2004年01月27日

Wag the dog ?

このところどのチャンネルを回しても、ニュースは議員の学歴詐称問題その他ばっかり。こういう騒ぎ方をする時というのは気を付けていないと。これまでも、そういうスキャンダルネタばかりが流れる時に限って、重要法案が通ったりとかしていたし。今回もすでにして自衛隊本隊の派遣命令などの話が、すっかり影を潜めている感じ。疑えばきりがないとはいえ、学歴詐称議員の引っ張り方(米国にわざわざ行ってみせるパフォーマンスとか)が、なんだか情報操作への加担に見えなくもない。やれやれだ。いつぞや深夜枠で放映されていたデニーロとホフマン主演の映画『ワグ・ザ・ドッグ/ウワサの真相』(1998)を思い出したり。この映画、大統領選挙前のセックススキャンダルをもみ消すために、テロ国家との戦争をでっち上げて世論をそらしてしまうというお話。wag the dogというのは、本来犬が尾っぽを振る(wag)のに対して、尾っぽが犬を振る(the tail wagging the dog)という「主客転倒の状況」を表す慣用句から取ったもの。うーん、選挙を免罪符として暴挙を続ける政府も、成り行きで世論がコロコロ変わる国民も、なんだかそれぞれに尾っぽが犬を振っている感じがしないでもない……。

投稿者 Masaki : 22:43

2004年01月23日

政治の捉え方

今週はジャック・ランシエールの講演会があったようだが、またしても行かずじまい。うーん残念(最近こんなのばっかり)。ランシエールは40年生まれの政治哲学者。『不和』("La mésentente", Galilée, 1995)くらいしか読んでいないのだが、そこでの「政治」の扱い方が面白い。ランシエールによると、普通に言われるような政治(秩序の敷設)は警察統治でしかなく、富者の占有によって貧者が生まれる(分与を受けないという「分与」が与えられる)ような状況において、その虚偽を正そうという動きこそが「政治」なのだ。これはまさに、階級闘争を政治の根底に位置づけるという話。しかもそれをアリストテレスに遡って考えようとする。こうした姿勢に、ランシエールの政治哲学がラディカル(根源的)だといわれることの一端が見て取れる。そしてまた、こういう議論を前にすると、ため息が出てしまう。それほどに、日本の国内政治なるものは茶番でしかないからだ……。それほどまでに

このランシエールの『不和』については、最近刊行された『来るべき<民主主義>』(三浦信孝編、藤原書店)に、松葉祥一氏による解説が収録されている。うーん、ただこの書籍(『来るべき……』)自体は、やはりどこか「強いヨーロッパ」幻想を支持するみたいな雰囲気があって(フランス中心だから仕方ないのかもしれないが)、多文化主義問題、クレオール問題などもフランスのヘゲモニーが色濃く投影されている感じで、上のランシエール的な問いかけなどはどこか落ち着きが悪くなってしまう……。そんな中では、ベンサイドとバリバールの寄稿がドイツ系の思想家などを盛んに引き合いに出しているのが妙に印象的だったり。

投稿者 Masaki : 20:43

2004年01月19日

ミリタリー・プレゼンス

陸自の先遣隊がついにクウェートへ。なんだか気になるのは、あの迷彩服だ。まずもってあれって普通は密林用じゃないの?砂漠では逆に目立ってしまうし(目立つのが目的なのか知らないけれど)、攻撃してくださいといわんばかりで、他国の軍に笑われていたりしないのかしらん?携帯する武器などでも、いろいろな「齟齬」が生じていたりしないのだろうか。「身が締まる思いだ」なんていうなら、まずは軽んじられないための工夫があってしかるべき(これはまあ、送り出される側というよりも、送り出す側の問題だが)。また、あんな格好で「人道支援でござい」といっても誰も信用しないんじゃないかしら?

迷彩服は基本的に敵の攪乱のためのもの。けれど多国籍軍が活動するようになってからは、そうした本来の機能よりも、民間人との区別のための意味合いが強く出されている気がする。もともと軍人の服装というのは、自己規定と身体的保護との両方の意味合いがある。西欧では「戦う人」として身分規定された中世の騎士の時代から、すでにしてその特徴的な格好にそのことが表されている(フランソワ・イシェ『絵解き中世のヨーロッパ』(蔵持不三也訳、原書房)あたりの図版を眺めよう)。それは武具の変遷とともに移り変わっていく(例えば盾は、時代が下るにつれ円形になり小型化していく)。ある技術決定論的な水脈(そこには批判も多いだろうが)がそこには見いだせそうで、近世から近代までそうした変遷をたどるのも興味深そうだが、さしあたっての問題はやはり、自爆テロ攻撃の時代の国際協力部隊の格好というか身なりのあり方だ。そういう部分の基本的考察というのはあまりなされていないのではないか。そのことを、今回の先遣隊は露呈している気がする。

投稿者 Masaki : 02:01

2004年01月17日

スポーツと運動遊技

管理社会が大好きなフランスのサルコジ内相は、訪問中の香港で日本嫌い発言をしたそうだ。「東京よりも香港が好き」「京都はどこがいいのかわからん」みたいなことだったようで、どうも次の大統領選を見据えつつ暗に日本びいきのシラクに噛みついたということらしい。極めつけは「相撲は知的なスポーツに思えない」というセリフ。まさにその器の小ささ、警察官僚的矮小さを表している気がしないでもない(笑)。運動遊戯がスポーツとして確立されるのは近代になってからで、もちろんその確立の過程は一大変革だったわけだが、一皮むけば、その下には土臭く乱暴な儀礼・祝祭の空間が広がっているのは明白だ(余談ながら、そのあたりの感触を感じ取るには、たとえば池上俊一『遊びの中世史』(ちくま学芸文庫)などを見ればよい)。あとはそれを覆う意味作用の皮膜が、どれほど下部の暴力性を隠しているかの程度の差があるだけだ。中世の暴力・遊びの文化は、当局の「管理指向・取締り指向」をもってしても収まりきらなかったわけで、おそらくサルコジはそういう暴力性がむき出しレベルが高いものを嫌悪している。それはとりもなおさず、自分が行使しようとする暴力(取締りの)を直視しようとしないスタンスに繋がっていく……。

投稿者 Masaki : 10:36

2004年01月14日

強いヨーロッパ?

