silva19

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.19 2003/11/01

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シチリア王国

NHKの人間講座というシリーズで、歴史学者の高山博氏による「文明共存の道を
求めて」が始まっています。中世地中海世界に関する高山氏の仕事は実に刺激的
です。特に、ノルマン人が12世紀に作り上げたシチリア王国の歴史には、昨今
の文化衝突・文化共存の問題を考える上で興味深いものがあります。ロジェ(ロ
ゲリウス)2世から始まるシチリア王国は、ラテン・キリスト教文化圏、イスラ
ム教文化圏、そしてギリシア・ビザンツ文化圏の中継点のような役割を果たした
といわれます。それまでアラブ人の支配下にあったシチリアにノルマン人が入っ
たのが発端のようですが、征服した側が被征服側の行政機構などを取り込み、役
人にも多数「異教徒」が登用されていきます。「ここには、敵味方の関係が宗教
によって色分けされるのではなく自分との利害関係によるのだという事実が明瞭
に示されている」と高山氏は書いています(『中世シチリア王国』p.68)。

かくしてそこには混成的文化が育まれます。ロジェ2世はイスラムの地理学者ア
ル・イドリーシーに『ロジェ王の書』(地理学の書)を編纂させているといいま
すし、続くギヨーム(ウィレルムス)1世の治世には、プラトンの『メノン』
『パイドン』、アリストテレスの『気象論』、プトレマイオス『光学』などがギ
リシア語からラテン語に訳されているといいます(以上は山本義隆『磁力と重力
の発見1』から)。これはいわゆる寛容政策だったのでしょうか?ジクリト・フ
ンケなどはそこに「同等の、そして賛嘆すべき敵手に対して敬意を払うというゲ
ルマン的義務」(『アラビア文化の遺産』p.235)を見ていますが、高山氏はそ
うではないとし、「強力な王権がアラブ人を必要とし、彼らに対する攻撃や排斥
を抑制していたからである」(前掲書p.184)と述べています。

さて、このシチリア王国は3代続き、傍系の孫として神聖ローマ皇帝フリードリ
ヒ2世に受け継がれます。この人物もかなり重要で、十字軍への派兵問題で教皇
から破門されるのですが、独自に組織した十字軍をもって、流血を伴わず、交渉
を通じてエルサレムを獲得します。これはまさに離れ業でしたが、その後の状況
は、出し抜かれて面目を失った教会の復讐と、イスラム側の猜疑心によって合意
は崩れていくのですが、いずれにしても、これが歴史上の特異な一時期であった
ことは確かです。そういえば、NHKが毎月放映している「文明の道」シリーズで
も、11月放映分でこのあたりのエピソードを取り上げるようです。期待しま
しょう。

フリードリヒ2世も学術・文芸を手厚く保護し、宮廷に様々な学者を招いたほ
か、みずからも、鳥の生態についての学術書『鳥を用いた狩りの技術について』
の著者でもあったといいます。情報によると、最近出た藤原書店の学芸誌『環』
の最新号に、イリイチなどの論考に並んで、S.トラップ「フリードリヒ2世とハ
ヤブサのスピード」なる論考が掲載されているとのこと。どんな内容なのか見て
みたいですね。いずれにしても、イベリア半島のアル・アンダルシアと並ぶ文化
の一大交差路となったシチリア王国が、興味の尽きないフィールドであることは
確かです。現代社会の再考とブレークスルーのためのヒントが、もしかしたら埋
もれているかもしれませんね。

○NHK人間講座「文明共存の道を求めて」(2003年10月〜11月)
講師:高山博、教育テレビ、火曜午後10:25〜10:50 再放送:火曜午後2:00
〜2:25
テキスト:日本放送出版協会、ISBN4-14-189092-8

