silva13

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.13 2003/08/02

-----お知らせ--------------------------------------------
本マガジンは基本的に隔週で発行していますが、8月は夏休みのために、いくぶ
ん不定期になります。次号は8月23日、その後は9月6日の発行を予定していま
す。

------クロスオーバー-------------------------------------
アリストレテスの経済学?

一般に11〜12世紀ごろの西欧では、都市部の発展にともなって、貨幣経済や市
場などを中心とする商業活動が著しく発達した、とされますが、その一方で、い
わゆる互酬性は大きな比重を占めてもいたとも言われます。教会は、修道院を中
心に富を蓄えたりもしているのですが(修道院は自給自足ではなく、外部に対し
て開かれた存在だった、というのが近年明らかになってきているようです)、一
方では商業に否定的な発言を行ったりもしています。

最近、カール・ポランニーの『経済の文明史』が文庫化されましたが、とりわけ
面白いのはその経済人類学的スタンスです。労働、土地、貨幣など、本来商品に
するために作られるのではないものが商品と見なされるようになったことが、
19世紀以来の市場を中心とした経済体制の中心にあり、その経済は、社会に埋
め込まれていたはずの経済というものが社会から離床した体制なのだ、とポラン
ニーは説明します。この論集に収められた「アリストテレスによる経済の発見」
(第8章)では、表題のとおり、ポランニーはアリストテレスに注目し、それが
注目に値するのは、彼が生きた時代(前4世紀のギリシア)が、市場交易の先触
れをなす変化(交易の活発化と貨幣使用の拡大)が生じた時代であったからだ、
と述べています。市場経済がありうる唯一の経済体制ではない、とするポラン
ニーは、アリストテレスからも、なんらかのオルタナティブのヒントを探してい
こうとするのです。

ポランニーによると、アリストテレス(『政治学』や『ニコマコス倫理学』)の
見解は人間本来の姿を自給自足に置いていることから、人間の経済が希少性から
派生するものではないとされます。交易や価格にまつわる理論は、互酬性をベー
スにする、共同体についての一般理論から導かれるのです。ここからポランニー
は、稀少性が、自給自足であるはずの生活必需品(食料)の交易化と、物質的快
楽をよい生活と見る誤った考えからもたらされた観念(アリストテレスが批判す
る)だと見ています。

とりわけアヴェロエス派やトマス・アクィナスを通じて、アリストテレスは中世
盛期に大きな影響をもたらすわけですが、とすると、経済についてのそうしたア
リストテレス的な立場を、教会がどう取り入れていったか、あるいは実際の教会
組織(修道院や大学など)の機能との矛盾はなかったのか、あったとすればどう
克服していったのかなど、様々な興味がかき立てられます。また、一方でキリス
ト教と資本主義との間には本質的にパラレルな関係がありそうでもあり(これに
ついてはまた改めて取り上げましょう)、アリストテレスの受容を跡づけるとい
う作業は、思いのほか奥の深い探求領域のように思われます。

◎『経済の文明史』
カール・ポランニー著、玉野井芳郎・平野健一郎ほか編訳、ちくま学芸文庫
ISBN:4-480-08759-1

------文献講読シリーズ-----------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その9

今回は15章と16章の前半までを見てみましょう。戦の概観がひとまず終了し、
ここではその拡張された領土について記されています。訳は相変わらず端折った
りしていますが、今回は地名をできるだけ現代風の呼び名にしてみました。

               # # # # # #
[15 ] Haec sunt bella, quae rex potentissimus per annos XLVII - tot enim
annis regnaverat - in diversis terrarum partibus summa prudentia atque
felicitate gessit. Quibus regnum Francorum, quod post patrem Pippinum
magnum quidem et forte susceperat, ita nobiliter ampliavit, ut poene
duplum illi adiecerit. Nam cum prius non amplius quam ea pars Galliae, quae
inter Rhenum et Ligerem oceanumque ac mare Balearicum iacet, et pars
Germaniae, quae inter Saxoniam et Danubium Rhenumque ac Salam
fluvium, qui Thuringos et Sorabos dividit, posita a Francis qui Orientales
dicuntur incolitur, et praeter haec Alamanni atque Baioarii ad regni
Francorum potestatem pertinerent: ipse per bella memorata primo
Aquitaniam et Wasconiam totumque Pyrinei montis iugum et usque ad
Hiberum amnem, qui apud Navarros ortus et fertilissimos Hispaniae agros
secans sub Dertosae civitatis moenia Balearico mari miscetur;

以上が、最も権勢のあった王が47年の治世の間、各地で最大の英知と成功とを
もってなした戦である。父ピピン亡き後、強靱になったフランク王国を受け継い
だシャルルは、その領土を見事な形で拡大し、ほぼ倍の大きさにまでした。王国
は当初、ガリアの地とゲルマニアの地を出るものではなかった。前者はライン河
とロワール河、大西洋とバレアレス諸島の海域に挟まれた地域である。後者はザ
クセンとドナウ川、ライン川、さらにチューリンゲンとソルビアを隔てるザーレ
川に囲まれた地域で、東方人と呼ばれるフランク族が住んでいた。さらにアルマ
ン族とバイエルン族がフランク王国の支配下に入った。戦いの記述で示したよう
に、まずはアキテーヌとガスコーニュ、さらにピレネー山脈全域、さらには、ナ
バラ地方とエブロ川にまで及んだ。この川はヒスパニアの不毛の農地を流れ、ト
ルトーサの町の城塞においてバレアレス海にいたる。

