silva22

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.22 2003/12/13

------クロスオーバー------------------------------------
暦の話

前回の「文献講読シリーズ」で暦の話が出ました。それにも関連しますが、クリ
スマスが12月25日とされたのは4世紀のことだったといわれます。当時のキリ
スト教はユダヤ教などの異教に対して激しい対抗意識を持っていたようで、過越
しの祭りに対して復活祭が設定されたように(325年のニカエア公会議)、クリ
スマスは古代ローマのミトラを讃える儀式(冬至の祝い)に対して設定されたも
のでした。キリスト教は異教の囲い込みを図っていくのですが、そのための手段
として暦は非常に重要なものだったのでしょう。このあたりの話は、例えばジャ
クリーヌ・ド・ブルゴワンの『暦の歴史』に詳述されています。キリスト教の典
礼暦が農村暦を見事に補っていたこと、あるいはそれが、時間の考え方という形
で社会的規制を課していったことなど、興味深い点が指摘されています。

社会的規制以上にマクロな視点をもたらしたという意味でインパクトがあったの
は、やはり紀元という考え方でしょうか。上の『暦の歴史』によると、この暦算
法は復活祭の日を正確に決めることを第一の目的として、それまで用いられてい
た、アレキサンドリアで作られたディオクレティアヌス帝即位を起点とする暦算
法を改訂する形で作られたものだといいます。作ったのは6世紀のスキティアの
修道士ディオニュシウス・エクシグウス(小ディオニュシウス)で、ローマ教皇
ヨハネス1世がそれを命じました。キリスト受肉を起点とするというのは画期的
アイデアです。4年くらい違っていたり、0ではなく1から数え始めたりと(ゼロ
概念はまだ西欧に伝わっていませんでした)、いろいろ問題もあったとはいえ、
起点をもった直線的時間という概念を植え付けたことが、その大きな遺産だとさ
れています。

とはいえ、この暦算法はあくまで復活祭の日を決めることが目的だったため、細
かな統一規定がなく、例えば新年がどの日に始まるか(紀年法)などは、地域に
よってバラバラだったといいます。フランスが新年の始まりを1月1日に定めた
のは1564年でした。シャルル9世の時代です。ところでローマから受け継がれ
たユリウス暦には、閏年がわずかに余分に設けられていて(閏年は4年ごとです
が、実は太陽年は365日と4分の1に11分足りないためためです)、春分の日
(復活祭の基準になる日です)は徐々に遅くなっていました。これを一気に解決
しようとしたのがグレゴリウス13世です。1582年の10月5日から14日の10日
間を削除し、同時に400年間に3回閏年を減らす(100で割り切れる年は、400
でも割り切れる年だけを閏年とする)ことにしたのです。この方式はその後定着
しますが、そこにいたるには様々な紆余曲折があったようです。このあたりの話
は、A.W. クロスビー『数量化革命』に端的にまとめられています。キリスト教
が「異教」によって培われていたシステムを自家薬籠中のものにしていく過程
は、一方でこうした「改変」の過程を裏地として持っているように思われます。
クロスビーはそれを、数量化というキーワードで取り出してみせていますが、視
覚化・空間化・合理化など様々な概念を探針として、その巨大なうねりに下ろし
てみることができそうです。

○『暦の歴史』
ジャクリーヌ・ド・ブルゴワン著、池上俊一監修、南篠郁子訳
創元社、「知の再発見双書」、ISBN 4-422-21156-0

○『数量化革命』
アルフレッド・W・クロスビー著、小沢千重子訳
紀伊国屋書店、ISBN 4-314-00950-0


------文献講読シリーズ-----------------------------------
「シャルルマーニュの生涯」その18

今回は32章と33章の出だしの一節です。32章は、シャルルの死の前兆現象が語
られていきます。一種の怪異譚ですが、偉大な人物の死の間際には、こうした前
兆の話はよく出るもののようです。シャルル本人は気にしていなかった、という
のがいいですね(笑)。33章は遺言です。シャルル後のフランク王国の混乱
は、あるいはここにも起因するのではないかと思いますが、今回はさわりの部分
だけ。

