2006年11月07日

No. 91

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.91 2006/11/04
*申し訳ありませんが、今回も都合により短縮版です。文献講読シリーズはお休
みします。

------新刊情報--------------------------------
秋も深まりつつある今日この頃、中世関連の新刊も続々出てきていますね。

『古代末期の形成』
ピーター・ブラウン著、足立広明訳、慶應義塾大学出版会
ISBN:4766413210、3,360yen

ブラウンの著書もこのところいろいろ訳されてきています。さらに今後の刊行予
定もあるようで、楽しみですね。これは原著が1978年のもので、4編の講演を
ベースにした論文集です。それまでの通説に反して、古代末期(2〜4世紀)が
知的に豊かな時代だったという、有名なブラウンの革新的テーゼを示した名著と
されるものです。その是非をめぐる議論もまた興味深いところですが、とりあえ
ず一つの視座として、その革新的論考にはぜひ触れておきたいものです。

『中世ヨーロッパにおける死と生』
水田英実ほか著、渓水社
ISBN:4874409415、2,100yen

毎年出ている広島大学の中世研究会によるシンポジウムのアクト。なんだか勢い
を感じさせます。今回は死と生というテーマで、内容もトリスタン物語やチョー
サーの作品論など、文学作品に関わるものが主のようですね。そういえば余談で
すが、つい最近『トリスタンとイゾルデ』が映画化されて公開されたばかりです
ね。未見ですが、なかなかの評判のようです。

『中世ヨーロッパの書物−−修道院出版の九〇〇年』
箕輪成男著、出版ニュース社
ISBN:4785201231、3,150yen

『パピルスが伝えた文明』『紙と羊皮紙−−写本の社会史』に続く、著者入魂の
ヨーロッパ中世の書物史。今回はやはり写本の歴史を総括的に、教父時代から聖
ベネディクトゥスの時代、さらにはシャルルマーニュのカロリンガ・ルネッサン
ス、そして14世紀ごろまでを見据えて描いているようです。今後、中世の書籍
商に関する書籍も出るかもしれないようで、ぜひ期待したいところです。

『中世の預言とその影響−−ヨアキム主義の研究』
マージョリ・リーヴス著、大橋喜之訳、八坂書房
ISBN:4896948815、10,290yen

個人的にも少し囓りかけなのですが、フィオーレのヨアキムの歴史神学はとても
面白いですね。で、そのヨアキムを扱った大分な研究書が邦訳で出ました。そも
そもこのような書籍の邦訳が出るということだけでも、とても嬉しく思います。
ヨアキムの場合、その思想内容だけでなく影響関係についても様々な研究がなさ
れています(ある意味、そうした後世への影響関係の方が主軸になっている感じ
さえありますね)。同書では13世紀から16世紀あたりまでの影響関係が綴られ
ているようです。著者のマージョリ・リーヴスは1905年生まれで、2003年に
亡くなっています。ヨアキム研究の第一人者ですが、戦前ではまだめずらしかっ
た女性研究者として、オックスフォードで活躍した人物なのですね。この著者の
邦訳が出るのは、今回が初めてのようです。

『楽園の歴史2−−千年の幸福』
ジャン・ドリュモー著、小野潮ほか訳、新評論
ISBN:4794807112、7,350yen

これもまた、上のヨアキム主義にも関係する一冊ですね。アナール派第3世代の
重鎮ドリュモーによる、楽園の歴史三部作の第2弾です。すでに『地上の楽園』
が出ていますが、そちらはエデンの園をめぐる、いわば失われた楽園の形象を膨
大な史料で解き明かすものでした。今回の2巻目では、中世から近世までの千年
王国思想を辿っていくもので、むしろ未来時制での楽園思想を捉えるというのが
中心になっていきます。中世の神学議論から近世の革命思想へと命脈を保ってい
く、救済思想の系譜を描き出すという壮大な試みです。

『世界の尺度−−中世における空間の表象』
ポール・ズムトール著、鎌田博夫訳、法政大学出版局
ISBN:4588007955、5,880yen

中世の文学史家による、中世の空間表象をめぐる網羅的な書籍です。原著は93
年のもの。この邦訳、昨年の夏くらいでしたか、一度出版元のホームページでア
ナウンスされ、その後いったん引っ込んだようで、どうなったかと思っていたの
ですが、ようやく刊行されたのですね。著者のズムトールは詩論などで有名です
が、こちらも邦訳はおそらく初めてです。


------短期連載シリーズ------------------------
タンピエの禁令とその周辺:アラン・ド・リベラ本から(その5)

