June 12, 2004

No.34

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.34 2004/06/05

------クロスオーバー-------------------------
<個>の成立?

少し前に、フランスの著名な思想家ミシェル・フーコーの講義集成の一冊が邦訳
で出ました。『主体の解釈学』(筑摩書房)がそれです。コレージュ・ド・フラ
ンスの81年から82年にかけての講義をまとめたものです。この講義のいわば要
約のようになっているのが、岩波現代文庫で出ている『自己のテクノロジー』
(岩波現代文庫)ですが、よく知られているように、フーコーは晩年、古代から
その末期にかけての時代を題材に、自己への配慮というテーマで省察をめぐらし
ていました。『主体の解釈学』では、プラトンの『アルキビアデス』やニュッサ
のグレゴリウス(4世紀)などを取り上げて、当時推奨されていた自己認識の方
法論を論じていきます。聞くこと、話すこと、書くことといった営為は、そうし
た自己認識の方法として見いだされていくのですね。自己認識のための書くとい
う行為は、古代末期には定着していたといいます。アウグスティヌスの『告白
録』が成立する土壌がそうして準備されていきます。

そのアウグスティヌスを、個人の成立という観点から整理した入門書に、やはり
昨秋出た富松保文『アウグスティヌス - <私>のはじまり』(NHK出版)があり
ます。小著ですが、興味深い点がいろいろあります。古代史家のペーター・ブラ
ウンやジャン=ピエール・ヴェルナンの議論、キリスト教の公会議で扱われた三
位一体論などを見ていくことによって、<個>の成立が古代末期に位置づけられ
ることを論じ、一方で、アウグスティヌスの『告白録』の全体構造が、その中で
展開されている時間論よろしく、過去の自己の行いについて今の自己がどう考え
るかを軸にしていることを示唆していきます。この二重構造、自己の再認は、<
個>をめぐるまさしく哲学的な問いかけです。

ところがフーコーの議論(『自己のテクノロジー』)では、古代に称揚された自
己検討とキリスト教が定着する時代の自己検討には大きな断絶がある、とされま
す。前者が自己肯定であるとするなら後者は自己否認に向かっていく、というの
です。その論拠として取り上げられるのが修道院の生活で、ヨアネス・カシアヌ
ス(5世紀)などについて検討されています。修道院生活では服従と観想とを通
じて、自己開示(罪の告白といった)と自己放棄とが密接に絡み合っている
(「放棄せずには開示できない」)といわれるのですが、例えばベネディクト会
の修道院規則(7世紀)などを見ると、礼拝の手順や罰則などの細かな規定か
ら、むしろそうした自己放棄の難しさばかりが浮かび上がってくるようにも思え
ます。上のアウグスティヌス的な自己の再認と合わせて考えると、なんだか成立
したばかりの<個>の概念を、どう取り込んでいくかという点で教会が腐心して
いたようにも見えてきます。果たして自己放棄はどのように、どれほど実践され
ていたのでしょうか?これはちょっと目には見えてこない問題です。フーコー
は、自己開示・自己放棄の実践はキリスト教のはじめから17世紀まで続くのだ
と、ちょっと乱暴に括っていますが、この辺りの話は詳細に吟味していくと、も
しかすると面白いかもしれませんね。<個>の扱いをキーワードに、初期教父か
ら中世の神学者にいたる系譜を新たに辿ってみる、といった作業も(なかなか大
変そうな作業ですが(笑))、一考の価値はありそうです。