13日は都内でエマニュエル・トッドの講演会があったようだが、病み上がりのため行けなかった。ちょっと残念。トッドも基本的には「強いヨーロッパ」論者という気がするのだけれど、周辺から(ポーランド、スペイン、英国)から異議申し立てが持ち上がるなど、独仏を中心とした機構のあり方にはすでにして問題が出まくっている。EU理事会が決定した「安定化協定の一時保留」についても、EU委員会の側がEUの司法裁判所に訴えるなど、足並みの乱れを強く印象づけている……。

谷川稔編『歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ』に最近目を通したのだけれど、そこでたびたび問題になるのが、ヨーロッパの自己規定だ。複合をまとめる拠り所としての「他者」と「自己」を、今現在のコンテキストでどう析出しようとしているのか。キリスト教的なものも求心力は失っているし、拡大EUの先にはトルコの加盟問題も控えている。正教との絡みもあるし、ローマ帝国への言及は、過去においてさんざんナショナリズムの高揚とともに引き合いにだされてきたことから、そうした民族主義的な亡霊を呼び起こす可能性もありそうだ。あるいは、ひたすら米国に対立する軸として否定的な規定を課していくだけなのか。うーん、けれでもトッドの説によると、米国はもはや凋落の途上にあるというし……。そうしてみると、あるいはシンボリズムを伴わない、つまり求心力のない中での緩やかな連合という形で、「強くない」ヨーロッパとして存続していくしかないという風にも見えるのだが……。いずれにしてもEUは、ある壮大な実験過程として興味深い。
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投稿者 Masaki : 23:07

2004年01月09日

規律訓練

今週は7日ごろから風邪でダウン。熱が出る前にかろうじて目を通せたのが、『現代思想12月臨時増刊 - 総特集フーコー』(青土社)。うーん、日本の書き手たちは多くがフーコーに対してどこか妙にドライでさめている感じ。ま、いいんだけど(笑)。そんな中で注目は翻訳ものの2編。ナンシー・フレーザーは、フーコーの基本的スタンスを「フォーディズム型規律訓練の理論家」として、現在、それに代わりつつある「市場メカニズム」による社会統制に、そのフーコー的な視座を当てはめることを提唱する。それに対する反論で、トーマス・レムケはそうしたフォーディズム型規律訓練の理論家という規定を狭さを批判し、新自由主義的統治のテクノロジーについても目配せをしていると述べている。ごくごく単純化すれば、前者がフーコー分析がもつ「時代との関連性」を強調し、それを組み替えて現代に適用しようとするのに対し、後者はフーコーの思考をより普遍的な相から捉えるならば、そこに現代に適用できるものが内在されている、と見る……といったところ。どちらのスタンスにもそれなりの理はありそうだが、社会統制はフォーディズム的なものから市場メカニズムによるものへと移行したという議論は、確かにちょっと難があるかも(笑)。市場メカニズムは統制というよりも統制を促すに好都合な枠組みを作り上げている感じがあるからだ。そう、レムケが言うように、経済中心の捉え方では本質を見誤る可能性もありそうだ。規律訓練・社会統制は必ずしも経済的なだけの事象ではないわけで……。

投稿者 Masaki : 23:40

2004年01月03日

ラシーヌ

とある方々のご厚意で、予定になかった劇団四季の『アンドロマック』を観る。うーん、その方々には悪いのだが、劇団四季だというのがちょっと不安だった……で、それが見事に的中した感じ。ラシーヌの出世作といわれるこの作品、トロイア戦争後を舞台に、情念に弄ばれる為政者ら4人の四角関係のゴタゴタが描かれる……のだが、悲劇なのにクライマックスで笑いのツボにはまってしまい、個人的には笑いをこらえるのが大変だった。悲劇を笑劇に変えたのは、フランスの古典主義時代っぽくもなく、ましてギリシア悲劇的でもない演出と、一本調子の一部のキャストのせい……かしらね?

それにしてもこの『アンドロマック』、表題になっている役どころの登場回数が一番少ないのが興味深い。ラシーヌはこういうのがお得意だったようで、たとえば最近邦訳も出ているルイ・マラン『王の肖像』(Louis Marin, "Le Portrait du roi", Editions de minuit, 1981)では、ラシーヌがアカデミー・フランセーズで行った演説に一章が当てられている。そこでのラシーヌは、コルベールの賛辞を通じて王そのものを讃えるという「戦略」を取る。「<表象する>ことの無力さを通じてそれ(示すべき対象)を<表す(現前させる?)>」(p.139)。これぞまさにラシーヌの真骨頂なのだ。かくして『アンドロマック』の各場面も、その場にいない者の影に支配されるのだ。うーん、不在のものによる場の支配というのは興味深いテーマ系だ。ロラン・バルトの『ラシーヌ論』とかもういっぺん読みたい気がする。

投稿者 Masaki : 19:17