2004年02月29日

ニッチへ……

すごく久しぶりに雑誌『ユリイカ』を手に取った。特集は「論文作法−−お役に立ちます!」。このコピーが笑わせてくれる。中は大学の論文をめぐる環境への愚痴めいた話のオンパレードか……と思って眺めていたら、長谷川一「棲みつくことと旅をすること」に、歴史家ロバート・ダーントンが、悪化する米国の出版事情と就職難への対応として、出版プロセスの電子化を主張している話が紹介されていた。うーん、出版プロセスを電子化したところで、それが業績の点数主義に関わっている限り、出版点数のインフレが起きるだけで、状況が好転するようにはとても思えないんだけど。

この特集では、随所で『ユリイカ』やら『現代思想』やらが同人誌化したとか就職の道具の一つになったとか閉塞感漂うことばかりが書かれている。パフォーマンス感覚(シャレ感覚)がなくなったのは確か(バブルの頃の「総パフォーマンス指向」もかなり不毛だったけど)だけれども、はやそういう時代ではなさそうだ(かつてのパフォーマー、高山宏や蓮實重彦も、今やすっかり懐古調になっちゃってるし)。そういえば写真などの若いクリエータたちの中には、写真集みたいな紙の媒体に落とすことをもはや指向していない人も多いという。動画やインタラクションが、ごく普通の指向対象として遍在しているということ。うーん、そういう時代だからこそ、逆に文字に密着している論文が、教育的・研究的な一つのニッチとしてどういう意義を担えるか、ということが大事になるように思える。とすれば、やっぱりそろそろ本来の「研究指向」に回帰してくしかないかも……と。それそまさにニッチ、あるいはオルタナティブな「開かれた」閉塞か。

投稿者 Masaki : 22:48

2004年02月26日

被害者の声

血液製剤によるエイズ感染事件、北朝鮮の拉致問題、オウムによるサリンのテロなど、このところ日程的な重なりのせいか、各事件の被害者らが再びテレビのインタビューに登場している。ちょっと気になるのが、拉致問題の被害者の家族の口調だ。政府の対応に嫌気が差しているせいか、どこかそのトーンは評論家じみてきている。「経済制裁をしてほしい」というのは、なるほど進展しない協議に怒ってのことだろうけれど、それは拉致問題そのものへの直接の言及ではもはやない。きわめて外交的・政治的な領域への言及だ。これは正当な発言なのか、それとも横滑りなのか?うーん……。

被害者には語る権利がある。事件の究明や賠償などを求める権利がある。そのことは確かだ。では、そういった「求め」を表明する際、どこまで言及可能なのか。この場合でいえば、事件の解明への圧力をかけるために外交の在り方にまで言及するのは可能なのか。これは政治哲学的な問いだ。もう一つ、現実的な問いもある。彼らが言及する経済制裁はごく普通に考えられる施策で、何もアクロバティックなものではない。とすれば、そうした制裁措置が取られない状況には当然、それが取られない理由があるはずだ。そして被害者たちは(少なくともテレビなどで報道される彼らの発言では)その理由を究明しようとしているようには見えない(どうなんだろう?)。そのため、彼らの発言はいかにもテレビ評論家風の「言っただけ」発言にしか見えなくなってしまう。それでは世論も動かない。このように、実効性という点から見ても、彼らがテレビなどの場で外交の在り方を口にすることは空しい行為でしかなくなってしまう。では、彼らが圧力をなしうるにはどうすればよいのか。これがその現実的な問いだ。

特定の事件の被害者だけではない。これって様々な意味での弱者の立場にあてはまる問題だ。「弱い人々に声を与えよ」というだけでは十分ではない。やはり「どう語るのか」「どう動かすのか」という戦略的指針がなくては。うーん、そのあたりの具体的なモデルを考えないといけない……。

