Croissade Albigeoise

『アルビジョア十字軍叙事詩』要約プロジェクト


佐藤賢一の小説『オクシタニア』は、アルビジョア十字軍の話が題材になっています。アルビジョア十字軍は、アルビジョア派、いわゆるカタリ派の討伐のため、1209年から始まった十字軍です。ベジエの全市民が虐殺されるなど、なんとも血なまぐさい戦いが展開します。制圧と反逆とが繰り返され、その混乱は1226年ごろまで続き、最終的にはフランス王の介入で、トゥールーズ伯との間にパリ和約が結ばれ、十字軍は終結します。

この昨今の帝国的戦争をも彷彿とさせる出来事は、壮大な叙事詩となって後世に残っています。パリの国立図書館写本No.25425というのがそれで、プロヴァンス語で書かれた1万行ほどもあるアレクサンドラン(12音節詩句)の詩ですが、現存しているのは1219年までの部分です。作者はギヨーム・ド・テュデルというスペイン北東部のナバラ出身の人物で、この叙事詩は1210年ごろから書かれたとされています。まさに現代のニュースやblogにも匹敵するような速報詩だったように思われます。

その内容、その書きざまなど、ここには戦争のディスクールを考える上での重大な示唆があるような気もします。そういう意味も込めて、この叙事詩を見ていきたいと思います。今回は全訳はせずに、エピソードごとに要約を作っていきたいと思います。エピソードデータベースのようなものを作るのが主眼です。底本は、"La chanson de la croisssade albigeoise I - III"(Les belles lettres, 1957-89,)です

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[1]プロローグ

◇内容要約:

以下はギヨーム(ギレルムス)の記す叙事詩である。ギヨームはナバラのトゥデラに出身の学僧で、後にモントーバン(1)で11年暮らした。12年目に土占い(2)で予知した惨状のため、その地を離れた。ギヨームは長年その学(土占い)を修め、その地で行われた狂信(アルビジョア派の信仰)のため国土が焼き払われ荒廃することを予知したのだった。裕福な市民は財産を奪われ、騎士たちも犠牲になった。ギヨームはモントーバンを離れると、ボードゥアン伯爵(3)のもと、ブリュニケルへと赴いた。ボードゥアン伯は歓迎し、サン・タントアン・ド・ルエルグの司教座聖堂参事会の職を手配し、テディーズやジェオフロワ・ド・ポワティエらとともに過ごした。ギヨームがこの叙事詩を書いたのはその頃で、眠る時間を惜しんでひたすら執筆した。心して読むべし。

◇注、コメント:

序文は叙事詩(の第一部)の著者である学僧ギヨーム(Guilhelms = Guillaum)の紹介文。(1)モントーバン(Montalba = Montauban)はトゥールーズの北方の町で、現在はタルヌ・エ・ガロンヌ県の県庁所在地。(2)ギヨームが行っていたという土占い(geomanica = géomancie)とは、土に図形を作ってその形状から占うというもので、中世では占星術に並ぶ予言術だった。(3)モントーバンから逃れたギヨームを受け入れたボードゥアン伯(comte Baudouin)は、トゥールーズ伯。レイモン5世の末っ子で、母親コンスタンスはフランス王ルイ7世の妹にあたる。

[2}

◇要約:

本作はアンティオキア叙事詩(1)を手本としており、同じ節で朗唱できるよう韻も構成も同じにしてある。

さて、異端派はアルビジョア全域やカルカセス、ロラゲ一帯、ベジエからボルドーまでを席巻した。これまでにないその広がりぶりを目の当たりにした教皇(2)および聖職者たちは、代表団を派遣して説教を試みた。その先頭に立ったのはシトー会だった。また、オスマ(3)の司教や教皇特使らは、異端派との話し合いの場を持った。場所はカルカソンヌで、アラゴンの王(4)とその諸侯も列席したが、交わされる議論から彼らが本当に異端であることに納得し、その由を書状でローマに伝えた。彼らの説教は傷んだ果実でしかなく、5年ほどもそのようなまま放置されていたのだ。彼らの多くがやがて死を迎えるのは、道理あってのことだったのだ。

◇注、コメント:

その後の殺戮を正当化づけようとしている一節。(1)アンティオキア叙事詩(Chanson d'Antioche)は同じくプロヴァンス語で書かれた12世紀末の叙事詩で、現在は断片しか残っていないという。著者ギヨームが「同じ節(air)」で歌えるようにしているということからして、アンティオキア叙事詩の人気の高さが窺える。(2)ここでの教皇はイノケンチティウス3世(在位1198 - 1216)。(3)オスマ(Osma)は旧カスティリヤの町。(4)アラゴン王国のペドロ2世(在位1196-1213)。マルタン=シャボーの注釈によれば、カルカソンヌの会議は1204年2月、一方のオスマの司教が参加する会議は1207年のモンレアルの会議とされ、著者ギヨームに混同があるとしている。

[3]

◇要約:

レリダ近くのポブレと呼ばれる場所にあったシトー会修道院に、優れた聖職者がいた。学識はその威厳をいっそう高め、やがてグランセルブの聖職者として迎えられる。後に別の会議が開かれた際、この人物はシトー会の聖職者となる。この聖人も、異端がはびこる地へと赴くことになる。改宗させようと説教を行うが、いくら説得を試みても相手はひたすら嘲るばかり。とはいえこの人物は教皇特使であり、不信心の徒を壊滅させる権限(1)も付与されていた。

◇注、コメント:

(1)教皇特使に与えられていたのは、信仰を正すための「破壊、解散、奪取」などの権限だったという(1204年5月の勅書による)。この時点でも、すでにして強行手段に訴えることが可能だった。この特使になった聖職者とはこれに続く下りで出てくるアルノーのこと。

[4]

◇要約:

シトー会の修道院長アルノーは、教皇特使を率い、徒歩や馬で各地をめぐっては異端派に対する論駁を行った。だが、異端の側はいっこうに意に介する気配もなかった。やがてピエール・ド・カステルノー(1)がローヌ川沿いに到着する。彼はトゥールーズ伯を破門(2)した。伯が雇っていた私兵が、行く先々で略奪を行っていたからだ。だがこの時、伯に取り入ろうとした近習(3)が、ピエール・ド・カステルノーの背中を矛で突き殺害した。この近習はその後、故郷のボーケールまで逃走した。ピエール・ド・カステルノーは息絶える直前、天に向けて手をかざし、近習いの罪を許すよう神に祈った。彼は聖体拝領を受け、早朝に亡くなった。ロウソクの明かりと聖職者らの歌う「キリエ」に見送られて、遺体はサン=ジルに埋葬された。

◇注、コメント

戦争・紛争の発端には、やはりこうした殺害事件が描かれる……。(1)マゲロンヌの司教代理を務めた後、教皇特使となった人物で、1203年2月にトゥールーズで特使として活動していた。(2)この破門が伝えられたのは1207年5月29日とされる。トゥールーズ伯レイモン6世の私兵は、カトリックの教会や修道院の財産を略奪して暮らしていたとされる。(3)いわゆる騎士見習い(écuyer)。

[5]

◇要約:

その知らせを受けた教皇は、悲しみに打たれ、コンポステラの聖ヤコブと、ローマの聖ヨハネとに祈りを捧げ、殺害犯の破門を宣言しロウソクを消した(1)。周りには12人の枢機卿のほか、そこにはシトー会の修道院長と、ラテン語に長けたミロン師もいた。そしてその場で、粛正の決定が下された。この決定ゆえに、やがて多くの者が腹を割かれて命を落とし、多くの女性たちがマントも服も奪われることになるのだ……。決定では、モンペリエからボルドーにいたるまで、抵抗する者を殲滅せよと命じられた。私はこの話を、ポンス・ド・メラ(2)から聞いた。この者は、テュデルを所有するパンペリューヌの領主からローマに派遣された最も優れた騎士で、異国の王ミラマモリン(3)からも認められた人物だ。アラゴン王やカスティリャ王とともに従軍したこともあり、その話は別の叙事詩になりうると考えている。

◇注、コメント

当時の教皇インノケンティウス3世は絶大な権力を誇った教皇。(1)破門の儀式では、12人の聖職者とともにロウソクを手に持ち、破門を宣言した後で全員がそのロウソクを投げ捨てる。(2)この人物については詳細は不明。(3)モロッコのイスラム教徒の王。「信者の首長」ことエミール・アル・モメニン(emir al moumenin)という称号が、スペインに入ってミラモマリン(Miramomalin)に訛ったのだという。

[6]