前にも触れたとおり、1277年のタンピエの禁令に先だって、そのための調査委
員会が1276年に出来たのでした。ですが、時間的な問題もあり、かなり限定さ
れたテキストしか検証していない可能性がある、とリベラは指摘しています。そ
の委員会がどのような作業を行ったのかは推測するしかないということですが、
いずれにしても、検閲する側が創造性を大いに発揮していたのではないか、とい
うのが基本的な仮説として示されています。検閲側にとっては、哲学の想定され
る中身を予め囲い込んでおくことが問題だったといい、哲学の側がしかじかの問
題をどう考えるか、ということを、実際にそのような問題を論じた具体的な文献
がなくとも、先回りして考えていた、というわけなのです。そしてそのことは、
後世にまで大きな波紋を投げかけていきます。

19世紀の歴史家エルネスト・ルナンは、「教会史における糾弾は、誤謬の公言
を前提とする」と述べているのですが、リベラはこれを「教会史における糾弾
は、誤謬の公言を先取りする」と言い換えてみせます。つまり、教会側からなさ
れるなんらかの非難は、一種の解釈の枠組みを与えてしまい、後続する人々の解
釈の方向性を歪めてしまう、ということです。タンピエの禁令当時も、たとえば
ライムンドゥス・ルルスなどの、「ラテン・アヴェロエス主義」(これははるか
後世の呼び名ですが)の敵対者たちは、論敵の個々の議論を批判するというより
も、基本的にタンピエの示した批判の一覧をもとに、相手を攻撃していたといい
ます。

ルナンへの批判というのは今では一般的になっていますが、まさにルナン本人
が、その誤謬先取りの罠に陥っていたというのですね。タンピエの禁令の攻撃対
象が「アヴェロエス主義」(ルナンはアヴェロエス主義なるものを世に広めた立
役者の一人です)にあったということをルナンは主張したのですが、たとえばブ
ラバントのシゲルスの思想内容などを、シゲルス本人のテキストからというより
も、タンピエの糾弾を「もとにして」、ルナンは捉えているらしいのです(フィ
オラヴァンティなどの研究が言及されています)。「アヴェロエス主義の歴史記
述は、1277年の検閲を別の手段によって継承したものにすぎない」と、リベラ
は述べています。

アヴェロエス主義と括られたものは、アヴェロエス本人の思想とは直接的には関
係がありません。タンピエの禁令で最も重要な位置を占める、二重真理説にもア
ヴェロエスは与してはいないのです。もともとタンピエの禁令自体も、トマス・
アクィナスの『知性の単一性についてのアヴェロエス派への反論』が検証の格子
として示したものを、タンピエが具体的に適用するという形で展開している、と
見ることができます。ですが、トマスはアヴェロエスの思想そのものについて議
論しているのではなく、あくまで当時の大学を中心に台頭していた魂と知性をめ
ぐる考え方が、アリストテレス思想の歪曲であるとして論難していたのでした。
タンピエはそれを、禁令として、検閲という形で受け継いだという次第です。け
れどもその過程で、トマスの議論の一節(「われわれの意図は、そのような立場
が、哲学の原理にも、信仰の教義にも反することを示すことにある」−−1章2
節)が、どうやら二重真理説なるものを虚偽的に導いてしまったようなのです
(確かに上の一節は、論敵が哲学の原理と信仰の教義を分けていることを暗示し
ているようにも取れます)。これもまた、解釈の枠組みのなせるわざでしょう
か。

そしてなによりも問題なのは、実はアヴェロエスが喚起する真の大問題が、タン
ピエの議論によって見えなくなってしまっている、という点です。当時の教会を
真に揺さぶりかねない問題、それは神の権能にも制約はあるのではないか、言い
換えれば、神は全能ではないのではないか、という問題なのでした。理性か信仰
かといった問題をも吹き飛ばしてしまいかねないその問題は、しかしながらこれ
また教会側の解釈の枠組みのせいで、これまで歴史家の認識の中にきちんと入っ
てこなかった、ということをリベラは指摘しています。このあたり、正面切って
その問題を掲げるかわりに(それでは教会にとっての自殺行為にもなりかねませ
ん)、実際は誰も説いていない二重真理説をいわば「捏造」して攻撃し、そうい
う問題を育みうる土壌そのものを廃絶してしまおうというわけだったのでしょう
か。そうだとすれば、かなりしたたかな政治的・レトリック的な戦術です。いず
れにしても、げにおそろしきは解釈の枠組み、といったところですね。
(続く)

*本マガジンは隔週の発行です。次回は11月18日の予定です。

投稿者 Masaki : 2006年11月07日 23:36