silva18

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.18 2003/10/18

------新刊情報--------------------------------------------
ようやく過ごしやすく、腰を据えて書籍が読みたい季節になりました。というわ
けで、新刊情報です。

○『中世ヨーロッパ食の生活史』
ブリュノ・ロリウー著、吉田春美訳、原書房
ISBN:4-562-03687-7

解説文には「中世ヨーロッパの料理書、作法の手引き、勘定書、財産目録、文学
作品、考古学的発見など、あらゆる資料を駆使し、貴族の『饗宴』から庶民の日
常食にいたるまで、『食べる』という行為を多岐にわたって再現した食生活の歴
史」とあって、大変面白そうです。もし復元レシピでも載っていたら、ぜひ作っ
てみたいところです(笑)。

○『中世ヨーロッパと多文化共生』
原野 昇ほか著、渓水社
ISBN:4-87440-776-5

多文化共生は現代的なキーワードでもありますが、中世ヨーロッパはそのフィー
ルドとして刺激的です。これは昨年末の日本中世英語英文学会主宰のシンポジウ
ムの紀要のようです。中世ヨーロッパでの多文化共生というと、シチリア王国や
スペインのアラブ圏などが注目されていますが、別の地域もそういう視点で見直
していけそうな気がします。イングランド方面などはどうだったか、気になると
ころです。

○『鏡の文化史』(りぶらりあ選書)
サビーヌ・メルシオール=ボネ著、竹中のぞみ訳、法政大学出版局
ISBN:4-588-02211-3

自己認識のツール(精神分析の鏡像段階ではありませんが)としても、貴族の宝
物あるいは贅沢品としても、ひいては光学を導く実験装置としても、鏡は大変重
要な人工物です。その変遷を追った「心性史」ということで、面白そうな一冊で
す。著者のメルシオールは、フランスの著名な歴史家ジャン・ドリュモーの助手
だった人だということです。ドリュモーは確かアナール派の第三世代と称されて
いましたから、こちらは第四世代?いずれにせよ「心性史」の掘り起こしにも、
まだまだ多くの研究領域がありそうですね。

○『「大論理学」註解5』 第3部−3、第3部−4
オッカム著、渋谷克美訳註、 創文社
ISBN:4-423-17137-6

14世紀初頭に活躍したオッカムのウィリアム。その著書『大論理学』の世界初
の全編現代語訳は、全5巻ということでした。で、今回、1〜3に加え5が出たの
ですね。『大論理学』(Summa logicae)は、第一部のいくつかの章だけを見
ても(ドイツの出版社から第一部の抜粋・羅独対訳本が出ていますが)、まさし
く記号論的で実に刺激的です(晦渋でもありますが)。日本語訳もぜひ参照した
いところです。


------文献講読シリーズ-----------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その14

今回見ていくのは、24章と25章、食と学問の話の箇所です。シャルルマーニュ
は学問を重んじ、その宮廷では学者たちが徴用され、カロリングルネサンスとい
われる古典復興が形作られたのでした。

               # # # # #
[24 ] In cibo et potu temperans, sed in potu temperantior, quippe qui
ebrietatem in qualicumque homine, nedum in se ac suis, plurimum
abhominabatur. Cibo enim non adeo abstinere puterat, ut saepe quereretur
noxia corpori suo esse ieiunia. Convivabatur rarissime, et hoc praecipuis
tantum festivitatibus, tunc tamen cum magno hominum numero. Caena
cotidiana quaternis tantum ferculis praebebatur, praeter assam, quam
venatores veribus inferre solebant, qua ille libentius quam ullo alio cibo
vescebatur. Inter caenandum aut aliquod acroama aut lectorem audiebat.
Legebantur ei historiae et antiquorum res gestae. Delectabatur et libris
sancti Augustini, praecipueque his qui de civitate Dei praetitulati sunt. Vini
et omnis potus adeo parcus in bibendo erat, ut super caenam raro plus
quam ter biberet. Aestate post cibum meridianum pomorum aliquid sumens
ac semel bibens, depositis vestibus et calciamentis, velut noctu solitus
erat, duabus aut tribus horis quiescebat.