◇要約:

シトー会の修道院長は頭を垂れていたが、大理石の柱のそばに立ち、教皇に向かって進言した。「この件は騒がしくなってきています。書状をお書き下さい。私が届けましょう。フランス全土に、リムザン地方一帯に、ポワトゥ、オーベルニュ、そしてペリゴールまで、その書状を送るのです。コンスタンティノポリスまでの各地に、贖宥(1)を知らしめるのです。十字軍に参加しない者は、もはやワインも飲めず、食卓につくこともかなわず、麻や亜麻の衣類も着られず、亡くなっても埋葬してもらえなくなるのだと」。言い終わると、枢機卿たちはみなこれに同意した。

◇注、コメント

(1)1208年3月の勅書に、異端の征伐に参加する者は教皇から罪の許しを受けるということが書かれているという。ここでのシトー会の聖職者の発言は、言い方を裏返して、参加しなければ罰を被るという形で列挙されているのが興味深い。

[7]

◇要約:

シトー会の修道院長(後にナルボンヌの大司教に指名された)は司教冠を離すことのなかった徳の高い人物だった。その意見を、皆黙って聞いていたが、教皇だけは、曇った表情でこう言った。「カルカソンヌとガロンヌ川流域のトゥールーズに、背信者らに対する軍を率いて行ってもらいたい。キリストの名のもとにカトリック教徒の罪を許し、異端者を追い出すのだ」。これをうけて修道院長は、第9時(午後3時ごろ)に出発して町を後にした。随行したのはタラゴンヌの大司教、レリダ、バルセロナ、モンペリエ近くのマゲロンの司教、さらにはスペイン側からも、パンペルーネ、ブルゴス、タラソーナの司教がいた。いずれも修道院長と行動を共にした。

[8]

◇要約:

教皇のもとを後にした修道院長は、馬にのりシトー(1)へと赴いた。ちょうどそこでは、十字架称賛の祭日(2)に合わせシトー会の聖職者(白の修道士たち)らが修道院修士会を開いていた。修道院長はミサを執り行い、その後で説教を行って、教皇勅書を見せ、聖職者たちに地の果てまでも赴かなくてはならないかを説いた。

こうしてフランスと王国全土の十字軍が始まった。異端やヴァルドー派(3)に対して集まった数は生涯で目にしたうち最大のものだった。その十字軍にはブルゴーニュ公、ヌヴェール伯その他の有力諸侯も参加した。騎士らは、右の胸に金銀や絹の刺繍で十字架をあしらい、武具や装備を固めてやって来たが、その詳細はとても説明し切れない。こうしてベジエの城壁のもとに軍が結集した。

◇注、コメント

戦闘開始前の部分。実際の戦闘描写は[12]節以降となる。(1)シトー(Cîteaux)はフランス東部ディジョンの南の小村。プロヴァンス語ではCistel。シトー会はこの地にモレーム修道院長ロベールが1098年に創設した修道会。染色していないウールの衣服を着ていたことから、白の修道士と呼ばれる。(2)十字架称賛の祭日は9月14日。326年9月14日にローマの皇太后ヘレナがキリストの十字架を発見したとされるのが、その祭日の起源。シトー会ではこの日、シトーの本拠地で修道院修士会の総会が開かれることになっていた。(3)ワルド派ともいう(Vaudois)。リヨンの豪商ヴァルド(Waldes)が回心し、家財を捨てて清貧生活に入ったのが発端とされる。1184年に異端とされる。宣誓と幼児の洗礼を認めないものの、それ以外では正統教義と対立していないとも言われ、後の宗教改革の先駆とされることもある。

[9]

◇要約:

トゥールーズ伯、ベジエの副伯(1)、その他公爵たちは、フランス人らの十字軍遠征を聞きつけると、かなり苛立ったと叙事詩に伝えられている。レイモン伯はオブナスで開かれていた教会会議に出かけていき、修道院長の前に跪き、痛悔の祈りを捧げ許しを乞うた。しかし修道院長は、ローマの教皇および枢機卿の決定が変わらない限り何もできないと述べた。このため伯は大急ぎで引き返し、甥にあたる副伯に、相手側に付かず、共同で伯領の防衛に当たって欲しいと嘆願した。だが副伯は煮え切らない返事をするだけで、結局話はまとまらず、レイモン伯は苦々しい思いで、プロヴァンスの地へ、アルルやアヴィニョンへ(2)と戻っていった。

さて、いよいよ話は佳境に入る(2)。時は紀元1210年5月のこと。モントーバンに滞在していた聖職者ギヨームは、それに参加した。多くの楽師ら、多くの悪漢たちがやって来たが、礼儀正しい人々も多くいて、ブルターニュの馬やら絹の衣服などを贈られた。けれども今や世知辛い世の中となり、裕福な人々、本来誠実な人々も意地が悪くなり、ボタン分すら寄贈したがらない。こちらも暖炉の灰の燃えかすほども期待しはしない。まったくなんということなのか!

