silva21

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.21 2003/11/29

------新刊情報--------------------------------------------
いくつか新刊情報が届いています。

○『ヨーロッパ思想史における〈政治〉の位相』
半沢孝麿著、岩波書店、ISBN:4-00-002397-7

内容説明が奮っていて、とても刺激的な問題設定になっています。引用しておき
ましょう。「すべてヨーロッパ産の政治思想の語彙によって、我々は自らの政治
を考察できるのだろうか? 自由、政治的−非政治的なもの、保守主義の考察を
軸に政治思想の中のヨーロッパ固有性を括り出し、その限界を明らかにする」。

○『歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ』
谷川稔編、山川出版社、ISBN:4-634-64910-1

「多元的世界史像の構築をめざし、古代から現代まで時空を超えて漂流する境界
域の記憶を手がかりに、ヨーロッパの自己認識を検証する」とあります。中世プ
ロパーではありませんが、京大のシンポジウムをまとめた一冊のようです。出版
不況もさんざん言われるご時世ではありますが、シンポジウムの報告は時に面白
い研究紹介があったりもします。ですからもっといろいろ出てほしいところで
す。

○『物語中世哲学史 -アウグスティヌスからオッカムまで』
ルチャーノ・デ・クレシェンツォ著、谷口伊兵、G.ピアッザ訳
而立書房、ISBN:4-88059-308-7

マルチな才能を発揮しているらしいイタリアの作家による中世哲学史案内。どう
いう切り口で読ませてくれるのでしょう?面白そうです。この著者にはほかに
『物語ギリシア哲学史』などもあり、シリーズになっているようです。

○『絵解き中世のヨーロッパ』
フランソワ・イシェ著、蔵持不三也訳、原書房
ISBN:4-562-03708-3

こちらは絵画をベースに、聖職者、戦士、庶民の三階層がどのように社会を織り
なしていたか考察するもののようです。絵画を史料的に用いるスタンスは、確か
に絵画そのものの分析は読んでいて興味が尽きないものも多いのですが、下手を
すると、全体的な結論が他の史料による研究を追確認するだけに終わる危険もあ
るように思います……果たして本作は刺激的な結論へといたっているでしょう
か?うーん、気になります。


------文献講読シリーズ-----------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その17

今回見ていくのは30章と31章です。栄華を極めたシャルルマーニュにも、つい
に最期の時が訪れます。その時の様子と、それに続く葬儀について記されていま
す。アインハルトの筆致は、感情を排して実に淡々としています。

               # # # # # #
[30 ] Extremo vitae tempore, cum iam et morbo et senectute premeretur,
evocatum ad se Hludowicum filium, Aquitaniae regem, qui solus filiorum
Hildigardae supererat, congregatis sollemniter de toto regno Francorum
primoribus, cunctorum consilio consortem sibi totius regni et imperialis
nominis heredem constituit, inpositoque capiti eius diademate imperatorem
et augustum iussit appellari. Susceptum est hoc eius consilium ab omnibus
qui aderant magno cum favore; nam divinitus ei propter regni utilitatem
videbatur inspiratum. Auxitque maiestatem eius hoc factum et exteris
nationibus nun minimum terroris incussit. Dimisso deinde in Aquitaniam
filio, ipse more solito, quamvis senectute confectus, non longe a regia
Aquensi venatum proficiscitur, exactoque in huiuscemodi negotio quod
reliquum erat autumni, circa Kalendas Novembris Aquasgrani revertitur.

いよいよ現世の最期も近づいたころ、すでに病気と老いに苦しんでいたシャルル
は、ヒルデガルトの子どものうち唯一生き残りアキテーヌの王となっている息子
のルートヴィヒ(ルイ)をそばへ呼んだ。また、フランク王国全土から大勢の貴
族たちを呼び集め、全体会議を開き、王国全体の統治と皇帝の称号の継承を決定
した。シャルルは息子の頭上に王冠を置き、皇帝ならびにアウグストゥスと称す
るようにと命じた。このことは、彼が招集を受けてやって来たすべての人々に
よって、実に好意的に受け入れられた。シャルルは王国のための神的な啓示を受
けていたようだった。このことはシャルルの威光をさらに高め、異国の民にもひ
とからならぬ恐れを抱かせた。息子がアキテーヌに戻ると、シャルルは、老いに
よって衰えたとはいえ、普段の習慣通りに、アーヘンの宮廷からそう遠くない場
所に狩りをしに出かけた。秋の残りの日々を狩りに費やし、11月朔日あたりに
アーヘンに戻った。

Cumque ibi hiemaret, mense Ianuario febre valida correptus decubuit. Qui
statim, ut in febribus solebat, cibi sibi abstinentiam indixit, arbitratus hac
continentia morbum posse depelli vel certe mitigari. Sed accedente ad
febrem lateris dolore, quem Greci pleuresin dicunt, illoque adhuc inediam
retinente neque corpus aliter quam rarissimo potu sustentante, septimo,
postquam decubuit, die, sacra communione percepta, decessit, anno
aetatis suae septuagesimo secundo et ex quo regnare coeperat
quadragesimo septimo, V. Kalendas Februarii, hora diei tertia.