○高山博『中世シチリア王国』
講談社現代新書、1999年、ISBN4-06-149470-8

○山本義隆『磁力と重力の発見1 古代・中世』
みすず書房、2003年、ISBN4-622-08031-1

○ジクリト・フンケ『アラビア文化の遺産』
高尾利数訳、みすず書房、1982-2003年、ISBN4-622-07039-1

○『環 Vol.15 特集:スピードとは何か』
藤原書店、2003年、ISBN4-89434-356-8


------文献講読シリーズ-----------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その15

今回取り上げる26章と27章は、主に宗教生活について触れた部分です。シャル
ルマーニュは教皇とのつながりもあって、敬虔なキリスト教徒だったとされてい
ます。それを端的に表すのは寄進や教会の建造ですが、アーヘンの大聖堂もその
一つです。

               # # # # # #
[26 ] Religionem Christianam, qua ab infantia fuerat inbutus, sanctissime et
cum summa pietate coluit, ac propter hoc plurimae pulchritudinis basilicam
Aquisgrani exstruxit auroque et argento et luminaribus atque ex aere solido
cancellis et ianuis adornavit. Ad cuius structuram cum columnas et
marmora aliunde habere non posset. Roma atque Ravenna devehenda
curavit. Ecclesiam et mane et vespere, item nocturnis horis et sacrificii
tempore, quoad eum valitudo permiserat, inpigre frequentabat, curabatque
magnopere, ut omnia quae in ea gerebantur cum qua maxima fierent
honestate, aedituos creberrime commonens, ne quid indecens aut
sordidum aut inferri aut in ea remanere permitterent.

幼少の頃から親しんだキリスト教を、王はこの上なく篤く敬虔に奉じ、そのため
にアーヘンには、実に見事な大聖堂を建造し、金銀やその他の宝石で飾り、また
柵や扉は青銅で飾った。その建築用の柱石や大理石は余所では手に入らず、ロー
マとラヴェンナから取り寄せた。王は朝晩、つまり日の出前やミサが執り行われ
る時間に、健康状態が許す限り勤勉に聖堂を訪れ、そこで執り行われるすべての
ことがこの上なく素晴らしくなされるよう気を配り、相応しくないものや不浄な
ものが聖堂に持ち込まれたり残されたりしないよう、聖具室係に頻繁に注意を促
していた。

Sacrorum vasorum ex auro et argento vestimentorumque sacerdotalium
tantam in ea copiam procuravit, ut in sacrificiis celebrandis ne ianitoribus
quidem, qui ultimi ecclesiastici ordinis sunt, privato habitu ministrare
necesse fuisset. Legendi atque psallendi disciplinam diligentissime
emendavit. Erat enim utriusque admodum eruditus, quamquam ipse nec
publice legeret nec nisi submissim et in commune cantaret.

王は金銀の聖具や司祭用の衣服の数々を聖堂に備え付け、ミサを執り行う際に、
教会の階級の最下層に位置する扉番にいたるまで、自前の衣服で職務を行わなく
てはならないようなことのないよう取り計らった。王はまた、朗読の仕方や歌い
方についても入念に改良を加えた。王はその両方にきわめて長けていたが、みず
から公の場で朗読することはなく、また、会衆の中で歌う時も低い声で歌った。

[27 ] Circa pauperes sustentandos et gratuitam liberalitatem, quam Greci
eleimosinam vocant, devotissimus, ut qui non in patria solum et in suo
regno id facere curaverit, verum trans maria in Syriam et Aegyptum atque
Africam, Hierosolimis, Alexandriae atque Cartagini, ubi Christianos in
paupertate vivere conpererat, penuriae illorum conpatiens pecuniam
mittere solebat; ob hoc maxime transmarinorum regum amicitias expetens,
ut Christianis sub eorum dominatu degentibus refrigerium aliquod ac
relevatio proveniret.