               # # # # # #
[32 ] Adpropinquantis finis conplura fuere prodigia, ut non solum alii, sed
etiam ipse hoc minitari sentiret. Per tres continuos vitaeque termino
proximos annos et solis et lunae creberrima defectio et in sole macula
quaedam atri coloris septem dierum spatio visa. Porticus, quam inter
basilicam et regiam operosa mole construxerat, die ascensionis Domini
subita ruina usque ad fundamenta conlapsa. Item pons Rheni apud
Mogontiacum, quem ipse per decem annos ingenti labore et opere mirabili
de ligno ita construxit, ut perenniter durare posse videretur, ita tribus horis
fortuitu incendio conflagravit, ut, praeter quod aqua tegebatur, ne una
quidem astula ex eo remaneret. Ipse quoque, cum ultimam in Saxoniam
expeditionem contra Godofridum regem Danorum ageret, quadam die, cum
ante exortum solis castris egressus iter agere coepisset, vidit repente
delapsam caelitus cum ingenti lumine facem a dextra in sinistram per
serenum aera transcurrere.

最期の時が近づくと、多くの前兆が見られた。死が迫っていることは、他の者の
みならずシャルル自身も感じていた。最晩年の三年間は、日食や月食が度重な
り、7日にわたって太陽に黒色の染みが見られたりもした。主の昇天の祝日に
は、聖堂と宮殿とをつなぐ、シャルルの多大な苦労の末に建造された回廊が、基
礎部分にいたるまで倒壊した。マインツでライン川に掛かっていた橋は、シャル
ルが10年におよぶ労力と驚異的な木工技術によって建造したもので、恒久的に
存続するかに思えたのだったが、偶然生じた火災により、3時間ほどで燃えてし
まった。水に浸かっていた部分を除き、1つの木片すら残らないほどだった。
シャルル自身も、デンマークのゴトフリート王に対してザクセン地方への最後の
遠征を行った際、ある日の夜明け前に陣営を出発した時に、不意に空から大きな
光を伴った火の玉が落ちてくるのを見た。その火球は、右から左へと、静寂な空
気を貫いていった。

Cunctisque hoc signum, quid portenderet, ammirantibus, subito equus,
quem sedebat, capite deorsum merso decidit eumque tam graviter ad
terram elisit, ut, fibula sagi rupta balteoque gladii dissipato, a festinantibus
qui aderant ministris exarmatus et sine amiculo levaretur. Iaculum etiam,
quod tunc forte manu tenebat, ita elapsum est, ut viginti vel eo amplius
pedum spatio longe iaceret. Accessit ad hoc creber Aquensis palatii tremor
et in domibus, ubi conversabatur, assiduus laqueariorum crepitus. Tacta
etiam de caelo, in qua postea sepultus est, basilica, malumque aureum, quo
tecti culmen erat ornatum, ictu fulminis dissipatum et supra domum
pontificis, quae basilicae contigua erat, proiectum est. Erat in eadem
basilica in margine coronae, quae inter superiores et inferiores arcus
interiorem aedis partem ambiebat, epigramma sinopide scriptum,
continens, quis auctor esset eiusdem templi, cuius in extremo versu
legebatur: KAROLUS PRINCEPS. Notatum est a quibusdam eodem, quo
decessit, anno paucis ante mortem mensibus eas, quae PRINCEPS
exprimebant, litteras ita esse deletas, ut penitus non apparerent. Sed
superiora omnia sic aut dissimulavit aut sprevit, acsi nihil horum ad res suas
quolibet modo pertineret.

これは何の予兆かと誰もが驚いていると、シャルルが乗った馬が突然頭から倒れ
息絶えた。シャルルも激しく地面にたたきつけられ、マントの留め金が壊れ、剣
帯も切れてしまった。武器もマントも失ったシャルルは、駆けつけた従者によっ
て起こされた。手にしっかりと持っていた投やりが失せていたが、20フィート
以上もの場所に投げ出されていた。さらに、アーヘンの宮廷では何度も揺れが感
じられ、シャルルが使っていたいくつかの部屋で、天井から絶え間なく音がする
ようになった。後にシャルルが埋葬される聖堂は、落雷に見舞われた。屋根の頂
上部を飾っていた金の支柱が落雷の衝撃で破壊され、聖堂に接した司教の屋敷の
上に投げ出された。その聖堂には縁の壁飾りがあり、上部と下部のアーチの間を
礼拝堂の内側に沿って巡っていた。そこには赤の文字で銘が刻まれ、誰がその礼
拝堂の建造者かが書かれ、その最後の行には「君主シャルル」と記されていた。
一部の人たちによれば、王が亡くなった年、その死に先立つ数ヶ月間は、「君
主」と書かれた文字が消えかかり、ほどんど判別できなくなっていたという。と
はいえシャルルは、こうしたいっさいを、どのような形であれ自分の運命には関
係ないかのごとく、無視もしくは拒絶したのだった。