deinde Italiam totam, quae ab Augusta Praetoria usque in Calabriam
inferiorem, in qua Graecorum ac Beneventanorum constat esse confinia,
decies centum et eo amplius passuum milibus longitudine porrigitur; tum
Saxoniam, quae quidem Germaniae pars non modica est et eius quae a
Francis incolitur duplum in late habere putatur, cum ei longitudine possit
esse consimilis; post quam utramque Pannoniam et adpositam in altera
Danubii ripa Daciam, Histriam quoque et Liburniam atque Dalmaciam,
exceptis maritimis civitatibus, quas ob amicitiam et iunctum cum eo foedus
Constantinopolitanum imperatorem habere permisit; deinde omnes
barbaras ac feras nationes, quae inter Rhenum ac Visulam fluvios
oceanumque ac Danubium positae, lingua quidem poene similes, moribus
vero atque habitu valde dissimiles, Germaniam incolunt, ita perdomuit, ut
eas tributarias efficeret; inter quas fere praecipuae sunt Welatabi, Sorabi,
Abodriti, Boemani - cum his namque bello conflixit -; ceteras, quarum multo
maior est numerus, in deditionem suscepit.

次にイタリア全域がある。アオスタからカラブリア南部までの地域で、ギリシア
とベネベント族の領地が境界をなし、距離にして10万フィートの十倍に及んで
いた。さらにザクセンもある。ゲルマニアの地はかなり広大な部分を占め、フラ
ンク族が住んでいた土地と縦はほぼ同じであるのに対して、横は倍におよぶと考
えられている。次にパンノニアと、ドナウ川を挟んだ対岸のダキア、さらにイス
トリア、リブルニア、ダルマティアにも至った。ただ沿岸都市は例外で、友好関
係と引き替えにビザンチンの皇帝と同盟を結ぶことを許した。また、ライン川と
ヴィスラ川、大西洋とドナウ川に囲まれたゲルマニアの地域に住んでいて、言語
こそほとんど同じながら風習や住居形態はかなり異なるすべての蛮族らを制圧
し、貢ぎ物を納めさせた。なかでも代表的な部族は、ヴェラタブス人、ソルビア
人、アボドリトゥス人、ボヘミア人などだった。ボヘミア人とは戦いを交えた
が、ほかの民族については、かなり規模の大きな民もあったものの、いずれも降
伏した。

[16 ] Auxit etiam gloriam regni sui quibusdam regibus ac gentibus per
amicitiam sibi conciliatis. Adeo namque Hadefonsum Galleciae atque
Asturicae regem sibi societate devinxit, ut is, cum ad eum vel litteras vel
legatos mitteret, non aliter se apud illum quam proprium suum appellari
iuberet. Scottorum quoque reges sic habuit ad suam voluntatem per
munificentiam inclinatos, ut eum numquam aliter nisi dominum seque
subditos et servos eius pronuntiarent. Extant epistolae ab eis ad illum
missae, quibus huiusmodi affectus eorum erga illum indicatur. Cum Aaron
rege Persarum, qui excepta India totum poene tenebat orientem, talem
habuit in amicitia concordiam, ut is gratiam eius omnium, qui in toto orbe
terrarum erant, regum ac principum amicitiae praeponeret solumque illum
honore ac munificentia sibi colendum iudicaret.

諸王や諸民族から寄せられた友好関係も、王国の栄光を高めた。シャルルは今や
ガリシアのアルフォンソ王およびアストゥリアス族とも同盟を結び、この者が文
書や使者を送る歳には、シャルルは必ず自分の配下と自称するよう命じた。シャ
ルルはスコットランド人の王たちも、寛大さをもって、進んで配下に加わるよう
促し、今や彼らはシャルルを支配者とし、自分たちが服従し隷属していることを
公言するようになっていた。彼らがシャルルに宛てた書簡が残っており、そこに
は王へのそのような態度が示されている。ペルシア人の王ハールーンは、インド
をのぞくオリエント全域を支配していたが、シャルルとは友情においても厚く、
地上の全域におよぶ諸王や君主の友情よりも、シャルルの好意を重んじ、栄誉と
寛大さをもって敬意を示すに相応しいと考えていた。
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今回の15章は、なんだかこれまでのまとめのような感じです(笑)。こうして
見ると、シャルルの王国がまさに一大ヨーロッパ帝国をなしていることが改めて
わかります。上の記述によれば、北は現ポーランド(ヴィスラ川)から、東は旧
ユーゴあたり(パンノニア、イストリア)あたり、さらにイタリア南部(カラブ
リア)をめぐって、地中海のバレアレス海域、そして南はスペイン北東部一帯
(ナバラ地方、エブロ川)にまで支配下に納めていたわけですね。

16章で出てくるアストゥリアスは、スペイン北西部ビスケー湾一帯の地域で、
ここの民は8世紀にイスラム教徒を斥けて王国をなしました。アルフォンソ王は
その王で(アルフォンソ2世)、文化的にもカロリング・ルネッサンスの影響を
強く受けた人物とされます。またペルシアのハールーンは、アッバス朝の最盛期
を作ったハールーン・アッラシード(在位786-809)のことでしょうか。
この人物は『千夜一夜物語』にも主役級で登場していますね。ちなみにこの『千
夜一夜物語』、最初期ものは8世紀後半の成立とされています(最終形は16世紀
ごろ)。16章の後半も、この人物との関係の話がまだ続きます。以下次号へ。

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(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)
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