ギリシア人が「eleemosyna(慈善)」と呼ぶ、貧者の支援や無償の施しについ
ても王は実に熱心で、祖国や王国の中だけでそれを実践しようとするのではな
く、海を越えたシリアやエジプト、アフリカ、つまりエルサレム、アレクサンド
リア、カルタゴなど、キリスト教徒が貧困の中で生活している場所があると知る
と、その窮乏を哀れみ、送金するのを常とした。こうして王は、海外の王と最大
限の友好関係を結ぼうとし、その王の支配下で暮らすキリスト教徒に、いくから
の安らぎや労苦の軽減がもたらされるよう務めた。

Colebat prae ceteris sacris et venerabilibus locis apud Romam ecclesiam
beati Petri apostoli; in cuius donaria magna vis pecuniae tam in auro quam
in argento necnon et gemmis ab illo congesta est. Multa et innumera
pontificibus munera missa. Neque ille toto regni sui tempore quicquam duxit
antiquius, quam ut urbs Roma sua opera suoque labore vetere polleret
auctoritate, et ecclesia sancti Petri per illum non solum tuta ac defensa,
sed etiam suis opibus prae omnibus ecclesiis esset ornata atque ditata.
Quam cum tanti penderet, tamen intra XLVII annorum, quibus regnaverat,
spatium quater tantum illo votorum solvendorum ac supplicandi causa
profectus est.

ローマでは、他の聖地の数々よりも、王は使徒聖ペトロの教会を重んじていた。
教会への奉納物には、金銀の財宝のほか、数々の宝石も集められた。歴代の教皇
には、様々な、数えられないほどの贈り物を送った。王はその治世を通じて、お
のれの偉業と労力によりローマの街がかつての権威を取り戻すことをなによりも
重んじ、また聖ペトロの教会は、彼によって保護され防衛されただけでなく、そ
の財力によって、他のあらゆる教会に勝るほど美しく、また豊かになった。王は
かくも多くの財を費やしたのだが、47年におよぶその治世において、誓いを果
たし礼拝するためにその地に赴いたのはわずか4度だった。
               # # # # # #

現在のアーヘンの大聖堂は世界遺産に指定されています。この大聖堂の画像はい
ろいろなところにありますが、まとまっているものとして、次のページを挙げて
おきましょう。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/2935/whaachen.htm
これまた有名なシャルルマーニュの黄金像(胸像)の写真もありますね。

国外の支配者との友好関係が、キリスト教徒の保護という実利性を帯びていると
いうのも興味深いですね。先の16章で、アッバス朝の5代目カリフ、ハールー
ン・アッラシードから象が贈られた逸話がありましたが、その時の取り決めもそ
うしたものだったのでしょう。余談になりますが、その象についての詳しい話
が、ミシェル・パストゥロー著『王を殺した豚 王が愛した象−−歴史に名高い
動物たち』(松村理恵、松村剛訳、筑摩書房)に出ています。それによると、
シャルルマーニュは、アーヘンの宮殿近くにライオンと豹を飼っていて(アフリ
カの王から贈られたのだそうです)、800年の戴冠式用に、もっと見栄えのする
動物を探していたといいます。珍しい動物は権力誇示の手段だったのですね。そ
して、ハールーンはビザンチンへの同盟関係ということで贈り物をします。かく
して贈られた象は二頭だったそうですが、一頭は途中で亡くなり、もう一頭(ア
ブル・アバスという名前)がアーヘンの宮廷動物園に入ります。当時の宮廷動物
園は王とともに巡回していたといい、この象は810年にゲルマニアへの遠征途中
に亡くなったとのことです。

この象とシャルルとの関係は、後に象牙製角笛(死んだ象から作られたとされま
す)伝説や、チェス伝来の伝説(ハールーンからの贈り物に象牙製のチェスが
あったという話。実際は1000年ごろに別経路で入ったと書かれています)を生
んでいくのだといいます。伝説は後世に政治的な意図などから作られていくもの
ですが、シャルルマーニュはとりわけ、そうしたフィクションが根付きやすい、
独特の土壌をなしている気がします。そのあたりを考察してみたら面白いでしょ
うね。

次回は28章、29章の予定です。皇帝戴冠前後について述べられています。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は11月15日の予定です。
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(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)
(↓アドレス変わりました)
http://homepage.mac.com/mksmzk/
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