silva14

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.14 2003/08/23

------新刊情報--------------------------------------------
いくつか新刊情報が届いています。

○『宗教と権力の政治』 (「哲学と政治」講義 2)
佐々木毅著、講談社
ISBN:4-06-271712-3

中世の教皇権の確立と、対する世俗の権力の拮抗を描いていく一冊のようです。
トマス・アクィナスからマキアヴェリまでをカバーするようです。スパンを広く
取っているだけに、どこまでその政治闘争の内実に迫ることができているのかが
気になりますね。

○『ユダヤ人の歴史』(世界歴史叢書)
アブラム・レオン・ザハル著、滝川義人訳、 明石書店
ISBN:4-7503-1761-6

これまた取り上げるスパンは壮大です。ヘブライ民族以前から現代まで4000年
におよぶユダヤの歴史を扱った総説のようで、翻訳で800ページを越える大著。
中東問題が緊張感高まる中、ある意味でタイムリーな一冊かもしれません。

○『百年戦争』(文庫クセジュ 864)
フィリップ・コンタミーヌ著、坂巻昭二訳、白水社、
ISBN:4-560-05864-4

百年戦争も、通史的にきっちり解説した本というのは以外と少ない気がします。
また、文庫で読める点でも貴重な一冊かもしれません。うーん、「クセジュ」の
シリーズは、時おり、概説書の枠を越えるほどに詳述がなされる場合もあったり
しますが(笑)、これはどうでしょうね?

○『誤りから救うもの』(ちくま学芸文庫)
ガザーリー著、中村広治郎訳、 筑摩書房
ISBN:4-480-08779-6

11世紀半ばから12世紀初頭にかけて活躍したイスラム神学者ガザーリー。ア
ヴィセンナ学派をはじめ、哲学批判を展開したことで知られていますが、同じく
ちくま学芸文庫で出たリーマンの『イスラム哲学への扉』(同じ訳者)による
と、ガザーリーの批判対象、つまり哲学の理解はかなり深いものがあったといい
ます。そういう意味でも興味深いものがあります。本書はその自伝だそうで、同
文庫のための訳し下ろしとか。

○『チョーサー中世イタリアへの旅』(神奈川大学評論ブックレット 23)
奥田宏子著、御茶の水書房
ISBN:4-275-01992-X

紹介文には「14世紀の英伊文化交流の一側面を、近年の中世交易ルートの諸問
題を視座に入れて浮き彫りにする」とあり、面白そうです。この著者には、中世
の聖書劇の研究もありますね。


------文献講読シリーズ-----------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その10

今回は16章の後半と17章を見ていきます。ちょっと16章の切り方が悪かったみ
たいですが、今回はハールーン・アッラシードとの交流の話からです。

               # # # # # #
Ac proinde, cum legati eius, quos cum donariis ad sacratissimum Domini ac
salvatoris nostri sepulchrum locumque resurrectionis miserat, ad eum
venissent et ei domini sui voluntatem indicassent, non solum quae
petebantur fieri permisit, sed etiam sacrum illum et salutarem locum, ut
illius potestati adscriberetur, concessit; et revertentibus legatis suos
adiungens inter vestes et aromata et ceteras orientalium terrarum opes
ingentia illi dona direxit, cum ei ante paucos annos eum, quem tunc solum
habebat, roganti mitteret elefantum.

次にシャルルは、我らが救い主の聖なる墓および復活の場所に捧げる奉納物とと
もに、使者を遣わした。使者たちは彼(ハールーン)のもとに赴き、シャルルの
意向を彼に告げた。ハールーンは、願いに応じたばかりか、その聖地までも、
シャルルの権勢に加えられるようにと譲り渡した。使者らが帰路につく際には、
自分自身の使者を同行させ、布や香料、その他オリエントの土地の産物など、膨
大な贈り物を持たせた。数年前、ハールーンはシャルルのたっての願いに応じ
て、自分が持っていた一頭しかない象を送ったことがあった。

Imperatores etiam Constantinopolitani, Niciforus, Michahel et Leo, ultro
amicitiam et societatem eius expetentes conplures ad eum misere legatos.
Cum quibus tamen propter susceptum a se imperatoris nomen et ob hoc
eis, quasi qui imperium eis eripere vellet, valde suspectum foedus
firmissimum statuit, ut nulla inter partes cuiuslibet scandali remaneret
occasio. Erat enim semper Romanis et Grecis Francorum suspecta potentia.
Unde et illud Grecum extat proverbium: ton Phragkon philon echis, gitona
ouk echis.

コンスタンティノポリスの皇帝たち、ニケフォロス1世、ミハエル1世、レオ5世
も、シャルルとの友好関係および同盟を望み、数多くの使者を遣わした。シャル
ルが皇帝の名を得ると、帝国が簒奪しようとしているとの疑いもあったが、強靭
な連盟を作り上げ、どちらの側にも遺恨が残らないようにした。ローマとギリシ
アにとって、フランクには潜在的な力があると見なされていた。ここから、次の
ようなギリシアの諺が生まれた。「フランクは友人にせよ、隣人にはするな」

[17 ] Qui cum tantus in ampliando regno et subigendis exteris nationibus
existeret et in eiusmodi occupationibus assidue versaretur, opera tamen
plurima ad regni decorem et commoditatem pertinentia diversis in locis
inchoavit, quaedam etiam consummavit. Inter quae praecipua fere non
inmerito videri possunt basilica sanctae Dei genitricis Aquisgrani opere
mirabili constructa et pons apud Mogontiacum in Rheno quingentorum
passuum longitudinis - nam tanta est ibi fluminis latitudo; qui tamen uno,
antequam decederet, anno incendio conflagravit, nec refici potuit propter
festinatum illius decessum, quamquam in ea meditatione esset, ut pro
ligneo lapideum restitueret. Inchoavit et palatia operis egregii, unum haud
longe a Mogontiaco civitate, iuxta villam cui vocabulum est Ingilenheim,
alterum Noviomagi super Vahalem fluvium, qui Batavorum insulam a parte
meridiana praeterfluit. Praecipue tamen aedes sacras ubicumque in toto
regno suo vetustate conlapsas conperit, pontificibus et patribus, ad quorum
curam pertinebant, ut restaurarentur, imperavit, adhibens curam per
legatos, ut imperata perficerent.

