silva20

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.19 2003/11/15

------クロスオーバー-------------------------------------
ノルマン・コンクエスト

多文化共生という観点から面白そうな研究領域として、先に12世紀のシチリア
王国に言及しましたが、中世には様々な形でそうした「共生」の状況が見られる
と思われます。ノルマン・コンクエスト後のイングランドの状況もその一つで
す。ノルマン人はいわゆるバイキングまたは北方のゲルマン人のことで、9世紀
ごろにはすでに南下してきていたとされます。現フランスのノルマンディ地方
(シチリア王国を築いたロジェ2世の祖先もそこの出身でした)は、デンマーク
系の一派がシャルル3世と封建主従契約を結び、セーヌ川下流一帯を封土とした
ことから名付けられたものです。その地に住むノルマン人は、フランスの貴族た
ちとの婚姻関係などを通じて、早い段階から北方的な風俗を捨てていたといわれ
ます。

そしてそのノルマンディー公だったウィリアムが、1066年にイングランドを征
服したのがいわゆる「ノルマン・コンクエスト」で、王位継承を主張していた
ウェセックス家の傍系ハロルドとの戦いはわずか1日で終わり(10月13日)、
ウィリアムはその年のクリスマスには戴冠したといいます。このウィリアム、当
時のフランスで行われた封建制度を導入したり、貴族の言葉として英語・ラテン
語のほかにノルマンディー方言のフランス語を使うようにしたり(仏語と類字の
単語が、英語に多数残っているのはここに起因します)と、文化面でも大きな影
響を与えます。

『中世ヨーロッパと多文化共生』(渓水社、2003)所収の論文「中世イングラ
ンドの多文化共生」(山代宏道)には、征服後のイングランドは、アングロ=サ
クソンの伝承重視の文化から、画一性指向の記録重視の文化へと移行したのだと
いう図式が示されています。「口承」対「文字」という風に見るというのはなん
とも刺激的な視点です。同論文ではその対立図式を「グローバリズム」(スタン
ダードを尊重するという意味で)と「ローカリズム」の対立と見ていますが、こ
れはやや問題を現代に引き寄せすぎる言い方かもしれません。とはいえ、そこで
強調されているのは、両者のせめぎ合いから豊かな複合的文化が出てくるという
示唆です。

教会改革はそうしたせめぎ合いの重要な一側面だったわけですが、これも口承性
と文字の観点から整理し直すことができるかもしれません。教会改革期の思想的
断層については、瀬戸一夫『時間の政治史』(岩波書店)と『時間の民族史』
(勁草書房)が、「時間の収奪」という観点から神学論争の見事な整理を行って
います。キリスト教の聖体の解釈をめぐる議論、あるいは教会分裂期の洗礼の有
効性をめぐる議論、さらには司教座間の優劣問題など、それらの論考に即して見
ていくと、ノルマン・コンクエストとそれに続く教会改革は、人々のある種の認
識基盤すら大きく揺さぶったことが窺えます。いずれにせよ、そのあたりも踏ま
えつつ、さらにはその後の展開も視野におさめながら、イングランドにとどまら
ず当時のヨーロッパ全域を見渡していく必要もありそうです。

○『中世ヨーロッパと多文化共生』
原野昇ほか著、渓水社、2003年
ISBN 4-87440-776-5

○『時間の政治史』
瀬戸一夫著、岩波書店、2001年
ISBN 4-00-023356-4

○『時間の民族史』
瀬戸一夫著、勁草書房、2003年
ISBN 4-326-10143-1


------新刊情報--------------------------------------------
いくつか新刊の情報が届いています。

○『ゴシック美術 - サン・ドニからの旅立ち』
馬杉宗夫著、八坂書店 ISBN 4-89694-821-1

ゴシック美術の概説書。類書はいろいろありますが、写真や図版が多いこういう
書籍は、見るたびに新しい発見があると思います。著者は『黒い聖母と悪魔の
謎』(講談社現代新書)などの著書もある美術史家ですね。

○『遊びの中世史』
池上俊一著、ちくま学芸文庫、ISBN 4-480-08798-2

ホイジンガを彷彿とさせるテーマの一冊ですね。以前同じ文庫で出た同じ著者の
『身体の中世』も、様々な視点から中世の身体観を捉える好著だったように思い
ます。今回も期待しましょう。