投稿者 Masaki : 22:23

2004年02月22日

反ユダヤ主義

中東問題にも絡んで、またクローズアップされてきているのが欧州にずっと残る反ユダヤ主義の動き。ブリュッセルでは19日、欧州委員会と世界ユダヤ会議の主宰で反ユダヤ主義についてのセミナーが開催されたそうだ。フランスの新聞Liberationの記事では、元ノーベル平和賞の受賞者エリ・ヴィーゼルが、「右派はもともと反ユダヤで、左派も反イスラエルの姿勢が反ユダヤに転じ、イスラム教徒の間でも反ユダヤ感情がある」と述べている。セミナーの出席者らは、それがかなり切迫した問題であることをアピールしているようだ(1930年代に戻っている、という発言も出ている模様)。その一方で、上の記事は、反ユダヤ的な動きが2003年には前年より少なくなっているといった話も紹介している。このあたり、よく見えてこない部分だけれど、オランダでは、イスラエルが作っている「壁」の合法性についての国際法廷の審議が始まることもあって(23日から)、どこかしら政治的思惑が働いている感じもある。また、オランダでは、移民規制法案が下院を通過したりしているけれど、なんとなくそうした排斥の空気が、反ユダヤ主義をもクローズアップしている感じもある。「反ユダヤ主義が高まるのは、ユダヤ人の実際の影響力が後退した時だ」(ハンナ・アーレント『全体主義の歴史』)とするなら、実体を伴わない亡霊的な浮遊こそ危険な徴候かもしない。

投稿者 Masaki : 19:55

2004年02月14日

ジョイス?

なんでも、アイルランドの作家などがジョイスの『ユリシーズ』を非難しているらしい(ロイターの報道)。うーん、これはどういう動きなのだろう?そりゃ、確かに『ユリシーズ』は単純に読んで「面白かった」というようなものではないけれど、今になって騒いでいる背景が見えてこない……。ジョイスがケルトの文化的伝統に繋がっていることは、例えば鶴岡真弓『ジョイスとケルト世界』(平凡社ライブラリー)などに詳述されている。その内省的な執筆姿勢もケルトの聖職者のようであり、作品世界も、ケルト文様のような複雑な入れ子模様をなしている、とされる。なるほど、そういう点からすると、上の現代作家らの非難は、ある意味でローカルなものを極めていったジョイスの姿勢が一種のアイルランド文学の固定観念を作り、グローバルに展開しようとする自分たちの作品(なにせアイルランド文学も英語で書かれるのだから)のマーケティングへの足かせになっている、という貧相な話のようにも読める(笑)。うーん、マーケティング的発想ばかりが幅を利かせる状況は、地域文化の独自性を害し、画一化を招いてしまう危険を伴うといわれているのに……。英語圏でのマージナルなポジションが、そういう焦りを生んでいるのだろうか?

投稿者 Masaki : 21:36

2004年02月11日

「正教分離=宗教色排除」

フランスの国民議会で審議されていた、イスラム教のスカーフなど宗教的しるしを禁止する法案は、圧倒的多数で可決された。カタールのアルジャジーラも取材し、CNNは生中継したこの採決、賛成票を投じた議員らは与野党いずれも「共和国の原則を示したのだ」と自慢げだ。

「政教分離」とも「宗教色排除」とも訳されるlaïcitéだが、確かにこの原則が掲げられるのはフランス革命以降のことなのだけれど、実はそこに、ある意味で西ヨーロッパの特殊性、独特さも見られる。歴史家ジャック・ル=ゴフの新刊『ヨーロッパは中世に生まれたのか?』("L'Europe est-elle née au Moyen Age ?", Seuil, 2003)から、そのあたりの話に触れた一節を紹介しておくと、政教分離の発想はかつて、グレゴリウス7世の改革(11世紀)により教会側が世俗権力から完全に分離する形で生まれている。皇帝と教皇とが渾然一体となったビザンティンとも、政教を分離しないイスラムとも違い、ラテン・キリスト教文化圏だけは、「一般信徒」というものの切り離しを果たしている(p.87)。もちろんそれは教会が支配する形での分離だし、その後の紆余曲折もあって、特にフランスでは教会権力は世俗権力と密な関係を保っていくわけだけれど、いずれにしてもその分離問題の底辺は、中世にまで遡ることができる。

