2003年11月29日

再び速度の話

昨日は仕事で大阪へ行ってとんぼ返り。初期の日テレ「鉄腕ダッシュ」のパロディ広告(同番組の企画としてあった電車対トキオのリレーが、あのCMの元ネタでしょうね、やっぱり)で注目の「のぞみ」増発は、確かにその利便性の大きさを感じさせる。けれども、たとえば京都などでは、かつては宿泊が普通だった観光客の日帰り化が始まっているのだという。うーん、なんだかなあ。京都に観光に行くなら、せわしくしないほうがいいと思うんだけど……。いずれにしても、この社会的利便性という曲者が、時間の厳密な管理をいっそう強制しているのは明らかだ。これは厳密には近代の産物なのだけれど、時間の管理の根底をなす数量化・視覚化の発想は、12世紀のヨーロッパ生まれ(12世紀ルネサンスの時代)だった……このあたりのことを包括的に論じているのが、今読みかけのA.W.クロスビー『数量化革命 』(小沢千重子訳、紀伊國屋書店)。利便性と管理との相互作用・相乗効果の流れを丹念に跡づけようという一冊だ。ヨーロッパ帝国主義が他の地域を圧倒した根底の要因がそこにあるということなのだが、昨今の新自由主義的グローバリゼーションの管理指向は、その究極形といえるかもしれない。そんなわけで、「数量化されない残滓」(ジジェク風だな(笑))の側からの異議申し立ての可能性も、そのあたりの数量化の考古学から探れないもんだろうか、と思ったりもするのだが……。

投稿者 Masaki : 22:14

2003年11月26日

マーロウの子孫たち

とあるビデオ(本編は実につまらなかったので、紹介しない(笑))を観ていたら、押井守の新作『イノセント』の予告編が入ってた。このわずか数分の予告に、妙にシビれてしまう。『イノセント』は『攻殻機動隊 - Ghost in the shell』の続編。士郎正宗の原作の方の続編は、また妙な方向に行っているけれど(笑)、押井版の続編はバトー(どこか悲哀に満ちたキャラだ)を主役にもってくるあたりが、すでにしてとてもリリック。

こうしてみると、サイバーパンクものって、正統なSFよりもむしろミステリーのハードボイルドを祖先に持っていることが改めてよくわかる。始祖ことウィリアム・ギブスンあたりからしてすでにそうで、だから正統派SFファンから嫌われたのだという話もあるし(「15年目のサイバーパンク 」なんてページがある。98年のものらしい。インタビューに答えているのはSF系の翻訳家だ)。機械と人間の境界が限りなく曖昧になっていく、というサイバーパンク的な世界観で見逃してはいけないのは、そこが貧富の差が著しく、高度に管理され、ある種の行き詰まりを呈している社会だという点だ。情報のグローバル化時代の見事な戯画になっているわけだが、ハードボイルドの代表格チャンドラーが描く主人公フィリップ・マーロウの世界も、大衆は安価なモノ(情報)に囲まれ、一方で経済不況により貧富の差は著しくなっているいわゆるパルプ・フィクションの時代のアメリカだ(孤独の美学はそうした背景があってこそ浮かび上がる)。マーロウはどこか斜に構えつつ批判的まなざしを向ける主体なのだが、なにか社会的な行動を起こすわけではない。サイバーパンクの主人公たちも孤独に、あくまで私的な目の前の問題にばかり向き合っている。それはそれでリリックなのだが、「そのままでいいわけ?」という感じもしなくはない。『攻殻』の最後に示されたパラレルな生命体の増幅(という全体性の美学?)も、考えようによってはネグリ&ハートのいう「帝国」的ロジックにも思えてくる。それに抗うのはむしろ残されたバトーたちなのでは……と、まあ、どう展開するかわからないが、『イノセント』には大いに期待しよう。

投稿者 Masaki : 22:12

2003年11月23日

記憶の場

体調を崩してしまったため、面白そうなシンポジウムに行けなかった……残念。来日中の歴史家ピエール・ノラの講演と、近現代史の論客の討議という内容で、会場は東京外語大。あれ、この時期って学園祭じゃなかったっけかなあ。ま、それはともかく。ノラについては、フランスの国民意識の形勢を多面的に論じるというプロジェクトの成果、3部作の『記憶の場 』(谷川稔監訳、岩波書店)が刊行されている(ちゃんと読んではいないのだが)。昨年秋の京大でのシンポジウム の報告では、この監訳者による概括がネットで読める。『記憶の場』が問う「出来事がいかに記憶され、シンボル化されたか」という問題設定ゆえに、歴史学そのものの学史的な方法が採択され、それは史料の扱い方に「言語論的転回」をもたらしはしたものの、一方で反国家主義の情緒的レトリックに伍する恐れもある、と指摘されている。加えていうなら、言語論的転回というだけに、史料そのものの裾野は広がったものの、それを下支えしているはずの制度や機構、技術などへの言及は以外に少ない印象があったのだが……。いずれにしても、今回の来日講演やシンポジウムについても、どこかに報告が載らないかなあと期待しておくことにしよう。