○『イブン・バットゥータの世界大旅行 - 14世紀イスラームの時空を生きる』
家島彦一著、平凡社新書199、ISBN 4-582-85199-1

イブン・バットゥータといえば14世紀のアラブ人旅行家で、その30年間にわた
る旅行記は、当時のイスラム文化を知るための貴重な資料だといわれています。
邦訳が東洋文庫から全8巻で出ていますが、著者はその翻訳に携わった人で、同
書はバットゥータの足跡をたどりながら、当時のイスラム世界の諸相を浮き彫り
にしようというもののようです。世界システム論的な視点も盛り込まれているよ
うで、ある意味とてもアクチャルな一冊かもしれません。

○『数量化革命 - ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』
アルフレッド・W・クロスビー著、小沢千重子訳、紀伊国屋書店
ISBN 4-314-00950-0

これは中世プロパーではないようですが、視点として重要だと思われるので取り
上げておきました。数量化・視覚化という観点からヨーロッパの「標準」を捉え
るという主旨だそうですが、これまた、昨今問題になっている「グローバル・ス
タンダード」についての考察とも関係しそうです。歴史のもつアクチャリティを
感じられるでしょうか。


------文献講読シリーズ-----------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その16

このテクストもいよいよ大詰め。今回読む部分は、皇帝としての戴冠に触れた箇
所です。さらっと記されているだけなのですが、これは実に大きな影響を各地に
及ぼしたはずです。そのあたりにも思いを馳せつつ見ていきましょう。

               # # # # # #
[28 ] Ultimi adventus sui non solum hae fuere causae, verum etiam quod
Romani Leonem pontificem multis affectum iniuriis, erutis scilicet oculis
linguaque amputata, fidem regis implorare conpulerunt. Idcirco Romam
veniens propter reparandum, qui nimis conturbatus erat, ecclesiae statum
ibi totum hiemis tempus extraxit. Quo tempore imperatoris et augusti
nomen accepit.

王の最後のローマ遠征は、上記を目的としていただけではない。ローマ人たちが
教皇レオ(3世)に非道な行いをなし、教皇は眼をえぐられ舌を切られ、王の忠
誠に訴えるよう追い込まれたからでもあった。こうして、このうえなく混乱した
教会の体制立て直しのためにローマを訪れた王は、ひと冬をそこで過ごした。そ
の間に、皇帝ならびにアウグストゥスの称号を得たのだった。

Quod primo in tantum aversatus est, ut adfirmaret se eo die, quamvis
praecipua festivitas esset, ecclesiam non intraturum, si pontificis consilium
praescire potuisset. Invidiam tamen suscepti nominis, Romanis
imperatoribus super hoc indignantibus, magna tulit patientia. Vicitque
eorum contumaciam magnanimitate, qua eis procul dubio longe
praestantior erat, mittendo ad eos crebras legationes et in epistolis fratres
eos appellando.

最初、王はそれに抵抗し、当日は主たる祝日であったのだが、教皇の考えを事前
に知っていたら、その日は教会には足を踏み入れなかったろうに、とまで明言す
るほどだった。この称号を得てからは、それに腹を立てたローマの支配者たちの
誹謗中傷にじっと耐えた。王が彼らのかたくなな拒否を解いたのは、間違いなく
彼らよりはるかに優れていたその度量の広さによってであり、彼らに多くの使者
を派遣し、書簡では彼らを「兄弟」と呼ぶことによってだった。

[29 ] Post susceptum imperiale nomen, cum adverteret multa legibus
populi sui deesse - nam Franci duas habent leges, in plurimis locis valde
diversas - cogitavit quae deerant addere et discrepantia unire, prava
quoque ac perperam prolata corrigere, sed de his nihil aliud ab eo factum
est, nisi quod pauca capitula, et ea inperfecta, legibus addidit. Omnium
tamen nationum, quae sub eius dominatu erant, iura quae scripta non erant
describere ac litteris mandari fecit. Item barbara et antiquissima carmina,
quibus veterum regum actus et bella canebantur, scripsit memoriaeque
mandavit. Inchoavit et grammaticam patrii sermonis.

