〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.153 2009/07/04 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その7) 前回は、マイヤーが挙げた「トマスに見られるインペトゥス理論風な四箇 所」のうち、最初の二つまでを見ました。それらはどちらも胚に潜在態と しての力が入っているという議論で、譬えとして投擲物の話が出ていまし た。残りの二つも見ていきましょう。 三つめの箇所は『対異教徒大全』第三巻の第二四章で、第一原因がその後 に生成したものにどう働きかけるかが問われています。具体的には天球の 話なども出てくるのですが、問題の箇所はその後にあります。魂をもたな い自然の物体も目的に向かって運動するのだとされていて、それはつま り、射手によって的に向けられることで、矢が的に向かうのと同じよう に、自然の物体もまた、知的実体によって目的に向けられるからなのだ、 と論じられています。「矢が、射手が加える力(impulsio)によって定 められた的ないし目標への傾き(inclinatio)に従うように、その自然の 物体も、自然の運動により自然の目標への傾きに従うのである」。 四つめの箇所は、マイヤーが独自に見つけたものらしいのですが、『自然 学注解』第八巻八課です。運動するものはすべからく内的・外的な動因に よって動くということが言われている箇所ですが、そこに、球を壁にぶつ けて跳ね返る場合の説明があります。球が壁にぶつかる際、投擲手が動因 となるわけですが、その運動は球にとっては付帯的なものです。そのこと は壁についても言えます。「壁がなんらかの衝動(impetus)を球に与え るのではない。投擲手が与えるのである。まっすぐ進む衝動が壁によって 遮られると、温存されたその衝動によって球は反対方向へと跳ね返るので ある」。この話は敷衍され、落下運動などで物体が下方に向かう傾向も、 形相を与えた第一の生成者に由来するということが論じられています。 これらの箇所はいずれも、事物の自然(本性)に埋め込まれた偏向・性向 の説明の文脈で、力が温存されることを説いています。明らかにこれは 「インペトゥス理論」っぽいのですね。ですがマイヤーはその一方で、そ れに反するような箇所もトマスのテキストには見られるとして、二箇所ほ どを紹介しています。まず上と同じ『自然学注解』第八巻の二二課です。 アリストテレスの媒質論を取り上げていて、第二動因としての媒質は、第 一動因(投擲手)が伝える運動を、運動への性向と同時に温存する、とし ています。「第一の動因、つまり投擲手は、第二の動因、つまり空気もし くはそれに類するものへ、投げ出された物体を動かすための力を与え、 (空気が)動かせるように、また動かされうるようにする」。 もう一つの箇所は『天空論注解』三巻七課です。ここでは次のように明言 されてます。「激しい運動(投擲など)の動因の力(virtus)は、上方・ 下方のいずれの運動においても、ある種の手段として空気を用いる。 (……)しかしながら、生成者の力が被生成物に形相を与え、自然の運動 を生じさせるのと同じ形で、激しい運動の動因の力が石に、石が動かされ るなんらかの力を刻印すると理解してはならない」。アリストテレスの説 がここでは全面的に採用されているわけですね。ですがこうなってくる と、トマスのテキストには「インペトゥス理論」に好意的な文言と否定的 な文言とがともに見られることになります。トマスの真意は果たしてどこ にあったのでしょうか? マイヤーによると、デュエムなどは、トマスが基本的にはアリストテレス の考え方を継承しつつ、一方でその独自の類推・意味づけを施すことに よって、結果的に世俗に伝わる話に類似することになった、というふうに 考えているといいます。これに対して、トマスは実はインペトゥス理論的 な考え方をもっていて、アリストテレスについては注解を記してはいるも のの、必ずしもその立場を取ろうとしたのではない、という可能性を指摘 する研究者もいるようです。マイヤー自身は、この問題をあえて開いたま まにしておくという選択をしています。 インペトゥス理論風とされる四箇所は、いずれも比喩の形で扱われてい て、物体に力が温存されることそれ自体を論じている感じはしません。そ の意味では個人的に、デュエムの説のほうがやや説得力があるような気が します。ただ、「世俗に伝わる話」というのが気になりますね。そういう のが本当に巷で云々されていたのでしょうか。マイヤーは、トマスのイン ペトゥス理論風な話への言及は、教義として問題を開くというものではな く、あくまで中世盛期において最も手頃で、かつ自然に最も適した説明と して(世俗的に)まかり通っていた話を出してきたにすぎないのではない か、としています。実際、類似の文章はほかの著者においても数多く見つ かるといい、多くの場合、そうした部分があってもアリストテレス説を批 判するということにはなっていないとして、アルベルトゥス・マグヌスや ロジャー・ベーコンが例として挙げられています。 物体が力を温存できるという説明が世俗的に流布していたのかどうかは検 証の必要がありそうですが、いずれにしても13世紀はまだ、「インペ トゥス理論」が浮上する状況にはなかったようです。