シャルルは、これほどまでに王国の拡張と諸国の民の征服に努め、そのような事
業に熱心に従事したが、王国の美化および快適化に向けた数多くの成果について
も、様々な場所で手がけ、享受した。そのうち間違いなく主要なものとして思わ
れるのが、優れた技で建造されたアーヘンの聖母マリア聖堂や、マインツにおい
てライン川に架けた、長さ500フィートの橋がある。そこの川幅がそれだけの長
さだからだが、この橋は王が死去する一年前に火災にあい、王の考えでは、木に
代えて石で建造し直すつもりだったのだが、王の突然の死のために修理もできな
かった。王はまた、卓越した技による王宮の工事にも着手した。一つはマインツ
の街のすぐそばで、インゲルハイムという名の別荘地の隣にあった。もう一つ
は、バタヴィアの諸島へと南部を流れるヴァール川沿いのナイメーヘンにあっ
た。だが、とりわけ王国全域のいたるところで聖なる建造物が老朽化しているこ
とを知った王は、その管理にあたっていた司教や司祭に、修復を施すよう命じ、
命令が履行されるよう使者を派遣し管理に当たらせた。

Molitus est et classem contra bellum Nordmannicum, aedificatis ad hoc
navibus iuxta flumina, quae et de Gallia et de Germania septentrionalem
influunt oceanum. Et quia Nordmanni Gallicum litus atque Germanicum
assidua infestatione vastabant, per omnes portus et ostia fluminum, qua
naves recipi posse videbantur, stationibus et excubiis dispositis, ne qua
hostis exire potuisset, tali munitione prohibuit. Fecit idem a parte meridiana
in litore provinciae Narbonensis ac Septimaniae, toto etiam Italiae litore
usque Romam contra Mauros nuper pyraticam exercere adgressos; ac per
hoc nullo gravi damno vel a Mauris Italia vel Gallia atque Germania a
Nordmannis diebus suis adfecta est, praeter quod Centumcellae civitas
Etruriae per proditionem a Mauris capta atque vastata est, et in Frisia
quaedam insulae Germanico litori contiguae a Nordmannis depraedatae
sunt.

彼はノルマン人との戦に備えて海軍の整備も進めた。ガリアおよびゲルマニアの
北部から大西洋に注ぐ川沿いでは、船の建造がなされていた。ノルマン人はガリ
アとゲルマニアの沿岸を度重なる攻撃で荒らしていたため、船が寄港できると思
われたすべての港と河口に、営舎と見張りを配置し、敵が上陸できないよう、そ
うした築城で阻んだ。また、ナルボンヌとセプティマニエ地方の南部の沿岸、さ
らにローマにいたるイタリア全域の沿岸にも、以前海賊行為に及んでいたムーア
人への対策として、同じような防衛を実施した。このため、シャルルの存命中
は、イタリアがムーア人によって、ガリアやゲルマニアがノルマン人によって、
甚大な損害を受けることはなかった。ただ、エトルリアのチヴィタヴェッキアの
街だけは、ムーア人に掌握され略奪された。また、フリジアでは、ゲルマンの沿
岸に接したいくつかの島がノルマン人によって略奪された。
               # # # # # #

ハールーンはアッバース朝の5代目カリフで、その全盛期を築いた人物とされま
す。宗教的には寛容政策を敷いていたらしいことが、上の記述からも窺えます。
聖地訪問を許し、さらにその地に関するなんらかの権利を譲った(?)のですか
ら、相当なものです。ディミトリ・グタスの『ギリシア思想とアラビア文化』
(山本啓二訳、勁草書房)に詳しく記されていますが、アッバース朝では2代目
カリフのマンスール以降、ギリシア語やシリア語の文献の翻訳活動が盛んに行わ
れ、異教徒間の対話・議論も奨励されていったようです。ビザンチン皇帝として
名の上がった三名は、順に802年から820年まで在位した人々です。16章の最
後にギリシア語の諺が出てきますが、このテキストのローマ字表記はちょっと面
白いですね。現代ギリシア語風の読み方を彷彿とさせます。長母音のeがiになり
(echis)、eiがiになっています(gitona)。

続く17章は建造物についての記述ですが、最初のアーヘンの聖堂(王宮付属の
礼拝堂)は有名ですね。遺構があるそうで、マインツのローマ・ゲルマン中央博
物館にはその復元模型もあるそうです(『新書ヨーロッパ史、中世編』、講談社
新書)。当時の橋が木造だったことが記されていますが、王宮も木造が主だった
ようです。ところがこの礼拝堂は石造りだったらしいとのことです。後半に出て
くるムーア人(マウロス)は、北西アフリカの民族で、今でいうベルベル人など
を指します。基本的にはアラブ・イスラム化した人々で、イベリア半島にまで進
出していたということです。沿岸警備に力を注いだシャルルという図は、文脈は
まったく違いますが、難民流入を水際で防ごうとする現在の欧州各国にも、どこ
か重なって見えてしまいます。

次回は18章から19章にかけてを見ていきたいと思います。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は9月6日の予定です。
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(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)
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