その地で冬を過ごしたシャルルは、1月に激しい高熱で床に伏した。熱が出た時
にはいつもそうしていたように、食事を出さないようにとの指示を直ちに与え
た。そうした節制をすれば、病気が治るか、あるいは緩和されるにちがいないと
と考えていた。だが、発熱のほかに、ギリシア人が「胸膜炎」と呼ぶ脇腹の痛み
も加わり、また断食も続けていて、ごく少量の水分だけで体を維持していたせい
もあって、床に伏して7日目に臨終の聖体拝領を受け、シャルルは没することと
なった。享年72歳、在位47年目だった。1月28日、日中の3番目の時(午前9
時?)のことだった。

[31 ] Corpus more sollemni lotum et curatum et maximo totius populi luctu
ecclesiae inlatum atque humatum est. Dubitatum est primo, ubi reponi
deberet, eo quod ipse vivus de hoc nihil praecepisset. Tandem omnium
animis sedit nusquam eum honestius tumulari posse quam in ea basilica,
quam ipse propter amorem Dei et domini nostri Iesu Christi et ob honorem
sanctae et aeternae virginis, genetricis eius, proprio sumptu in eodem vico
construxit. In hac sepultus est eadem die, qua defunctus est, arcusque
supra tumulum deauratus cum imagine et titulo exstructus. Titulus ille hoc
modo descriptus est:

遺体は慣例に従って清められ、すべての民が嘆き悲しむ中、教会へと運び込まれ
埋葬された。まずはどの場所に遺体を安置すべきか検討された。存命中、シャル
ルはそのことについて指示を与えていなかったからである。結局、その聖堂以上
にシャルルに相応しい安置場所はありえないとの考えで皆が落ち着いた。シャル
ルが、神と主イエス・キリストへの愛から、また永遠なる聖母マリアを讃えるた
めに、みずからの費用でその街に建てた聖堂である。シャルルは亡くなったその
日に埋葬され、墓の上には、生前の肖像と墓碑を刻んだ、金箔を塗ったアーチが
建てられた。その墓碑には次のように記されている。

SUB HOC CONDITORIO SITUM EST CORPUS KAROLI MAGNI ATQUE
ORTHODOXI IMPERATORIS, QUI REGNUM FRANCORUM NOBILITER AMPLIAVIT
ET PER ANNOS XLVII FELICITER REXIT. DECESSIT SEPTUAGENARIUS ANNO
DOMINI DCCCXIIII, INDICTIONE VII, V. KAL. FEBR.

「偉大かつ正当なる皇帝シャルルの遺体、ここに眠る。その者、フランク王国を
大いに押し広げ、
47年にわたり幸福に統治した者なり。齢70にて、紀元814年、インディクティ
オ7年、1月28日に没す」
               # # # # # #

今回の箇所では、暦が出てきました。ここで用いられているのはローマ暦です。
まずKalendas Februariiが2月の最初の日(カレンダエ)を指します。先行する
数字を、そのカレンダエから遡ります。つまり5日遡るので、1月28日になると
いうわけです。また、インディクティオ暦というのも最後のところに出てきてい
ます。インディクティオは西暦312年から始まる15周期の暦で、15年経つとま
た1年に戻ります(干支みたいな感じでしょうか)。計算してみると、(814 −
312 ) ÷15 =33あまり7となります。なるほど814年はインディクティオ7年
になるのですね。このあたりの話を含む、ラテン語史料を読む際の注意点など
は、例えば高山博『神秘の中世王国』(東京大学出版局、1995)にコンパクト
にまとめられています。時間についてはどうでしょうか。中世の修道院で使われ
ていた時間では「3時課」がほぼ午前9時となっていますから、3番目の時間とい
うのはそれを指しているものと思われます。

さて、シャルルマーニュについてのこの手記はまだ終わりません。続く32章に
は死の前兆となった一種の奇跡が、さらにちょっと長い33章には遺言がまとめ
られています。次回はその32章と33章の一部を見ていきたいと思いますので、
もう少しおつき合い願います(笑)。


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