反アリストテレス的 なそれは、やはり1277年のタンピエの禁令以降にならないと本格化しな いのでしょう。続く14世紀になって、やっと理論として日の目を見るこ とになるようです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの場所論を読む(その3) 前回までは「同じ場所に二つの物体が存在できる」とする議論が列挙され ていましたが、今度はそれへの反対異論が列挙されます。「存在できな い」とする立場ですね。さっそく見ていきましょう。 # # # Set contra est. Quia si duo corpora sunt in eodem loco, eadem ratione et quotlibet. Set aliquod corpus quantumcumque magnum potest diuidi in parua cuiuscumque quantitatis secundum aliquem numerum. Ergo sequetur quod in loco paruissimo continebitur maximum corpus; quod uidetur absurdum. 2. Preterea. Impossibile est inter duo puncta signata esse plures lineas rectas. Hoc autem sequetur si duo corpora sint in eodem loco: signatis enim duobus punctis ex duabus partibus loci oppositis, erunt inter ea due linee recte signate in duobus corporibus locatis. Non enim potest dici quod inter illa duo puncta nulla sit linea, neque quod unius locati linea magis sit inter ea quam alia, neque quod sit ibi aliqua una linea preter corpora locata, que sit inter duo puncta loci; quia sic illa linea esset non in subiecto. Ergo impossibile est duo corpora esse in eodem loco. 3. Preterea. Demonstratum est in geometria quod duo circuli non se contingunt nisi in puncto. Set ponamus duo corpora que sunt in eodem loco: sequetur quod duo circuli signati in eis se secundum totum contingunt. Ergo impossibile est duo corpora esse in eodem loco. 4. Preterea. Quecumque uni et eidem sunt eadem, sibi inuicem sunt eodem. Set cum oportet eandem esse dimensionem loci et locati, ex eo quod non est ponere dimensiones sine subiecto, si duo corpora sint in eodem loco sequetur diemnsiones utriusque corporis esse easdem dimensionibus loci; ergo sequetur eas esse easdem ad inuicem. Quod est impossibile. しかしながら反論もある。一.二つの物体が同じ場所に在るのであれば、 同じ原理によっていくらでも在ることになる。しかしながら任意の物体 は、どれほどの大きさであろうと、なんらかの数にもどづいて、どれほど の小さな量にも分割できる。とすると、最小の場所に最大の物体が含まれ ることにもなるが、これは不合理であると思われる。 二.加えて、指定された二点の間を結ぶ複数の直線はありえない。ただ し、二つの物体が同じ場所にあるとするならば、次のようなことが帰結す る。つまり、二つの点が二つの対立する場所の部分によって示されるなら ば、それらの間には、二つの物体の位置でもって指定される二つの直線が 在ることになる。というのも、その二つの点の間にまったく直線がないと は言えないし、一つの位置の直線が二点間において、もう一つの位置の直 線よりも幅を利かせるとも言えないし、また、そこでは位置を占める物体 の外に、二つの場所の点をつなぐ直線が在るとも言えない(というのも、 そのような直線は基体にはないことになるからである)。以上から、二つ の物体が同じ場所に在ることはありえないのである。 三.加えて、二つの円は点でのみ接するということが幾何学によって論証 されている。しかしながら、私たちは同じ場所にある二つの物体を考えて みる。