〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.147 2009/04/04 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その1) アリストテレス思想の受容史の中で、意外に取り上げられる機会が少ない のがその後退(衰退)局面だったりします。つまり中世末期からルネサン ス・近代へと向かう頃合いですね。ですがその局面は、新しい局面への移 行期だけにいろいろと問題含みのようで、それだけにかえって面白そうな 気もします。ここではそうした局面への取っかかりとして、14世紀に盛 んに取り上げられるようになった中世版の慣性の法則こと「インペトゥス 理論」について振り返ってみたいと思います。アリストテレス思想とは別 の水脈を持つらしいその理論は、同思想の後退と実証指向への転換を象徴 しているかもしれません。 まずは同理論のあらましを押さえておかなくてはなりません。「インペ トゥス(impetus)」は、もともと躍動、突進、熱情など、ちょっと荒っ ぽい感じの意味をもつラテン語の言葉です。ですが14世紀のインペトゥ ス理論の場合、むしろその言葉は物体内部に刻印された動的な力を指して います。石を投げた場合に、手を離れた後も石が飛行し続けることをどう 説明するかという問題で、その石そのものの中に、飛行を持続する内発的 な力が刻まれているのだ、と考えるのがその理論です。14世紀にこの理 論を唱えた代表的人物の一人、ジャン・ビュリダン(ヨハネス・ブリダヌ ス)の説明を見ておきましょう。 ビュリダンは著作『自然学第八巻の諸問題』の中で、投射物の運動の持続 について述べています。アリストテレスが紹介する「空気による運動の持 続説」二種(これは後で改めて取り上げます)を、経験則に反すると斥け たビュリダンは、よりより考え方として次のような仮説を提示します。 「したがって私たちは、石やその他の投射物に、その投射物の動的な力と なるなんらかのものが刻印されていると考えることができるし、そう考え なくてはならない。そのほうが、空気が投射物を動かし続けるとの議論に 舞い戻ってしまうよりも明らかに優れている。このように、動体を動かす 動者は、そこになんらかのインペトゥス、なんらかの動的な力を刻みつけ ると言ってよいと思われる」。 インペトゥスは、運動する物体に与えられる一種の力で、それは物体内部 に留め置かれているというわけですね。ビュリダンは、投射物のインペ トゥスは空気の抵抗や投射物の重みによって減衰するとも述べています。 また、その考え方は落下物の加速度の説明や、跳躍する際の助走の必要性 の説明にも適用されています。さらに天体の動きについてもインペトゥス で説明できるとし(第一動者である神が、天体に動力を刻印したというの ですね)、天球ごとに存在する知性が天体を動かしているという新プラト ン主義の議論を斥けてもいます。ボールのバウンドや弦の振動なども、そ れで説明できるとされています。 ビュリダンの説明には曖昧なところも見られ、投射物の説明ではインペ トゥスは投げ手が石に与える力のように言われていますが、その後では、 インペトゥスは動体の中に自然に(もとより)存在する、動きへの潜勢の ようなものであるという言い方もなされています(鉄が磁石に向かって動 くという例を出しています)。潜勢なのか、それともあくまで動者が運動 を与える際にのみ刻む質なのか、ビュリダンは最終的な判断を下してはい ません。 いずれにしても総じてこれは反アリストテレス的な考え方ですが、冒頭で も触れたように、この考え方の背景には長い歴史があるようです。そんな わけで、しばらくその前史を振り返ってみたいと思います。インペトゥス 理論の歴史に関して解説した本はいろいろとあるようですが、ここでは主 にアンネリーゼ・マイヤーの研究書『スコラ自然哲学の二大問題』 ("Zwei Grundprobleme der scholastischen Naturphilosophie", Edizioni di Storia e Litteratura, 1968)から、インペトゥス理論を 扱った第二部を読み進めるような形でまとめていきたいと思います。少し 古い本ですが、最近の研究などでも結構参照されていたりします(批判も 含めてですが)。とりあえず10回程度を予定しています。とうわけで、 次回からさっそくまとめていくことにします。 ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの個体化論を読む(その12) 『ボエティウス「三位一体論」注解』問四第二項のジンテーゼ部分の続き です。いよいよ残りもあと少しです。ではさっそく見ていきましょう。 # # # Inter indiuidua uero unius speciei hoc modo consideranda est diuersitas. Secundum Philosophum enim in VII Metaphisice, sicut partes generis et speciei sunt mateira et forma, ita partes indiuidui sunt hec materia et hec forma; unde sicut diuersitatem in genere uel specie facit diuersitas materie uel forme absolute, ita diuersitatem in numero facit hec forma et hec materia Nulla autem forma in quantum huiusmodi est hec ex se ipse; -- dico autem in quantum huiusmodi propter animam rationalem, que quodammodo ex se ipsa est hoc aliquid, set non in quantum forma: intellectus enim quamlibet formam quam possibile est recipi in aliquo sicut in materia uel in subiecto natus est atribuere pluribus, quod est contra rationem eius quod est hoc aliquid --; unde forma fit hec per hoc quod recipitur in materia. Set cum