Policraticus IV

『ポリクラティクス』第4巻仏語訳(要約プロジェクト)


はじめに

ソールズベリーのジョン(1115(?)〜1180)は、シャルトル学派を代表する学僧です。イングランドの出身で、フランスで学んだ後(アベラールやコンシュのギヨームなどに師事)、1148年以降はカンタベリー総司教テオバルドゥスの片腕として、大陸に特使として派遣されるなど精力的に教会の政治・外交に関わっていきます。その間にトマス・ベケットとも親交があったようで、ベケットがカンタベリー総司教になる際には(1162)、裏でその支援にあたったともいわれます。ところが教会の支配力拡大(ベケットは前任者テオバルドゥス以上に教皇主義的で、教会の権利を前面に押し出していました)を快く思わないヘンリー2世から、ベケットを唆している張本人だとの誹りをうけ、ジョンは1163年にフランスに亡命します。結局ベケットは暗殺され、ジョンはその後帰国が許され、再びカンタベリーで要職に就いた後、1176年から晩年までシャルトルの司教を務めることになります。

このような波乱の人生を歩んだジョンですが、代表的著作として『メタロギコン』(邦訳が『中世思想原典集成』第8巻(平凡社) に所収)、『ポリクラティクス』があります。このうち後者は、12世紀には珍しいとされる有機的国家論(国家身体論)を展開した一冊で、1156〜59年の、カンタベリー時代に書かれています。中世には君主の理想形を説く「君主の鑑」が文学ジャンルとしてあったといわれますが、それらとも一線を画しているといわれています。柴田平三郎『中世の春−−ソールズベリーのジョンの思想世界』 (慶應義塾大学出版会、2001)によると、ジョンの政治思想は単なる教皇主義ではなく、国家を身体になぞらえて器官すべてが共通原理に従って動くべきであるという協働関係論を展開しているといいます。

『ポリクラティクス』第4巻は、暴君討伐論が展開される部分として有名です。とはいえ上の柴田氏の著書では、それは本筋ではなく、レトリックの発展としてあるのだと記されています。重要なのは君主のあり方の方だというわけです。ここではシャルル5世時代の仏語訳(パリ国立図書館、写本No.24287)で、それを見ていきたいと思います。シャルル5世(1337〜80)といえば、初の王立図書館を作り、ラテン語などの文献の仏語への翻訳を盛んに押し進めたことでも知られる人物です。その宮廷の翻訳人の一人、ドニ・フルシャによる翻訳とされるのが、ここで取り上げていく『ポリクラティクス』第4巻です。

今回は全訳という形ではなく、章ごとに内容の要約とコメントをまとめる形で見ていきたいと思います。一種のデータベースが作れればよいと考えています。底本は"Le plicratique de Jean de Salisbury"(presses universitaires de Nancy, 1985) です。参考までに、ラテン語からの現代英語訳は、ケンブリッジ大学出版局から出ているもの("Policraticus", Cambridge University Press, 1990-2000 )がコンパクトです。

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[feuille 99a]

序文

◇内容:

真理を告げる言葉は重く危うい。それはしばしば、誤りや話者の無知によって害される(viciee et enladie)。事物の認識なくしては、どれが真理かはわからない。事物の認識は慢心した者を導きはしないが、罪人の裁きを鼓舞しはする。哲学の第一段階は、事物の性質・属性を認識し、事物の真実を知るべく探求し議論することだ。第二の段階は、自分に示された真実を掌握することだ。こうした哲学の探究は、虚栄の王国に対し真理によっておのれが自由になったと宣言し、聖霊に仕えようとする者にのみ開かれている。聖霊がいる場所は、自由の場所だからである。恐れや悪に仕えるならば精霊は去ってしまう。精霊こそが、君主に対して憚らず真理を告げるのであり、選ばれた王に真理を語らせ実践させるのである。真理に耳を傾けない者は、精霊から遠ざかってしまう。ここでわれわれは、君主と暴君との差異を見なければならない。

◇コメント:

第4巻の冒頭を飾る部分は、真理の認識を哲学の探究として位置づけ、哲学の探求が精霊的な営みであることを示している。プラトン主義的な中世の三位一体論では、大まかにいって、神は「起源」を、キリストが「言葉:理知的なもの」、精霊は「愛:意志的なもの」を意味するとされている(例えば八木雄二『中世哲学への招待』(平凡社新書、2000)を参照)が、ここで言及される聖霊は、むしろ認識と自由の象徴とされているのが興味深い。そのアンダーラインの箇所は、「コリント人への第二の手紙」3章17への言及(Cary J. Nedermanによる注)。古仏語訳では、"Car ou` l'esperit de dieu est la franchise habite et franchise si est. "となっている。

[feuille 99b] (1章)

◇内容要約:

君主と暴君との唯一かつ最大の違いは、君主はみずからを法の執行人として法に従い、法の裁定をもって、社会に恵みを与えるべく、先頭に立ってあらゆる事業を行おうとする点にある。君主は、個々の事業にあたる他の者たちの上に立ち、そうしたあらゆる事業の責任を負う。かくして君主は臣下に対する権力をもち、それを共通善のために用いるのだ。君主だけで十分に国を統治し、人間にとっての善がすべからく実現し、各人が組織全体の部分になるようでなければならない。そこにおいてわれわれは、自然(天性)の正しさに従うことになる。人体において五感すべてが頭に集まり、四肢がそこに従属し、頭が正しく制御する限りにおいて、身体がその命令に従うようにである。かくして、必須とされるそうした特権や恩寵によって、長の高貴さはいやがおうにも高まるのである。

◇コメント:

君主は暴君と違い、法に基づいて社会を治める。だからこそ責任と権力とを持つのだという一節。「法の裁定」(franchise de la loy = arbitorio legis(羅))という言い方がなされるが、その後に「自然の正しさ(droituriere nature)」とあり、人体が引き合いに出されることからしても、この場合の法は、むしろ自然法を指すものと思われる。人体において頭が四肢を統治するように、社会もまた長がすべてを治めるべきだというこの論旨は、ソールズベリーのジョンが「社会有機論」を説いたといわれる所以だ。

[feuille 99c](1章)

◇内容要約:

君主にとっての必要が満たされ達成されること以上に、民衆にとって必要なことはない。君主の意志は正義に反するものではないはずだからだ。君主は共通の力、地上における神的権威の似姿だとされる所以である。人々が君主を長と仰ぎ、その裁定を受け入れるのは、神の力の所作に違いない。君主を恐れるのも神の意志による。というのも、あらゆる力はわれらが主たる神からもたらされているからだ。いかなる時も、与えられる力は君主とともにあったし、君主とともにある。したがって、君主は、主の力がなくならない限りにおいて、神により君主としてとどまることができる。ただし、神に従属するその手は、敬虔なる教えの手の代わりとして、あらゆる正義をなさなくてはならない。神がその力を取り上げようとする際に、その力を与えた権威に逆らえる者などいるだろうか。もちろんそれは、故なくなされることはなく、従属する者への懲罰としてなされるのだが。

◇コメント:

君主の権限が神によって与えられる、という図式は「両剣論」に集約されるが、それはテキストの後の部分に出てくるので、その時に触れることにする。ここではとにかく、君主の権限は神によって与えられるとはいえ、君主の権限に対する教会の権限の優位が明言されているのではない点に注目しよう。ここではむしろ、神が望めばそうした権限が撤回可能であるという点が(後の論旨から考えても)重要だ。下線部(Qui donques resiste a l'ordenance de dieu en qui est l'autorité de donner la puissance quant il veult et de la oster ou de la apeticier selon son plaisir ?)は実はラテン語原文を忠実に訳出していない。この箇所は原典では「その権威に逆らう者は、神の命令に背く者である」となってていて、「ローマ人への手紙」13の2の引用をなしている。ついでながら古仏語ではplasirは「意志」ほどの意味。

[feuille 99d](1章)

◇内容要約:

フン族が各地を荒らしていた当時、ある町の司教をしていた聖職者がアッティラに「お前は何者か」と問いかけた。アッティラは「私は神の罰を下す者(1)だ」と答え、司教はアッティラが神の意図を体現する君主であるとしてこれを讃え、「神の使いの者を歓迎する」として、教会の門をすべて開放したが、そのために司教は命を落とし殉教した。司教には、神が下す罰を押しやる気はまったくなったためである。神が愛する子をまで罰したこと、神が下す罰でなければ実行されえないと承知していたからだった。