飲食は質素だったが、とりわけ飲むことについて控えめだった。誰についてであ
れ、ましてや自分や身内の者についてなら尚いっそう、酔うことを忌み嫌ってい
た。食べる方はなかなか自制できず、断食は体にとって害だとしばしば嘆くほど
だった。宴を催すのはきわめて稀で、祝いの時が主だったが、その際には大人数
を招いた。日々の食事は4皿が給仕されたが、焼肉は別で、狩人らが串に刺して
給仕するのが常だった。王はそれを、他のどの食べ物よりも好んで食した。食事
の間、王は音楽(即興詩人の歌)や朗読を聴いた。歴史書や古代の叙事詩が読ま
れた。王は聖アウグスティヌスの書物、とりわけ『神の国』を表題とする著作を
好んだ。葡萄酒ほかあらゆる飲み物については控えめにしか口にせず、食事に際
しても三度以上飲むことは滅多になかった。夏の昼食後にはいくらかの果物を食
し、飲み物も一度は口にして、夜ならばいつでもそうしていたように、服や履き
物も脱いで2、3時間休むのだった。

Noctibus sic dormiebat, ut somnum quater aut quinquies non solum
expergescendo, sed etiam desurgendo interrumperet. Cum calciaretur et
amiciretur, non tantum amicos admittebat, verum etiam, si comes palatii
litem aliquam esse diceret, quae sine eius iussu definiri non posset, statim
litigantes introducere iussit et, velut pro tribunali sederet, lite cognita
sententiam dixit; nec hoc tantum eo tempore, sed etiam quicquid ea die
cuiuslibet officii agendum aut cuiquam ministrorum iniungendum erat
expediebat.

夜、眠りについても、4、5時間もすれば睡眠は中断され、王は単に目覚めるだ
けでなく起きあがりもした。いったん履き物や服を身につけると、友人らを招き
入れるだけでなく、宮廷内の貴族達から王の命令なしには決着がつかないような
諍いの話を聞けば、すぐに当事者らを呼び寄せるよう命じ、裁判を取り仕切るが
ごとく、審議し決定を下したりもした。この時間帯にはそればかりでなく、その
日になすべきあらゆる公務と、使いの者に託すべき公務とを振り分けてもいた。

[25 ] Erat eloquentia copiosus et exuberans poteratque quicquid vellet
apertissime exprimere. Nec patrio tantum sermone contentus, etiam
peregrinis linguis ediscendis operam impendit. In quibus Latinam ita didicit,
ut aeque illa ac patria lingua orare sit solitus, Grecam vero melius
intellegere quam pronuntiare poterat. Adeo quidem facundus erat, ut etiam
dicaculus appareret.

王は弁に長け、言いたいことはどんなことでも明確に表現することができた。祖
国の言葉だけでは満足せず、外国の言葉も覚えようと努力した。なかでもラテン
語は、祖国の言葉と同じように話せるほどに学んでいた。ギリシア語は話すより
も理解する方に長けていた。王の弁舌の才は、機知に富んでいることを思わせる
に足る見事さだった。

Artes liberales studiosissime coluit, earumque doctores plurimum
veneratus magnis adficiebat honoribus. In discenda grammatica Petrum
Pisanum diaconem senem audivit, in ceteris disciplinis Albinum cognomento
Alcoinum, item diaconem, de Brittania Saxonici generis hominem, virum
undecumque doctissimum, praeceptorem habuit, apud quem et rethoricae
et dialecticae, praecipue tamen astronomiae ediscendae plurimum et
temporis et laboris inpertivit. Discebat artem conputandi et intentione
sagaci siderum cursum curiosissime rimabatur.

王は自由学芸を熱心に学び、その博士たちには大いなる敬意を払っていた。文法
は、年のいった助祭ピサのペトルスに学んだ。その他の学科については、アルク
インとも呼ばれたアルビヌスを教師とした。この人物も助祭だったが、ブリタニ
アのサクソン族の出で、学科を問わず博学だった。王は彼のもとで、修辞学や弁
証法(論理学)、そしてとりわけ天文学の習得に最大限の時間と努力とを費やし
た。算術も学び、旺盛な知的意欲をもって、星の運行を実に熱心に研究してい
た。

Temptabat et scribere tabulasque et codicellos ad hoc in lecto sub
cervicalibus circumferre solebat, ut, cum vacuum tempus esset, manum
litteris effigiendis adsuesceret, sed parum successit labor praeposterus ac
sero inchoatus.