◇注、コメント:

十字軍の結成の知らせを知った(1209年2月の教皇の勅書により知ったと考えられる)レイモン伯が戦争回避にむけて手を打というとしていたことが窺える箇所だが、オブナスの会議など詳しい史実はわかっていないという。(1)ベジエの副伯(vicomte)とはレイモン=ロジェ・トランカヴェル。父親はカルカソンヌとベジエの伯だったロジェ2世、母親はレイモン6世の妹。(2)これはローヌ側下流域を指す比喩的な言い方ではないかとのこと。レイモン6世は1209年6月にニーム近くの町サン=ジルに滞在していたという。(3)この一節はいわば閑話休題。叙事詩が朗唱される際には、こうした一区切りが各所で挿入される。聴衆を喜ばすための苦言などが入れられる。

[10]

◇要約:

トゥールーズ伯(ボケールの領主)は、甥が自分に反感を抱いていること、そして敵側の戦争の意向が揺るがないことを知り、十字軍が自分のところに達するにさして時間はかからないだろうと踏んだ。そこで伯は、自分の代父だったガスコーニュのオーシュの大司教や、コンドンの大修道院長、ラバスタンのレイモン、施療院の院長などにもメッセージを送った。彼らはローマに赴き、さらに皇帝のところにも赴いた。彼らは教皇と協議し、ある合意にこぎ着けた。

[11]

◇要約:

一行は大急ぎでローマに乗り込み、言葉巧みに、また貢物によって、トゥールーズ伯の処遇に関する合意を得た。伯は領地内の7つの城を担保として差し出し、教皇の命令に従うことになった。教皇の側はミロンという名の高位聖職者を使わし、伯はその者に従うこととした。ただしミロンは年が変わる前にサン=ジルで亡くなった。いずれにせよ、この合意の知らせを聞いたベジエの副伯は、悔しさをたいそう募らせた。可能なら自分も同じような合意をまとめたかったのだ。とはいえ教皇特使(ミロン)は、副伯のことを重んじなかった。副伯は急いで臣下を集め、カルカッソンヌにある自分の城塞都市で十字軍を待ちかまえた。ベジエにとどまった人々はそのことを後悔することになる。生き延びたのはわずか150人もいなかったからだ。

◇注、コメント

叙事詩は本来聞くものであったため、それを考慮して話が行きつ戻りつする。11節でも10節を受けて、より詳しい内容を語っている。ベジエの戦いについてもこの後に詳細が語られていく。トゥールーズ伯は様々な外交戦略を講じたが、ペジエの側はトゥールーズ伯の共同防衛の提案をペンディングにし、独自の外交的な動きも取っていなかった。トゥールーズ伯がミロンに従うことを約束するのは1209年6月。ベジエの戦いの1ヶ月ほど前にあたる。

[12]

◇内容:

シトー会の修道院長は馬にのり、大司教や多くの聖職者を伴って隊列を作った。宿営地での会議はミラノ軍(1)の会議よりも長く続いた。さらにブルゴーニュ公も馬で参加し、ヌヴェール伯も武具に身を固め、サン=ポル伯も隊を率い、オーセールのピエール伯も部下を引き連れ、ジュネーヴのギヨーム伯、ポワティエ候アデマールも臣下ともども加わっていた。幾多の戦の舞台となったフォレス伯の領地を攻撃した人物だ。さらにアンデューズのピエール・ベルモンもいた。プロヴァンス地方から参戦した人々の名を挙げていったら明日の朝になっても終わらないほどだ。とうてい数え切れないほどの人々が集ったからだ。

[13]

◇内容:

きわめて大きなその部隊には、あらゆる武具を備えた2万の騎士と20万の農民がいた。さらに多数の聖職者と商人らもいた。人々は全国から駆けつけていた。オーヴェルニュ、ブルゴーニュ、フランス、リムザンなどだ。ドイツ人、ゲルマン人(2)、ポワトゥー人、ガスコン人、ルエルグ人、サントンジュ人などがいた。有能な聖職者であっても名簿を作るには2ヶ月から3ヶ月かかるだろう。プロヴァンス、そしてウィーンの民がみな来ていた。イタリアへの峠からロデズ下流まで、人々が従軍した。旗を掲げ、大きな隊列を作って行軍した。カルカソンヌの抵抗もないだろう、トゥールーズは陥落するだろうと踏んでいたが、この都市は事前に平和協定を結んでいた。水路での行軍では船で物資を運んだ。トゥールーズ伯もほどなく加わることになっていた。

十字軍には、アジャンからの部隊も加わった。故郷を立ったのは1ヶ月も前で、その中にはオーヴェルニャの宮廷人ギー伯や、テュレンヌの副伯、リモージュとバザスの司教、ボルドーの大司教、カオールの司教、アジャンの司教もいた。ベルトラン・ド・カルディヤック、グルドン候、カステルノーのラティエ、ケルシー地方の全軍もいた。この軍は、たいした抵抗もなくピュイラロックを制圧し、ゴントーの町を破壊し、トナンスの町を荒らした。だがカセヌイユに入らなかった。俊足で投槍を得意とするガスコン人の守備隊が、堅く防衛していたためだ。

◇注、コメント

(1)ウージェーヌ・マルタン=シャボーの注によれば、フリードリヒ1世(バルバロッサ)への抵抗などで、ミラノ軍はその強さにおいて当時名をなしていたという。(2)厳密には南部の高地ドイツの民がアルマン(Allemand)、北の低地ドイツがゲルマン(Tiois = Tudesques)。

[14]

◇内容

十字軍はカスヌイユの町を包囲した。そこにはセガン・ド・バランが率いる多くの射手と騎士がいた。たとえギー伯が止めていなくても町は占拠されていただろう。伯はとにかく利を得、大司教と口論になった。どのような合意がなされて包囲が解かれたのかは不明だ。この遠征では、改宗を拒んだ多くの異端派が火刑に処された。ピュイの司教もシャシエの方からやって来て、コサドやサン=タントワーヌの町から多額の金銭を得た(1)。司教は、最初に立ち寄ったサン=タントワーヌで、カスヌイユを包囲する軍へと赴くことにした。兵力が少なく思えたため、加勢しようと考えたのだ。ヴィルミュールの町では、ある少年が、軍がカスヌイユから出発したと報じたため、住民は月曜の晩に町に火を放ち、夜のうちに逃げようとした。

これとは別の一軍がモンペリエに到着していた。率いていたのはレイモン伯で、敵対する甥の領地にあって宿営地などを指示していた。

[15]

◇内容

レイモン伯の甥であるベジエの副伯は、昼も夜も領地の防衛につとめた。世界広しといえど、彼ほど優れた、勇気ある騎士はいなかった。副伯がカトリックの信徒であったことは、現地の聖職者なども証言している。だが、その若さゆえに、領地の臣下とも親しくつき合い、臣下の側からすると、副伯はまるで同等の身分であるかのようだった。騎士や臣下の城や塔には異端派の人々も泊まっていた。ベジエが滅んだのはそのせいだったのだ(2)。副伯もまた、その大きな過ちのせいで悲しい最期を遂げた。私が副伯の姿を実際に目にしたのは、トゥールーズ伯とエレオノールの婚礼に際して一度きりだった。この王妃(3)はこの上なく美しいお方で、言葉ではとても言い表せないほどだった。さて話を戻すと、ベジエの副伯は、敵軍がモンペリエを越えたことを知ると、馬に乗り、夜明け前にベジエに入城した。

◇注、コメント

(1)司教が得た金銭(primer = deniers)は、住民らが身代金として支払ったものだという。(2)叙事詩によく見られる話の先走り。行ったり来たりと反復を繰り返しながら話が進んでいく。(3)この人物はアラゴン王国の王ペドロ2世の妹にあたり、そのため中世の慣例として「王妃」(reine)と呼ばれていた。