このように、罰も含めて正しき者に及ぼされる力が神によるものであるのならば、悪しき者を懲らしめるために神が正しき者に与え、正しき者を法にかなった崇高な使命に仕えさせるその力を、一体だれが敬わずにいられるだろう? 皇帝は述べている(2)。「法を尊重し、法に従属するのは、君主にふさわしい行為だ。なぜなら君主の権威は法に依存するからだ。君主が法に従属するのは、なによりも重要なことなのだ」。正義に一致しないことを、君主が望まない限りにおいてである。

◇コメント:

前半はフン族のアッティラを招き入れた司教の話から、神の罰は絶対であるのと同じく、神が与える権利も絶対であるとする論旨を述べている。後半は君主が法に従うべきとする法治論が展開する。両者のつながりは明瞭ではない。(1)floiau、flagelなどの表記になっている。ちなみにラルースの古仏語辞書(A.J. Greimas編纂のもの)の見出し語はflael、flaiel。(2)ここでの皇帝は6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアスを指し、皇帝の述べる内容は、ユスティニアス法典(ローマ法大全)1-14-1からのもの。

[feuille 100a](2章)

◇内容要約:

君主は、裁きを行うその身分が、神の裁きに勝らないからといって、名誉を損なわれたと考えたりはしない。神の裁きは永遠であり、その法は公正なのだ。法学の博士たちが主張するように、公正であるとは、理性に従ってすべてのものを同じに扱い、各人が自分の取り分を手にすることをいう。そして法は、正義と公正の意向を知らしめる解釈者である。賢者クリシプスは、法はそれゆえ神的・人的な事象を司る賢慮であると主張した。善悪、君主やその他の人々など、すべてに及ぶ、とも述べている。法学博士のパピニアン、優秀な弁護人のデモステネスも、「人間は法に従うべきである、なぜなら法は神の発見、神の賜物だから」と述べて同意を示している。それは真の知恵の教えであり、意思の過剰を修正し、都市の秩序をなし、犯罪や過ちを追放する。理性的かつ平和に都市に暮らす人々は、法にもとづいて生活するのことが肝要だ。

◇コメント:

ソールズベリーのジョンによる「法」の定義。法は神の恩寵としてあり、真の知恵をなしているとされ、君主も臣下も等しく法に従属するということが再度強調されている。下線部の古仏語は「estre secretaire de toutes choses divines et humaines comme la tres sage」となっている。secretaireは、多少言葉遊び的に記せば「秘書=秘所(至聖所)」。

[feuille 100b](2章)

◇概要:

誰もが法の必要によって規制され結びついているのであり、不正を許されるようなことでもないかぎり、法は守られなくてはならない。だが、君主は絶対であるとされ、法の結びつきからは自由であるといわれる。そういわれるのは、君主が悪をなすことができるからではない。そうではなく、君主は、処罰の恐怖ゆえにではなく、正義への愛ゆえに公正と正義に仕え、共通善のための利をなすのでなければならないからだ、あらゆることにおいて、君主は自分の意思よりも他者の利益を優先する。だが公的事象において、誰が君主の意思を云々しようとするだろうか?公的事象においては、君主の意図は何も与り知らない。ただ法と正義によって命じられ、また、共通の利益によって動かされるだけだ。もちろんそうした事象において、君主の意思は力をもち、判断としての効力をもつ。そのような場合、君主の意思が法や正義の概念に不適合でないならば、その意に適うものは法の力をもつ。預言者ダビデが言うように、「私の判断があなたの前に出て、あなたの目が私の判断を見るように」だ。判断は、それが正義の真の似姿であるかどうか省察し続ける限りにおいて、腐敗しはしない。ゆえに、君主は利益の使者、正義の公僕であり、みずからの内に社会的な人格を宿し、不正や犯罪を罰するのだ。さらに言えば、君主は法という真の手段でもって犯罪や罪を正し、清めるのだ。

◇コメント:

法の支配は君主に及ぶ、と先には記されているが、ここでは君主はむしろその法を体現する存在として描かれている。君主の意図は、それが正義によって動かされる限りにおいて公的な事象(政治:古仏語訳は"communs fais"、"choses communes"、"communs profit"などと言い換えられてもいる))に関わるとされ、法の支配と君主の支配は同列に置かれているようにも見える。下線部は『詩篇』16の2の引用。

[feuille 100c](2章)

◇概要:

実際、王の権威を表すしもと(笞)と杖は、真理と公正から外れたいっさいを正すのだ。聖霊が君主の力を認め、預言者とともに次のように言う限りにおいてである。「あなたのしもと、杖はかくも私を和ませ、私に勇気を与える」と。君主の盾は強く、悪しき者の剣を受ける貧しい病人を守り、罪なき者を庇護する。君主の務めは弱い者の利となり、害をなそうとする者には戒めとなる。したがって君主が剣や槍を持つのは、悪しきことをするためではなく、悪しき者を罰するためであり、血を流したとしても冷血漢とは呼ばれないし、殺人の罪にも問われない。偉大なる聖アウグスティヌスの言によれば、ダビデ王が冷血漢と呼ばれたのは、その戦争のせいではなく、ウリアを死なせたからだ。サムエルもかつて冷血漢呼ばわりされたのも、アマレクの肥った王アガグを殺害したためだ。この剣はまさしくハトの剣であり、それが戦う場合でも、そこに憎悪や苦しみはない。ちょうど、法が罪を裁くのが、誰の憎しみからでもないように、また、裁判官が罪人を罰する場合でも、怒りによってではなく、法の平和的な寛容さに基づいてなされるように。

◇コメント:

王が剣を振るうのは、それが悪人を裁く限りにおいて正当化される、という下り。神の法に従う限りにおいて、王はその権限の代理人、執行者であるかのような位置づけになっている。下線部は詩篇の23(「牧者」)の4から。

[feuille 100d](2章)

◇概要:

君主には官吏がいるが、真の官吏は君主のみであり、君主だけがその他の官吏を代理として事をなすと考えられる。名称の由来を熱心に調べてきたストア派の哲学者たちは、「lictor(古代ローマの官吏)」のもとの形は「legis ictor(法で打ちすえる者)」だと述べているが、われわれもその考えを支持する。なぜなら、法が打ちすえるべしという者を打ちすえることが官吏の仕事だからだ。ゆえに、王の裁定を実行していた古代の官吏たちは、その執行のために剣を取る際、「法の決定に従え」「法を遵守せよ」と言われ、それにより死すべき罪人への悲しみを軽減されていたのである。

◇コメント:

教科書的に言えば、ストア派は人の生の目的を自然の秩序に沿うことに置き、そこから人に果たすべき役割があると考える。したがって官吏が手がける処罰、刑の執行も、それが与えられた職務であるからこそ正当化される。ストア派の考え方はキケロなどを通じて中世に伝えられてたとされるが、とりわけソールズベリーのジョンはその著作に親しんでいたとされる。

[feuille 101a](3章)

◇概要:

そして君主はその剣を、教会から手渡される。ただし教会が血のしたたる剣(1)を所有しているのではない。教会は、この剣を君主の手を通じて行使する。教会は、人々の魂と肉体とを抑制し悪事をはたらかないようにする権限を君主に分与し、精神的な権威としての権限は司教らに留め置く。したがって君主は聖職者の任務の代理者であり、聖務のうちの世俗的な部分、聖職者の手によって実行されるには相応しくない部分を実行する。なぜなら、神聖なる法の任務はすべからく宗教的なもの(2)だからだ。だが、罪や悪を罰するという最下層の任務には、殺戮的なイメージがある。このためローマのコンスタンティヌス帝は、ニカエアで公会議を開いた際、聖職者の間に座ろうとはせず、末席に座り、聖職者たちの決定を神の裁定によるもののように慎ましく拝領したのだ。さらに、聖職者らの犯罪を記した誹謗文書が皇帝に示された際にも、封を切らずにしまい込み、聖職者らが平穏と慈悲を取り戻した時にも、自分は聖職者らの決定に従うまでのことで、神の意志は神のみが判断できるのであり、自分にその権限はないとみずから語った。

◇コメント:

教権と俗権との関係という問題(両剣論)に触れた重要箇所。この両剣の考え方は、ルカによる福音書の22の38(「主よ、ごらんなさい。ここにつるぎが二振りございます」「それでよい」)が元になっている。一見すると、俗権に対する教権の支配が語られているように見えるが、柴田平三郎『中世の春』(慶應義塾大学出版会)によれば、両剣論でいうところの剣は、教会のもつ「強制力の行使権」のシンボルであるといい、世俗の権力には「権利の執行権」が委ねられるとされる。この「権利の執行権」こそが(1)の「血のしたたる剣」だ。ということはつまり、いずれの権利も結局は教会が握っているのであり、(2)が示すように、すべては宗教的事象として、教会が握っていることになる。同書でもまた、両剣論は制度上の二つの権力というよりも、教会内部の二元論的な関係にあり、一方が他方を支配する関係ではない(相対的優位はあっても)とされている。