materia in se sit indistincta, non potest esse quod formam receptam indiuiduet nisi secundum quod est distinguibilis: non enim forma indiuiduatur per hoc quod recipitur in materia nisi quatenus recipitur in hac materia distincta et determinata ad hic et nunc. Materia autem non est diuisibilis nisi per quantitatem; unde Philosophus dicit in I Phisicorum quod subtracta quantitate remanebit substantia indiuisibilis; et ideo materia efficitur hec et signata secundum quod subest dimensionibus. 同一の種に属する個同士では、相異は次のように考えなくてはならない。 すなわち、『形而上学』第七巻での哲学者の言によると類や種の部分をな すものとして形相や質料があるように、個の部分には「この質料」「この 形相」がある。よって、端的に言って質料や形相の相異が類や種の相異を なすように、「この形相」「この質料」の相異が数の上での相異をなすの である。 しかしながらいかなる形相も、そのままで、おのずと「この」形相をなす わけではない。--ここで「そのままで」と述べているのは、理性的魂のた めである。理性的魂はなんらかの形で、おのずとなにがしかの「これ」を なしているが、それは形相としてではない。というのも知性は、質料や基 体のような何かにおいて受け入れることのできる任意の形相を、もとより 複数のものに割り当てることができるからである。ただしそのことは、 「この何か」であることの道理に反している--。したがって、形相は質料 において受け取られることによって「この形相」になるのである。しかる に、質料そのものは不可分である以上、受け取った形相を個別化するのは 分割可能なものによってでなくてはならない。形相が質料に受け取られる ことによって個別化されるのは、分割され今ここに限定された「この質 料」に受け取られる限りにおいてのことだからだ。しかるに、質料が分割 可能となるのは量による以外にない。ゆえに哲学者は『自然学』第一巻 で、量を差し引いてしまえば不可分の実体だけが残ると述べているのであ る。ゆえに質料は、次元のもとにあることによって、指定された「これ」 になるのである。 # # # ちょっとわかりにくい文章が続いていますが、肝心な点は、形相や質料が 「この形相」「この質料」へと限定されるのは、形相と質料が結びつくこ とによってである、ということでしょう。その上で、形相を受け取るため にはまず第一に、質料が「次元のもとにあることによって」(つまり量を ともなって)限定されていなくてはならないとし、次節に続いていきま す。第9回で紹介した質料概念の二つの区分、つまり不定形の質料と、形 相とともにある質料という区分を思い出しておきましょう。両者を分かつ のが量による限定の有無ということになりそうです。同じ第9回の本文で も、「量」はもろもろの関係性を作り出すおおもとの類の一つとされてい ました。 今回の箇所でリファーされている『自然学』第一巻の当該箇所は、 185b16とされています。この箇所は「一であることとはどういうこと か」を説明した部分で、「(存在者が)もし分割しえないものとしてある なら、量も質もないことになる。メリソスが言うようにその存在者は無限 であるとも言えず、パルメニデスが言うように有限であるとも言えない」 というふうになっています。メリソスは紀元前5世紀ごろの政治家・哲学 者ですね。この箇所はトマスの『自然学注解』でも取り上げられています (Liber 1、Lectio 3)。メリソスは「存在するものは一をなし、しかも それは無限である」と言ったとされ、トマスは「無限とは量があってこそ の無限なのだから、実体や質は付帯的にしか無限とはいえない。つまり量 を伴っていなければそもそも無限とはいえない」と述べ、「実体は必ず量 を伴っている以上、メリソスが言うように存在者は一であるとはいえな い。実体と量でもってもとより二である」と反論しています。実体と量は 密接に関係しているのですね。 もう一つリファーされている『形而上学』第七巻の当該箇所 (1035b27〜31)も見ておくと、そこでは、「人間」とか「馬」とか いったものは全体を指しているのであって実体ではなく、あくまでしかじ かのロゴス(思考)やしかじかの質料から生じた共通のものにすぎない、 ということが記されています。トマスの『形而上学注解』にこの箇所の説 明がありますが(Liber 7、 Lectio 10)、トマスは「実体」を「形相だ けでなく、限定された形相と限定された質料から成る複合体」と言い換え ています。 この『形而上学』第七巻の箇所は、唯名論の根拠の一つとして引き合いに 出される箇所でもありますが、共通するものがロゴスと質料から生じてい る、とされていて、概念論と実在論の両方の含みをもたせているようにも 読めます。前回取り上げた桑子敏雄『エネルゲイア』(第六章)による と、アリストテレスは定義の分析に際して、形相と質料への分割の必要性 を説きつつも、定義を形相にのみ一律に還元する立場には異を唱えている のだといいます。となると、質料がものごとの定義にどう関わるのかが疑 問になってきますね。ですがアリストテレスの場合、そのあたりはあまり 論究していない印象を受けます。やはり桑子本が述べていますが、アリス トテレスの議論はものごとの「実体であるための条件」を探るためのもの で、「個体実体が個体であるための条件に向いているのではい」のだそう で、あるいはそのあたりに、質料と定義の関わりについての論究があまり 見られない理由があるのかもしれません。ではトマスの場合はどうでしょ うか。定義への質料の関わりをトマスはどう捉えているのでしょうか。 ……と、そのあたりの話はまた長くなりそうなので次回に先送りしておき ます(笑)。次回はいよいよジンテーゼ部分の末尾を読んでいきたいと思 います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月18日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------