[33 ] Testamenta facere instituit, quibus filias et ex concubinis liberos ex
aliqua parte sibi heredes faceret, sed tarde inchoata perfici non poterant.
Divisionem tamen thesaurorum et pecuniae ac vestium aliaeque
suppellectilis coram amicis et ministris suis annis tribus, antequam
decederet, fecit, contestatus eos, ut post obitum suum a se facta
distributio per illorum suffragium rata permaneret. Quidque ex his quae
diviserat fieri vellet, breviario conprehendit; cuius ratio ac textus talis est:

シャルルは遺言を残すことにした。娘たちや同棲相手の子どもたちになんらかの
遺産を相続させようとしたのだが、遺言に着手するのが遅く、完成には至れな
かった。だが、財宝、金銭、衣服、その他の家財道具などの分与は、死の3年前
に友人や使用人を前に行い、彼らを証人として、自分の死後、決定した通りの分
配が確実になされるようにした。分配したうち明記しておきたいと思ったもの
を、シャルルは概略に書き記した。その内容と文面は以下の通りである。(続
く)
               # # # # # #

32章で語られるような一種の怪異譚は、古代にも中世にも広く流布していたと
いいますから、おそらくは何らかの出典がありそうに思えます。前にも言及した
C.C.Bichners刊のテキスト(注釈はPaul KlopshとErnst Walter)では、皇帝の
死という点での祖型を、スエトニウスの『ローマ皇帝伝』(邦訳は岩波文庫で出
ています。ラテン語テキストはhttp://www.thelatinlibrary.com/suet.html)
に見ています。また、怪異譚が反自然ではなく、神の意思によるのだとするセビ
リヤのイシドルスによる一節(『語源録』11巻「人と奇譚」3章、テキストは
http://www.thelatinlibrary.com/isidore.html)も挙げられています。あるい
はこのシャルルの死にまつわる話も、また別の奇譚のベースになっていくのかも
しれませんね。このあたりはいつかじっくりと検討してみたいです。

前にもちょっと触れましたが、シャルルマーニュは没後に数多くの伝説を生んで
いきます。後世においてはフランスはもとよりドイツにおいても(神聖ローマ帝
国で)、シャルルマーニュとそのイメージが利用されていきます。歴代の国王
は、自分の権威を正当づけるためにシャルルマーニュを持ち出していくのです
ね。そうした10世紀にもわたるシャルルマーニュ像の歴史(1950年ごろのド・
ゴールも、欧州建設を訴える際に、やはりシャルルマーニュに言及しています)
を追った労作『白ひげをたたえし皇帝』("L'empereur a la barbe fleuri",
Gallimard, 1997)を著した歴史家ロベール・モリセは、とりわけ動乱期になる
とシャルルマーニュのイメージが盛んに持ち出されると述べています。先行する
社会体制を批判しようとする時、あるいは新たな体制を確立する時に、その根拠
としてシャルルマーニュに言及される、というのです。シャルルマーニュ譚はは
るか北方のスカンジナビアにまで広がっていきます。13世紀ごろにノルウェー
で『シャルルマーニュ・サガ』と呼ばれる物語群が書かれます。フランスの武勲
詩の翻訳ものですが、実に多くのテキストが集成されていて、これもまた興味深
い事例です。また、武勲詩が語るシャルルマーニュ像は、まずは口承での説話と
して、後には青表紙本などの廉価な読み物の形で、民衆の中にもしっかりと根を
下ろしていくようです。いずれにしても、シャルルマーニュが西欧の歴史の中
で、ある特異点をなしているのは確かです。

さて、この「シャルルマーニュの生涯」もいよいよ遺言の中身を残すのみとなり
ました。この遺言の部分はちょっといつもより長いのですが、次回はPubzineで
の発行は最後となりますし、年末特集も兼ねて、これを一気に読んでみたいと思
います。どうぞお楽しみに。