[feuille 101b](3章)

◇概要:

(コンスタンティヌス帝は)文書を見ることなく火に燃やした。それが教父たちの罪を公表することになると恐れ、父の秘密を目にしたハムの呪い(1)と同じ過ちを冒したくなかったためだ。ローマ教皇ニコラウスの書簡には、コンスタンティヌスがこう語ったと記されている。「もし私が、神に仕える司祭、聖職者の衣を着る人の罪を目撃したとしたら、私はマントを広げてそれを覆い、誰にも知られないようにしたでしょう」。テオドシウス帝も、罪を犯したがゆえにミラノの司教によって王権の行使と皇帝の称号を差し止められ、殺人の罰(2)を忍耐強く、また厳かに受けた。使徒も述べるように、祝福する者は祝福される者よりも偉大であり(3)、権威を付与する者は付与される者よりも大きな栄誉に浴する。望むことができる者は望まずにすますこともできるし、与える者は取り上げることもできる。サムエルは不服従を理由にサウルに罷免を言い渡し、代わりにエッサイの貧しき子ダビデを王位に据えた(4)のではなかったか。君主が職務を忠実にこなすならば、集団の各成員にとっての長として、大きな栄誉と尊敬を受けるのだ。

◇注、コメント:

(1)『創世記』9章22(カナンの父ハムは、その父ノアの裸を見て兄弟らに告げたため呪われ、兄弟らの僕にされた)。(2)テオドシウス帝の殺人の罪とは、390年テッサロニケでのゴート人守備隊長殺害に対する報復として殺戮を命じたことを示す(7000人のローマ市民が殺害された)。ミラノの司教はアンブロシウスのこと。(3)パウロによる『ヘブル人への手紙』7章7節(「小なる者が大なる者の祝福を受けるのである」)。(4)『第一サムエル記』15章28。ラテン語テキストでは「Ysaiの貧しき子」となっている。ちなみにCharlers Bruckerの校注は、この部分が混乱している(サムエル記を列王記と取り違え、YsaiをJesséではなくIsaïeと取っている)。

[feuille 101c](3章)

◇概要:

君主が忠実に統治を行うのは、その者が自分の置かれた立場を想い、自分が万民にとって特別な者で、自分の生もおのれにではなく民に属し、しかるべき慈愛をもっておのれの生を捧げるのだということを、絶えず想い起こしている場合である。よって君主はすべてを神に、大部分を祖国に、多くを近親者に、わずかな部分を国外の者に負う。君主はいかなるものからも逃れるわけにはいかず、賢者にも愚者にも、身分の低い者にも高い者にも務めを負っているのだ。こうした考えはすべての高位聖職者、精神世界への配慮を持つ者、世俗の権限を持つ者に共通する。聖書が最初の王と名付け、祭司でもあったメルキゼデクがそうで、それは天においては母をともなわず地においては父をともなわない(ともなわず生まれた)イエス・キリストを暗示的に示している。このメルキゼデクについては、父も母もいなかったと読める。だが、その祭司職と王の立場の威信が肉と血から生まれるのでないことは理に適っている。なぜなら、そうした威信の創造においては、肉親の家系がもたらす力は功績や美徳に勝りはせず、むしろ民の健全な望みと聖なる祈りこそが勝るのだからだ。

◇注、コメント:

君主は教会から依託されて(ということは、神からということだが)権限を行使するわけだが、この一節ではそれは民の善のためであるとしている。こうしてみると、王は民の上にあると同時に下にもあるという、人類学的なテーゼが再確認できるかのようだ。その一例として言及される下線部のメルキセデクは、族長時代のサレム(エルサレムの古名)の王(兼司祭)。新約聖書の『ヘブル人への手紙』5〜7章で言及され、キリストの先駆者として示されている。永遠の祭司と位置づけられ、それに列する形でキリストの王権・祭司権の優位が証される。

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© M. Shimazaki 2004