投稿者 Masaki : 22:11

2003年11月20日

旧約聖書

遅ればせながら、今月の『月刊言語』(大修館書店)を眺める。特集は「旧約聖書」。なるほど旧約の読み込み(または読み直し)はアクチャルな問題だ。最近は『七十人訳ギリシア語旧約聖書 』(秦剛平訳、河出書房新社)が刊行中。モーセ5書がすでに出ている。手元には古本屋で見つけた2巻本("Septuaginta", Württembergishe Bibelanstalt Stuttgart, 1935)があるけれど、まだ読む時間が取れない……。この七十人訳というのもいろいろな問題点があるようで興味深い。が、そのためにはヘブライ語も必要だ。『月刊言語』も、せっかく言語学系の専門誌なのだから、ヘブライ語入門みたいな特集にすればいいのになあ。

投稿者 Masaki : 22:09

2003年11月14日

戦争の考古学

負傷兵の映像、亡くなった兵士の写真、遺族の後ろ姿……。イラクのナシリアで起きたイタリア軍へのテロの翌日にイタリアのテレビ局RAI が放映した映像は、もはや人ごととは思えない。自衛隊でのそういう映像を見る覚悟が、為政者たちの間にあったのか……いや、なかったのだ。そのことは、「年内派兵は無理」と政府は前言を翻したことからも明らかだ。単純化が好きなフランスのテレビニュースなどでは、例えば"Le Japon a renoncé à rejoindre la coalition"(同盟軍入りを放棄)などと表現されたりしている(フランス2 のキャスターコメント)。なるほど、外国のテレビメディアにとっては、自衛隊派遣はあくまで「同盟軍入り」で、政府が言うような「危険な場所にはいかないし、あくまで復興事業だ」なんてスタンスには見えない、ということか……。このことが重大なのは、ビン・ラディンなどは外国の報道を通じてテロの矛先を決めているだろうから。日本政府が何と言おうと、外国メディアが自衛隊派兵を「同盟軍入り」だと報じれば、テロに狙われるのは必至だ。

話は変わって、最近読んだものの一つに、ピエール・クラストル『暴力の考古学』 (毬藻充訳、現代企画室)がある。原書は1977年刊行のもの。戦争が生物学的起源をもつとするルロワ=グーランの生物学的視座、希少性(食料の)を重視する経済学的視座、「交換」中心史観ともいうべきレヴィ=ストロースの立場などを批判して、未開社会(より正しくは部族社会だ)の戦争を、他者に対するその共同体の差異化、共同体の成立に内在する普遍的過程だということを鋭く論じている。なるほど、中東一帯でのテロ闘争は、まさにそうした部族社会的な論理を反映している感じもしなくもない。クラストルによれば、そうした社会は国家のようなより大きな単位を否定するし、包括的な意味での友愛の関係とも馴染まないのだという。そうだとすればなんとも悲痛な論点だが、それでもなお友愛の戦略を考えることは可能だろうか?そのためには、友愛概念をも根源まで潜って行かなくてはならないのは明らかだ。

投稿者 Masaki : 22:07

2003年11月11日

「選択」と「自由」へ

いまさらながらだけれど、『マトリックス・リローデッド』をビデオで観た。最近は「哲学&マトリックス 」なんてページもあるけれど、関連本・考察が盛んに出まくった、かつての『エヴァンゲリオン』とは比べものにならないチープさだ(笑)。大きな違いは、所詮は単純なアクション映画にすぎないということか……このシリーズ2作目、ちょっとゲンナリ(だいたい、マトリックス内で死んだトリニティを生き返らせると、その本体であるトリニティも生き返るってのはナンなの?操作主とアバターの関係が破綻しているし)