すると、そこに指定される二つの円は、たがいに全体で接すること になる。したがって、二つの物体が同じ場所に在ることはありえない。 四.加えて、一つのものに対して同じであるものは、互いに同一である。 しかしながら、場所と位置の次元は同一でなくてはならない。基体のない 次元は考えられないからだ。このことから、仮に二つの物体が同じ場所に 在るなら、どちらの物体の次元も場所の次元と同一であることが帰結さ れ、よってそれらは互いに同一であることになる。 だがそういうことは ありえない。 # # # 一つめの異論については、伊語訳に注があり説明されています。それによ ると、まず物体はすべてより小さい部分に分割できるわけですが、二つ以 上の(複数)の物体が同一の場所にありうるとするなら、分割された物体 と分割前のもとの物体とが同じ場所にあることが可能になってしまいま す。前回見たアリストテレスの原則に従って、場所とは内容物の不動の境 界であるとするなら、分割されて小さくなった物体の場所に、分割前の大 きな物体が入ってしまうことになる、というわけなのですね。 二つめの異論については、『神秘と学知』の注に『命題集注解』四巻 (div44.q2.Art2Cの第二異論)を見よとあります。で、実際に見てみる と、そこでも同じく、「二つの物体が同じ場所にあるとしたら、複数の面 をもった場所において指定された二つの点のもとに(infra duo puncta signata in diversis superficiebus locci)、二つの物体の位置に属する 二つの直線があることになる」とあります(もちろん、翻ってそんなこと はあり得ないという文脈で語られています)。複数の面というのを、レイ ヤ(層)で考えてみると、二つの物体AとBが同じ場所を取るとなれば、 そこにはAのレイヤとBのレイヤが重なることになり、Aに属する点aとB に属する点bを結んでできる直線は、Aのレイヤ上のabと、Bのレイヤ上 のabがありえることになり、直線は計二本できることになる、というの でしょう(おそらく)。 三つめの異論もその『命題集注解』の同じ箇所に記されています。要は同 じ理屈で、便宜的に二つのレイヤを考えるなら、Aの中に円a入ってい て、Bの中に円bが入っているとすると、AとBは同じ場所を占めるのです から、円aと円bは重なってしまいます。それを「全体で接する」と表現 しているのでしょう(おそらく)。四つめの異論も、同じ『命題集注解』 の直前の箇所(第一異論)にほぼ同じ言葉で記されています。再び上のア リストテレスの原則に従うと、同じ場所を占めるということは内容物の境 界が一致するということで、となると二つの物体が同じ場所を占めるな ら、その二つの物体は同一の境界をもたなくてはならない、つまりは同一 でなければならなくなる、ということでしょう。 これらの反対異論からしても、枠組みとしてのアリストテレスの原則が重 要であることが改めて感じられます。ここからはまたも余談になりますが (笑)、デュエム本(『世界の体系』)によると、アリストテレスの場所 論はやはりそのままアラブ勢に継承されていきます。アル・キンディやア ヴィセンナなどが代表的で、その継承の過程で、例の「一番外側の天球に おいては場所がないのに運動がある」という矛盾の解決が試みられるとい います。とりわけアヴェンパーチェ(イブン・バージャー)が、天球の場 所概念はそれ以外の場所概念とは異なるというテミスティオスの説を引き 継ぎ、さらに展開させていくようです。通常の物体の場合、その物体に接 する形でそれを包含するものが場所となりますが、天球の場合はすべて、 その内部に含む物体(下位の天球?)の凸面が場所とされるのだといい、 つまり天球においては、場所は物体の外側ではなく、内側を意味すること になります。 このアヴェンパーチェの説はアヴェロエスによって紹介されているといい ますが、アヴェロエスは同時に「アリストテレスに即していない」とこれ を批判するのですね。アヴェロエスはアリストテレスの言う「場所の不動 性」を重視します。場所は運動の目標や基準となるのだから、その場所自 体が動くとなったら、運動そのものが意味をなくしてしまう、というわけ です。で、これを論拠として、アヴェロエスはプトレマイオスの周転円の 考え方を批判するといいます。つまり、円運動には必ず不動の中心がなく てはならず、中心自体が離心円上を動いていくというのは認められない、 というわけです。アヴェロエスはアヴェンパーチェを修正する形で、運動 の基準となる不動の物体が場所を構成するとし、それが運動体を包摂する 場合には「本質的な」場所となり、運動体を包摂しきれない場合には「付 帯的な」場所になる、と論じます。通常の物体は前者、天球はこの後者に 相当するというわけです。うーん、なかなかすんなりとはいかない話です が、とにかく一番外側の天球について場所の存在を規定するために苦慮し ている様子だけは、なんとなく浮かび上がってきます。 さて、私たちのテキストのほうは、次回からいよいよトマスの考えが述べ られる本論部分です。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は07月18日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------