王は書板の類に文字を書こうと務め、寝る時にも枕の下に持ち込むのを常とする
ほどだった。暇さえあれば手で文字を書く練習を行うようになったが、なかなか
思うに任せず、遅くに始めたためもあって、あまり成果は芳しくなかった。
               # # # # #

食事中は歌など(当時の即興詩人は歌い手だったわけですが)に耳を傾けていた
というシャルルマーニュですが、朗読されていたものとして挙げられる歴史書や
叙事詩が具体的にどの作品だったのか気になるところです。ラテン語などによる
朗読だったのは、アウグスティヌスの『神の国』が挙げられていることからもわ
かります。言うまでもありませんが、『神の国』は、古代からの異教の思想を検
討しながら、キリスト教や教会の位置づけを論じていくという大著で、さながら
歴史哲学的な著作です。413年から14年間もの歳月をかけて記されたのでし
た。王は、文字の読み書きは別として、「話す聴く」に関してはラテン語も相当
に堪能だったのでしょう。現代なら自国語のことを母語・母国語と言いますが、
このテキストではpatrius(父の、祖国の) sermo(言葉)が使われているのも
興味深いですね。「母」語といわれるようになるのはどのあたりからなのでしょ
うか?そのうち調べてみることにします。

よく知られている通り、自由学芸(自由七科)は普通、言語に関係するものとし
て文法、修辞学、論理学をひとまとめに三科、算術、幾何学、音楽、天文学を数
に関係するものとして四科に分けます。文法を教えていたピサのペトルスは、ロ
ンバルディアとの戦の後にアーヘンに招かれたようです。ほかの学科を担当して
いたというアルクインは、781年にイタリアでシャルルと出会いアーヘンに招か
れ、宮廷のいわば文化大臣のような職務に就いた人物です(私たちが読んでいる
著者アインハルトの前任者です)。カロリングルネサンスの立役者ともいわれ、
アーヘンとトゥールで学校を開いたりもしています。シャルルとアルクインが修
辞学をめぐって対話するというテキストもあります("disputatio de
rhetrica":ラテン語のテキストはhttp://www.thelatinlibrary.com/
alcuin.rhetorica.html)。さらに、ここには登場しませんが、ほかに宮廷に呼ば
れた学者にはイタリアのパウルス・ディアコヌス、スペインのテオドゥルフ、ブ
リタニアのクレメンスなどがいます。シャルルマーニュの宮廷学校の話は、9世
紀の修道士ノトカー(別名バルブルス)による『シャルルマーニュ伝』などにも
詳しく伝えられているようです。

               # # # # #

さて、前回シャルルマーニュ像の写真などを紹介しましたところ、貴重な情報を
いだたきました。スイスのミュスタイルというところにあるという聖ヨハネ修道
院聖堂に、シャルルマーニュの像があるのだそうです。http://
homepage1.nifty.com/Pyrus/sh/0201/img020199/044.jpgがその写真で、
この像もやはり手に球(十字架つき)を持っているようです。ミュスタイルとい
う場所はフィンシュガウ渓谷にあるとのことですが、シャルルマーニュの最初の
妻はフィンチュガウ(=フィンシュガウ)伯の娘(ヒルデガウルト・ヴォン・
フィンチュガウ)だったのだと教えていただきました。

なお、この写真が置かれているサイトは、ロマネスク建築・美術に関する写真や
解説などが大変充実していて、実に読み応えがありますね。グリーンマン(教会
建築の装飾として登場する「葉男」ですね)のコレクションも興味深いです。
トップページはhttp://homepage1.nifty.com/Pyrus/index1.htmlです。まさ
に一見の価値あり、です。

次回は26〜27章の予定です。シャルルマーニュの宗教生活などに触れた箇所で
す。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は11月01日の予定です。
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(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)
http://www.asahi-net.or.jp/%7Edi4m-smzk/
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