それにしても、こうしたスカーフ問題の再燃は、ある意味で西欧の「アジア化」、あるいは「アジアの逆襲」を強く印象づける。今回の法案通過は、共和国の原則をかざしているように見えて、そのさらに下の古層の底流を掘り起こしている感じもしなくない。つまり、ラテン・キリスト教圏による異教的アジアの封じ込めだ。法案に反対するある議員が言っていたように、「問題は終わらない」だろう……。

投稿者 Masaki : 22:26

2004年02月05日

解釈の統制

フランスのテレビ局France 2は、不正資金疑惑で一審の有罪判決が出たジュペ元首相の進退問題について、完全に見込み違いの報道を行った。政治活動はとりあえず継続する、という話なのに、France 2の夜のニュースは、ジュペ氏のパリでの挨拶回りを引退の挨拶ととらえ、意向が発表されてからも「漸進的に引退する考え」と報じ(3日)、翌日には訂正するという失態を見せた。うーん、予断に足を救われた形……。まさに報道にかかる「バイアス」の現場をかいま見たような気分だ。

ちょうどカルロ・ギンズブルグの論集(日本版オリジナル)『歴史を逆なでに読む』(上村忠男訳、みすず書房)を読んでいたのだけれど、そこでは、例えば異端裁判において、裁判官が被告から自分たちの望む真実を無理矢理引き出す様と、その裁判記録を後世になって読む歴史家との、スタンスの近親性を改めて指摘している(もちろんそれは微妙で、差異もまたあるのだけれど)。その際、裁判官が記す記録は、彼らの解釈で汚れると同時に、記録の対象がもつ異質なものを「照らし出してもいる」という。結局、自分の解釈を、「はるかに広範な比較を遂行することによって、統制する」(p.146)ことが大事なのだ。うん、これは重要なポイントだ。メディアリテラシーといわれるものも、結局はそこに帰着する……。

投稿者 Masaki : 23:50

2004年02月02日

ゆるい相互制御

このところ猛威を振るっているMyDoomウィルス。なんでもSCO(LinuxがらみでIBM相手に訴訟を起こして顰蹙を買っている会社だが)に対してDoS(Denial of Service)攻撃をしかけるものなのだという。いくらSCOに頭に来るからって、ウィルスばらまいて攻撃するなんてのは、そもそも、オープンソース的な考え方にまったく反する所作だ。オープンソースの一大メリットは、ゆるい相互連携、ゆるい相互制御にあったはず。コードの出自問題(これをSCOは問題にしているのだけれど)なんぞは、そうした制御の過程で排除されるべきものだしね。

最近文庫で出た、マイケル・ポランニー(カール・ポランニーの兄)の『暗黙知の次元』(高橋勇夫訳、ちくま学芸文庫)では、もともと権威に反抗することを信条して発展した近代科学が、権威化と新たな発見という矛盾するもの同士での揺らぎをどう処理してきたかという点について、「相互制御の原理」があったのだと記されている。早い話が、科学者同士が違いに目を光らせている、という状況(けれど、昨今の相互監視とはどこか根本的に違っている)のことで、当たり前といえば当たり前なのだけれど、それからすると、なるほどオープンソースは、企業から科学者集団へとモデルの変更を提唱するものだったわけだ。ただ、このゆるやかな連携、市場の論理(例えば特許ビジネスなど)を前にすると座りが悪くなっていく感じだ。

もちろん、そういう相互制御には、例えば新人の参入が徒弟制度的にならざるを得ないとか、いくつか負の面もありそうだけど、その徒弟制度が負の面として立ち現れるようになったのも、市場の論理が絡んでくるから、という気もしなくもない。うーん、そのあたりの話、歴史的な面も含めてもうちょっと考えてみたいかも。

投稿者 Masaki : 23:45