------文献講読シリーズ-----------------------
「マグナ・カルタ」その11

このテキストも大詰めです。今回は保証条項とされる61条です。小さく区切っ
て見ていきましょう。

               # # # # # #
61. Cum autem pro Deo, et ad emendacionem regni nostri, et ad melius
sopiendum discordiam inter nos et barones nostros ortam, hec omnia
predicta concesserimus, volentes ea integra et firma stabilitate in
perpetuum gaudere, facimus et concedimus eis securitatem subscriptam;
videlicet quod barones eligant viginti quinque barones de regno quos
voluerint, qui debeant pro totis viribus suis observare, tenere, et facere
observari, pacem et libertates quas eis concessimus, et hac presenti carta
nostra confirmavimus; ita scilicet quod, si nos, vel justiciarius noster, vel
ballivi nostri, vel aliquis de ministris nostris, in aliquo erga aliquem
deliquerimus, vel aliquem articulorum pacis aut securitatis transgressi
fuerimus, et delictum ostensum fuerit quatuor baronibus de predictis viginti
quinque baronibus, illi quatuor barones accedant ad nos vel ad justiciarium
nostrum, si fuerimus extra regnum, proponentes nobis excessum; petent ut
excessum illum sine dilacione faciamus emendari.

第61条:神がため、またわが王国の改革に向け、さらにわれとわが国の貴族と
の不和をよりよく鎮めるため、われは以上の取り決めにすべて譲歩してきたが、
それらの取り決めが元のまま揺るぎなく永続することを望み、以下にその保証を
記し定める。すなわち、貴族の側は彼らが望む王国内の貴族25人を選出し、そ
れらの者は全権をもって、われが与えた平和および自由の遵守、監視、遵守の徹
底を図るものとする。また本憲章において、われは以下を確認する。すなわち、
われもしくは最高法官、執行吏、任意の官職にある者が、任意の業務において任
意の過失を犯すか、あるいは任意の平和条項ないし保証条項に違反し、上述の
25人の貴族のうち4人が違反を確認した場合、かかる4人の貴族は、われのもと
に、あるいはわれが国外にいる場合には最高法官のもとに赴き、その過失を示
し、かかる過失が即刻是正されるよう要請する。

Et si nos excessum non emendaverimus, vel, si fuerimus extra regnum,
justiciarius noster non emendaverit infra tempus quadraginta dierum
computandum a tempore quo monstratum fuerit nobis vel justiciario
nostro, si extra regnum fuerimus, predicti quatuor barones referant
causam illam ad residuos de illis viginti quinque baronibus, et illi viginti
quinque barones cum communia tocius terre distringent et gravabunt nos
modis omnibus quibus poterunt, scilicet per capcionem castrorum,
terrarum, possessionum, et aliis modis quibus poterunt, donec fuerit
emendatum secundum arbitrium eorum, salva persona nostra et regine
nostre et liberorum nostrorum; et cum fuerit emendatum intendent nobis
sicut prius fecerunt.

われが、あるいはわれが国外にいる場合には最高法官が、われまたは最高法官に
対して要請がなされた日から40日以内に是正を図らない場合、上記の4人の貴族
は、同案件を25人の貴族の残りの者に通知し、25人の貴族は、全国の臣民とと
もに、あらゆる可能な形で、われに対する引責・処罰を敢行する。すなわち城、
土地、財産の差し押さえ、およびその他の可能な形を、それらの者の裁定にもと
づき是正が果たされるまで実施する。ただしわれとわが后、わが子本人には危害
を加えないものとする。是正がなされたならば、われとの関係を従来通りに戻
す。

Et quicumque voluerit de terra juret quod ad predicta omnia exequenda
parebit mandatis predictorum viginti quinque baronum, et quod gravabit
nos pro posse suo cum ipsis, et nos publice et libere damus licenciam
jurandi cuilibet qui jurare voluerit, et nulli umquam jurare prohibebimus.
Omnes autem illos de terra qui per se et sponte sua noluerint jurare viginti
quinque baronibus de distringendo et gravando nos cum eis, faciemus
jurare eosdem de mandato nostro sicut predictum est. Et si aliquis de viginti
quinque baronibus decesserit, vel a terra recesserit, vel aliquo alio modo
impeditus fuerit, quominus ista predicta possent exequi, qui residui fuerint
de predictis viginti quinque baronibus eligant alium loco ipsius, pro arbitrio
suo, qui simili modo erit juratus quo et ceteri.