[16] ベジエの住民に対して副伯は援軍が来るまで町を守るよう言い、自分はユダヤ人を引き連れて(1)カルカソンヌに向かった。十字軍を迎えに行っていたベジエの司教は、町に戻るとサン=ナゼールの教会に人々を集め、戦って殺害されたり捕虜になったりする前に町を明け渡すように告げた。失った財産はそのうち戻るだろうが、戦いになればそれも適わない、とも語った。[17] だが住民の大半は「十字軍とは取引する価値などない」とこれをはねつけた。彼らは二週間もあれば十字軍は敗走するだろうと考えていた。城塞は堅牢で、一ヶ月も包囲を受けても大丈夫だろうと踏んでいたのだ(女王アウストリア(2)に対してソロモンいわく:愚かなる者の考えは成就しない。司教はやむなく、一部の住民らとともに町を去り、十字軍のもとへと戻っていった。その司教の報告を受けたシトー会修道院長らは、攻勢をかけることを決意する。[18] かくしてマグダラのマリアの祝日(7月22日)、十字軍の大部隊がベジエを包囲した(ミュケーナイに展開したメネラオス軍もこれには及ぶまい(3))。ブリエンヌ伯(エルサレム王国に遠征していた)以外のフランスの諸侯がこれに参加していた(4)。小競り合いは一週間にも及んでいて、ベジエの兵は捨て身で挑んでくるのだった。

◇注

(1)当時のラングドック地方では、ユダヤ人は商業・銀行業従事者として封土の財政管理に当たっていたといい、実際ベジエの副伯はユダヤ人サミュエルを秘書として登用していた。

(2)アウストリアとなっているのは、「マタイによる福音書」12の42や、「ルカによる福音書」11の31に言及される南の女王(regina austri)という表記のため。

(3)このトロイア戦争への言及は、12世紀後半のブノワ・ド・サント=モールによる『トロイア物語』のもの。

(4)従軍することを、叙事詩のこの箇所ではfes sa carantena(=fit sa quarantaine)と表現している。十字軍への参加による贖宥には40日間の従軍が必要とされたため。

[19] ベジエ兵が叫びながらフランスの軍に挑み、従軍兵を殺すのを目にした従者ら(1)の隊長は、部下を結集した。彼らはすぐさま棍棒を手にとった。1万5千人はいただろうか。彼らは裸足で、シャツとズボンだけのいでだちだったが、城壁を取り囲み、その取り壊しにかかった。堀に下りてハンマーで叩く者もあれば、門を壊そうとする者もいた。これを見たベジエの有力者たちは恐怖にかられた。一方の十字軍本体も武具を取り、かくして城内に押し入った。包囲された側は城壁の守備をやめ、女性や子どもを連れて教会に立てこもり鐘を鳴らした。[20] 町の有力者らが見守る中、十字軍は城内に入った。従者らは突撃し、城壁も崩れ、門も開き、武装したフランスの軍が入ってきた。もはや抵抗は不可能と見た住民らは、聖堂に逃げ込み、さながら死者へのミサのごとくに、聖職者たちは鐘を鳴らした。町に侵入した従者らは、住民らの家屋を荒らし放題だった。高揚した彼らは、出くわす者をことごとく殺害し、高価な品を強奪した。持ち続けていたら一生分の財産だったが、ほどなく彼らは強奪品を放棄することになる。フランスの貴族たちが奪うことにしたからだ。[21] 従軍していた貴族その他の人々の間では、抵抗する町に対しては皆殺しも辞さないことで了解がなされていた。ベジエは実際にそうなり、その後はあえて抵抗しようという町もなくなった。ベジエでは、教会に避難していた人々も含め、住民はすべて殺害された。従者らは聖職者も、女性や子どももお構いなしに殺害した。サラセン人の時代(2)以来、これほどの殺戮がなされたことはなかった。従者らが高価な品を強奪する様を見て、フランスの貴族たちは怒り、下級兵士らを追い出して自分たちがそこに居座った。

◇注

この箇所では、著者は殺戮行為を咎めているようにも見える。

(1)プロヴァンス語ではarlotz。従者らは基本的武装していないことが、続く部分からも分かる。ここでも棍棒程度の武器しかもたず、粗末な格好をしていた。

(2)イスラム教徒らによる、ラングドック地方、プロヴァンス地方への遠征のことを指している(Martin-Chabotによる注)。


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© M. Shimazaki 2004