この第二作に哲学的に意味を見いだすとしたら、それは昔さんざん言われたような、仮想現実の反転議論(現実世界も仮想かも……云々)なんてことではなく(それは西欧のキリスト教的伝統のオハコだ)、むしろ「選択」「自由」の問題を考えることだろう。中島義道『時間論』 (ちくま学芸文庫)は、カントの責任論から「自由は現在にはなく、実は過去にしかないのではないか」という論点を提示していて興味深い。同書の中心議論は、厳密な現在とは、あくまで過去の認識から析出されるものでしかないということだ。そこから敷衍するに、選択の結果今の自分があると考えることは、ひたすら「過去において自由だった」ことを確認する作業でしかない。そしてその意味において、自分で選択の責任を負うことになるのだ。マトリックスの場合のネオは、「救世主」になった後も含めて、そうした過去における自由を否定される。ということは、行動の責任を免除されてしまうのだ。マトリックス世界内で働いた数々のテロ行為(メタレベルを知らないマトリックス内の住民にとっては、テロ以外の何ものでもない(笑))についても、すべて免責されてしまう。うーん、ここから浮かび上がるのは、一部の原理主義のテロリストの理屈すら彷彿とさせる論理なのだが……。

Le film "Matrix" et la philosophie ? Alors, ce qu'il faudrait réfléchir, ce serait bien sur le problème de la liberté et du choix, non sur le "réel comme simulacre"...

投稿者 Masaki : 22:05

2003年11月06日

スピードの時代

このところテレビのクイズ番組が息を吹き返しているが、先日の「文化の日」には、「テスト・ザ・ネーション」なる番組が放映された。なんのことはない、IQテストなのだが、それを番組としてやってしまい、しかも「ネーション」を冠するところに、どうも管理社会的な匂いが妙に漂って気持ち悪い。最後の方しか見ていないけれど、ネット経由でまとめたという最後の統計が、都道府県別やら野球の支持球団別など、一見どうでもよいような、それでいてどこか微妙な「差別」意識を育みそうな感じも嫌だった(男女別など、まさにそんな感じだ)。「このIQテストは『正確』です」と強調し、権威主義もろ出しの司会の古館もいただけない……こんな「決めつけ野郎」が来年から本当にニュース読むんかい?

その昔、学生を一応終え(心はいまだに学生だが(笑))、どうしようか迷っていた時にこの手のテストを受けたことがある。で、結果は散々で、部門別の正解率の良し悪しにものすごく偏りがあったらしかった。制限時間内に回答しきれないほどの問題数が出る……要するに大事なのは速さなのだ。同じ問題の正解にたどり着くのに、3分かかるか30秒ですむかが「クオリティ」だとされる。発想はまさに19世紀以降の「時は金なり」ですな。そういえば雑誌『環』(藤原書店)の最新号は特集が「スピードとは何か」。その中にセバスティアン・トラップ(生物学者らしい)の論考「ハヤブサのスピード」がある。13世紀のシチリア王国の最後の王でもあるフリードリヒ2世には、「鳥を用いた狩りについて」という鳥類の生態学的論考があるのだけれど、そこではハヤブサの多様な攻撃については記されていても、「速度」については記されていないという。つまり「速度」は、ハヤブサが獲物を襲うその瞬間だけを切り出した抽象物にすぎないのだ。逆に言えば、速度の概念がなかったからこそ、フリードリヒ2世はハヤブサの攻撃の多様性を見いだしている。上のIQテストにもあてはまる、その論考の末尾の一言を記しておこう。「速度を念頭に置いて人間を見るかぎり我々は人間を人間として見ようとしない、そのことが問題なのだ」(p.47)。

投稿者 Masaki : 22:03

2003年11月02日

メディオロジーのその後

www.mediologie.comがなくなって「どうしちゃったのかしら」と思っていたら、「カイエ・ド・メディオロジー」は新しいサイトに移っていた。www.mediologie.orgがそれ。うん、たしかに会社じゃないんだから、comよりはorgの方がよいよねえ。ちなみに雑誌の方も、新にFayardからの出版となったようだ。で、カイエそのものは9月末に最新号(16号)が出た模様。特集は「永遠なる、移ろいやすきもの」。名古屋大に客員で来ていたドゥプリツキー氏による責任編集。未見だけれど、語の矛盾とも見える表題から察するに、電子メディアなどへの考察が多そうな感じか(笑)。ドブレ本人の関心はおそらく宗教学方面へと大きく傾いた感じがするけれど(『神、一つの道筋』に続き、『聖なる火』が刊行されているし、『絵画で見る聖書』旧約編・新約編というのも出ている)、カイエの方は比較的年齢層が若いせいか、やはり近現代の方に大きな関心が寄せられている。個人的には、もっと古い時代の根っこから説きおこしてほしい気がするのだが(笑)……。余談だけれど、定期購読者のみの配布とされていた号外(実は14号)『顔への介入』(Intervention sur le visage)もwww.fnac.comで普通に売られていた。

投稿者 Masaki : 22:01