皇帝の称号を得てから、王は人民の法律に多くの不備があることに気づいた。フ
ランク族には二つの法があり、様々な点で大きく違っていたのだ。王は、足りな
いものを加え一致しない部分を統一しようと、また歪んだ部分、誤って運用され
る部分を修正しようと考えたが、わずかな章、しかも不完全な章を加える以外の
ことは果たせなかった。とはいえ支配下にあるあらゆる民族の、それまで成文化
されていなかった法を文書に記し、文字に従わせるようにした。同様に、昔の諸
王の偉業と戦果を歌った異国の古い叙事詩も、文書にして後世に伝えるようにし
た。自国語の文法の整備にも着手した。

Mensibus etiam iuxta propriam linguam vocabula inposuit, cum ante id
temporis apud Francos partim Latinis, partim barbaris nominibus
pronuntiarentur. Item ventos duodecim propriis appellationibus insignivit,
cum prius non amplius quam vix quattuor ventorum vocabula possent
inveniri. Et de mensibus quidem Ianuarium uuintarmanoth, Februarium
hornung, Martium lenzinmanoth, Aprilem ostarmanoth, Maium
uuinnemanoth, Iunium brachmanoth, Iulium heuuimanoth, Augustum
aranmanoth, Septembrem uuitumanoth, Octobrem uuindumemanoth,
Novembrem herbistmanoth, Decembrem heilagmanoth appellavit.

各月には自国語による名称をあてがった。それ以前、フランク族は一部はラテン
名で、一部は異国の名称で各月を呼んでいたからだ。同様に、12種類の風につ
いても、固有の呼称で区別した。それまでは、ほぼ4つ程度しか風を表す語彙が
なかったためだ。月については、1月をwintarmanoth、2月をhornung、3月を
lenzinmanoth、4月をostarmanoth、5月をwinnermanoth、6月を
brachmanoth、7月をhewimanoth、8月をaranmanoth、9月をwitumanoth、
10月をwindumemanoth、11月をherbistmanoth、12月をheilagmanothと呼
んだ。

Ventis vero hoc modo nomina inposuit, ut subsolanum vocaret ostroniuuint,
eurum ostsundroni, euroaustrum sundostroni, austrum sundroni,
austroafricum sunduuestroni, africum uuestsundroni, zefyrum uuestroni,
chorum uuestnordroni, circium norduuestroni, septentrionem nordroni,
aquilonem nordostroni, vulturnum ostnordroni.

風については次のように名称を定めた。東風をostroniwint、南東風を
ostsundroni、東南風をsundostroni、南風をsundroni、南西風を
sundwestroni、西南風をwestsundroni、西風をwestroni、北西風を
westnordroni、西北風をnorwestroni、北風をnordroni、北東風を
nordostroni、東北風をostnordroniとした。
               # # # # # #

ローマ教皇レオ3世は799年にローマ市内で襲撃され、投獄されたのでした。破
廉恥の罪に問われたのですが、シャルルマーニュは裁判官として教皇を弁護した
といわれます。それもあって、800年の降誕祭(クリスマス)に、西ローマ帝国
の皇帝として戴冠したのでした。アウグストゥスとは歴代のローマ皇帝の称号で
すね。反対派がいたことも示されていますが、これは反教皇派からの動きと見て
間違いないでしょう。ビザンティンの皇帝に並んだこと自体が反感を買ったので
はないようです。

戴冠後、シャルルマーニュはアーヘンに籠もったとされていますが、ここでは内
政に尽くそうとしたように描かれています。法律や叙事詩など、口承を基礎とし
ていたものを文書化したというのも興味深い点ですね。互いに矛盾していた二つ
の法律というのは、フランク最古(6世紀初頭成立)のサリカ法典と、リブアリ
ア法典(7世紀成立)のことで、また、成文化されていなかった部族法というの
は、ザクセン人、チューリンゲン人、フリース人の法典で、アーヘン帝国議会
(802年から803年)の際に記録させているとのことです。叙事詩の方は現存し
ていないのですね。

月の名前、風の名前を定めたというのが面白いですね。各月の名称はドイツ語の
古形になっていますが、それぞれ直訳しておくと、1月が「冬月」、2月が「角
月」(他の月に比べ日数がいびつなので「私生児月」という解釈もあるようで
す)、3月が「春月」、4月が「復活祭月」、5月が「牧草地月」、6月が「休耕
月」、7月が「干し草月」、8月が「穂月」、9月が「材木月」、10月が「ブド
ウ摘み月」、11月が「秋月」、12月が「聖月」となります。それぞれの風物詩
が感じられる、わかりやすいネーミングだと言ってよいでしょう。

次回は30章、31章の予定です。天命をまっとうし最期の時を迎える王が描かれ
ます。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は11月29日の予定です。
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(C) Medio/Socio (M.Shimazaki)
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