国内において望む者は誰でも、上述の25人の貴族によるあらゆる執行命令に従
うことを宣誓し、彼らとともに可能な限り、われに対する処罰を実施できるもの
とする。また、われは公的かつ自主的に、かかる宣誓を望む者に、その宣誓の許
可を与え、いかなる者の宣誓をも禁止しない。25人の貴族に対し、彼らととも
にわれに対する引責・処罰を行う宣誓を望まない国内のすべての者に対しては、
わが命令をもって上述の通り宣誓させるものとする。また、25人の貴族のうち
任意の者が死亡するか、あるいは国内から去る場合、あるいはなんらかの理由で
職務が遂行できなくなった場合、25人の貴族の残りの者は、みずからの裁量に
より任意の者を代わりとして選出し、選出された者は他の者と同じく宣誓を行
う。
               # # # # # #

この61条は保証条項です。baronesは貴族と訳しています。以前は男爵として
いましたが、これは誤りで(失礼しました)、王の直臣のことです。新興の騎士
階級に対して位が上の貴族のことを指しています。条項の中でも言及されている
ように、ジョン王は特に戦争に関連した重税政策のせいで、直臣の反発を買って
しまいます。こうして有力者たちを中心に反乱が起きます。1212年には暗殺計
画まであったのですね。これは事前に発覚するのですが、その後ジョンは反対派
の封じ込めのために譲歩をするようになり、結果的にそれがより多くの譲歩を求
められるという意識をも広めたようです。その後プワトゥーへの遠征(1214年
2月)をめぐる軍役代納金などのトラブルが王と一部貴族との間に生じ、さらに
王が教皇との同盟関係を確たるものにしたため(1215年3月)、貴族との関係
はこじれにこじれて、5月5日には王への誠実破棄の宣言すら行われていきま
す。5月12日になると貴族はロンドン市を制圧し、これによって中立派だった貴
族らも反対派へと流れ込み、王はマグナ・カルタへの署名へと追い込まれていき
ます。

貴族たちの怒りを買ったのは、王の重税政策のせいですが、特にブーヴィーヌの
戦い(1214年7月)での敗戦以後、批判が高まったとされています。やはり城
戸毅『マグナ・カルタの世紀』からですが、そこで問われたのは、明らかに王国
の運営そのもの、「政治の原則と綱領」だったといいます。貴族からしてみれ
ば、ジョン王は、戦争で芳しい成果も上げられず、そのつけを自分たちに回して
厳しい取り立てを行うあこぎな王、ということになるのでしょうか。貴族はその
ため、自分たちの権利や自由を守ろうとし、そうした一方的な取り立てに対抗し
ようとしていきます。こうして、封建的な権力関係の見直し(たとえ再配分にす
ぎないにしても)すらなされていくところに、マグナ・カルタとそれにいたる状
況の重要性がありそうです。

これよりおよそ1世紀前、学僧で教会政治にも深く携わったソールズベリーの
ジョンは、著書『ポリクラティクス』の中で、君主とはそもそも法に従って統治
する者であると説いていました。キリスト教的な世俗の君主とは徳に篤く、贅沢
をせず、正義に仕えるものであるべし、という一種の理想論ですが、一方で法を
守らない暴君に対しては、殺害もまた正義でありうるという立場をも示していま
す(これは共和制的レトリックの発展形にすぎない、とも言われますが)。そこ
には、君主論の伝統と、12世紀のイングランドの王権や教会の微妙な政治的問
題に関わった著者の、ある種の現実感覚との融合が働いているように思えます。
もちろん、この著書がジョン失地王への抵抗に直接繋がっていくわけでは決して
ありませんが、君主への反逆という状況に、より長いスパンでの底流があること
も事実だと思われます。思想史も含めた歴史の興味深いところは、やはりそうい
う部分にあるのではないかと改めて思ってしまいますね。

さて、いろいろ訳の不備などもあったりした「マグナ・カルタ」の購読も、次回
で最終回となります。マグナ・カルタ後の状況なども踏まえつつ、一気に読了し
たいと思います。お楽しみに。

投稿者 Masaki : June 12, 2004 07:20 AM