Tharsaticam maritimam civitatem insidiis oppidanorum
interceptus, et Geroldus Baioariae praefectus in Pannonia, cum contra
Hunos proeliaturus aciem strueret, incertum a quo, cum duobus tantum, qui
eum obequitantem ac singulos hortantem comitabantur, interfectus est.
Ceterum incruentum poene Francis hoc bellum fuit et prosperrimum exitum
habuit, tametsi diutius sui magnitudine traheretur.

すべての貨幣や、長きにわたって集めた財宝も奪われた。フランク人に対してな
された戦で、これほど豊かで富が増えた戦は、人の記憶では一つも思い出せな
い。確かに、彼らはその時までほとんど貧しく見えていたが、宮廷には金銀が溢
れていることがわかり、戦では高価な戦利品を奪った。フランク人はフン族か
ら、フン族が以前他の民族から不正に略奪したものを略奪したのだと、正当に考
えてよいと思われる。この戦では、フランク人の貴族からは二人の死者が出ただ
けだった。フリウール公のエリックは、沿岸都市タルサティクス近くのリブルニ
アで、市民の待ち伏せで命を落とし、バイエルンの総督ジェロルドは、パンノニ
アで、フン族との戦いに向けて戦列を整え、二人の従者とともに馬から個々の兵
を奨励している時に、誰によるのかは不明ながら、殺害された。この戦では、他
のフランク人はほぼ無傷で、戦の期間こそ長かったものの、きわめて幸運な形で
終結した。

[14 ] Post quod et Saxonicum suae prolixitati convenientem finem accepit.
Boemanicum quoque et Linonicum, quae postea exorta sunt, diu durare non
potuerunt. Quorum utrumque ductu Karoli iunioris celeri fine conpletum
est. Ultimum contra Nordmannos, qui Dani vocantur, primo pyraticam
exercentes, deinde maiori classe litora Galliae atque Germaniae vastantes,
bellum susceptum est. Quorum rex Godofridus adeo vana spe inflatus erat,
ut sibi totius Germaniae promitteret potestatem. Frisiam quoque atque
Saxoniam haud aliter atque suas provincias aestimabat. Iam Abodritos,
vicinos suos, in suam ditionem redegerat, iam eos sibi vectigales fecerat.
Iactabat etiam se brevi Aquasgrani, ubi regis comitatus erat, cum maximis
copiis adventurum. Nec dictis eius, quamvis vanissimis, omnino fides
abnuebatur, quin potius putaretur tale aliquid inchoaturus, nisi festinata
fuisset morte praeventus. Nam a proprio satellite interfectus et suae vitae
et belli a se inchoati finem acceleravit.

その後、ザクセンの戦いも、その長さに相応しい結末を迎えた。ボヘミア人との
戦い、リノン人との戦いがその後起こったが、長くは続かなかった。いずれも、
シャルルの息子が指揮し、早くに終結した。さらにノルマン民族との戦が起き
た。デーン人と呼ばれる民族で、まずは略奪行為を働き、次いでガリアとゲルマ
ニアの沿岸を海軍でもって荒らしていた。その王ゴドフリードは、無益な夢を抱
き思い上がっていて、ゲルマニア全域に自分の支配を広めようとさえ考えてい
た。フリージアもザクセンも、自分の属領以外ではないと考えていたのだ。隣接
するアボドリトゥス人を自分の支配下におさめていたゴドフリードは、その民族
から自分に貢ぎ物をさせようとした。しばらくして、アーヘンに攻め入ったが、
そこは王が最大規模の軍を配していた。彼の言葉は空虚だったが、誰からも信用
されず、むしろ、すぐに死によって防がなければ、何か忌まわしいことが始まる
と人々は思っていた。こうしてゴドフリードは自分の従者によって殺害された。
彼の人生も彼が始めた戦も急展開したのだ。
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フン族と言い換えられているアヴァール人(アヴァレス)ですが、確かに両者と
も遊牧騎馬民族で近縁関係にあったといわれていますね。5世紀半ばにカスピ海
沿岸から他民族を征服しつつ西に進み、6世紀半ば以降、ドナウ川のあたりに定
住したとされます。スラブ系諸民族を支配してビザンティン帝国の向こうを張る
ほどの勢力を誇ったようですが、624年にビザンティンに破れ、テキストに描か
れたようにシャルルマーニュの軍にも撃退され、エンス川(オーストリア中部)
の東にまで追いやられたといいます。しかも上のテキストによれば、フランク人
はそうとうな財宝類を手に入れて潤ったのですね。終結まで8年かかったとされ
る戦争ですが、これは正確ではなく、791年に始まって797年には終わっていま
す。本文中に出てくるリブルニアというのは、ダルマチア(ユーゴスラビア西部
アドリア海沿岸)の近くのようです。

デーン人の方は、ご承知の通り今でもデンマークという呼び名に残っています
が、もともとはヴァイキングなのですね。フランクとの戦いは808年から810年
まで続いています。アーヘンが出てきますが、ここはシャルルマーニュのお気に
入りの地で、王宮を建造しています。アーヘンはローマではAquasgranusと呼
ばれていましたが、『新書ヨーロッパ史中世編』(講談社現代新書)にもあるよ
うに(pp.40-41)、これは水を意味するアクア(アーヘンは温泉地なのです
ね)と、穀物神アポロン・グラヌス(ラテンとケルトの結合形態のようです)か
らなる合成語でした。アクアがドイツ語に入ってアーヘンとなり、またフランス
語では「エクス(かつてはエの音だったとされる)」となり、さらにシャルル
マーニュの王宮礼拝堂(シャペル)を合わせて、「エクス・ラ・シャペル」とな
ります。

これで前半部に相当する戦記の部分は終了です。後半は統治の内容や私生活など
へと話が映っていきます。次回は15章から16章を取り上げていきましょう。


*本マガジンは隔週発行です。次回は8/02の予定です。
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(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)
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