〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.154 2009/07/18 *お知らせ いつも本マガジンをご愛読いただきありがとうございます。本マガジンは 原則隔週の発行ですが、例年通り7月末から8月末までの一ヶ月ほどは夏 休みとさせていただきますので、次号は8月29日(土)発行とさせていた だきたいと思います。少し間が開いてしまいますが、よろしくお願いいた します。 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その8) 前回、前々回とトマスによる投擲問題の箇所を見ましたが、トマス以後の 世代、つまり13世紀末から14世紀にかけての論者たちになると、いよい よ漸進的にインペトゥス理論の方へと近づいていく感じが濃厚になってき ます。マイヤー本でまず取り上げられているのは、ヨハネス・ペトルス・ オリヴィです。オリヴィは13世紀末にフランスで活躍したフランシスコ 会士です。その思想は時に独特であると言われ、13世紀末には異端の嫌 疑もかけられた人物です。 その独特さの一端は物体の運動についての論にも垣間見られそうです。オ リヴィは物体の運動についてどう考えていたのでしょうか。「オリヴィこ そインペトゥス理論の先駆け」とする研究もあったようなのですが、マイ ヤーはそれは正確ではないとしつつ、運動についての新しい考え方が理論 にまで高められる礎にはなったと捉えています。オリヴィの主著といえば 『命題集注解第二巻』が有名ですが、その問題二三から問題三一がそうし た運動の理論の説明になっています。 そこでのオリヴィの目的は、特に遠隔作用(影響)に関する原因論を説明 することにあります。それは翻って物体同士が接触する場合の作用をも説 明するものでなくてはならず、オリヴィはそこで「スペキエス理論」なる ものを持ち出してきます。すなわち、遠隔・近接を問わず、作用はすべか らく「スペキエス」によって生じるという考え方です。ここでスペキエス と称されているものは、つまりは作用因の似像(similitudines)もしくは 刻印(impressiones)とされます。作用因からもたらされるスペキエス (一種の形相的な力)が、作用体に刻まれることによって作用が生じる、 というわけです。中世盛期においてスペキエスといえば、認識論で感覚的 認識から知的理解への架橋として考えるトマスのような立場や、光学論で 物体が像を結ぶためのプロセスとして考えるロジャー・ベーコンのような 立場がありますが、オリヴィの唱えるスペキエスは後者の系譜に属し、 ベーコンの理論をさらに敷衍している印象です。 スペキエスによる作用という考え方は、いわば一種の「発出論」です。本 来の発出論で扱われるような普遍的な原因のみならず、末端の個々の原因 にまで同様の図式を拡張したもの、というふうに理解できます。ロ ジャー・ベーコンの場合、スペキエス理論は光学論的に有名になってし まっていますが、基本的にはやはり作用を説明する大きな理論になってい るのですね。ただしベーコンは、道具など人為的なものはそうしたスペキ エスをもたらすものには含まれないとしているようです。それに対しオリ ヴィになると、その適用範囲はさらに拡がり、投擲などの具体的な問題に もスペキエスの考え方が想定されるようになります。 マイヤーによれば、オリヴィは運動における作用の様態について三種類を 考えています。一つは動因と動体が直接に接している場合。この場合もオ リヴィは、動因の刻印が直ちに動体を動かし、結果的に動因が動体を動か しているように見えるとします。二つめは投擲物などのように、動因が動 体から離れている場合で、動因から動体へのスペキエスによって、動因が その場に居合わせなくても動体は「屈性」(inclinatio)をたどるように 動いていきます。ここでいう屈性は、動因による刻印と、運動そのものを 媒介するものと位置づけられます。物体の中の屈性は、動因からの刻印 (スペキエス)によって現実態になる、というふうにも語られます(やや 曖昧さが残りますが)。三つめは動因がさしあたり不在であっても動体が 動く場合で、はるか上流の第一動因などからの刻印によって作用がもたら されるとされます。 上の屈性という概念は、オリヴィにおいては運動の終端(目標)へと向か う性質とされ、マイヤーによれば、インペトゥス理論の漸減性の力の刻印 とは若干異なるようです。その意味では、オリヴィのこの考え方はインペ トゥス理論と即イコールとは言い難いことになりますね。オリヴィは刻印 される力を、形相に絡めて論じます。つまり刻印される力(スペキエス、 あるいはそれで現勢化される屈性)とは、形相のもつ性質というふうに考 えられているのです。動因側の形相の性質、あるいは形相の一部が、動体 側の質料へと移りゆく、というわけです。このあたり、とりあえず今は深 入りしませんが、オリヴィの形相そのものの考え方、特にその増減の考え 方なども絡んでとても興味深い論点になっています。 マイヤーはオリヴィの考え方とインペトゥス理論との違いに、スペキエス 概念の出自である新プラトン主義と、インペトゥス理論の出自であるアリ ストテレス思想圏との対立を見て取っています。ま、そういう図式的理解 でよいのかどうかはさしあたり置いておきますが、とにかくいまだインペ トゥス理論ならずとも、それに近接する理論として、オリヴィのこうした 屈性の概念、その説明としての形相の考え方は、結構あいまいな部分も残 しつつも、当時の思想的な流れの「傾向」を表しているのかもしれませ ん。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの場所論を読む(その4) 今回からはトマスの考えが述べられる箇所です。さっそく見ていきましょ う。 # # # Responsio. Dicendum quod in his que apud nos sunt, que omnes esse corpora confitentur, ad sensum uidemus quod adueniente uno corpore ad locum aliquem aliud corpus a loco illo expellitur; unde experimento patet talium corporum duo in eodem loco esse non posse. Quidam autem dicunt quod non prohibentur duo horum corporum ab hoc quod sint simul propter corporeitatem uel propter aliquid quod sit de ratione corporis in quantum est corpus: sic enim sequeretur omnino duo corpora prohiberi ab hoc quod est esse simul; set dicunt quod ab hoc prohibentur propter corpulentiam ipsorum. Set quicquid sit hoc quod corpulentiam nominant, siue sit dempsitas, siue impuritas, uel corruptibilitas aliquorum corporum, uel etiam aliqua natura specialis nature generali corporeitatis superaddita, non potest esse causa huius prohibitionis. Inuenitur enim duplex comparatio corporis ad locum. Vna secundum quam ponitur in loco hoc uel illo determinato, et hec compratio sequitur naturam specialem huius uel illius corporis; sicut quod grauia ex natura grauitatis sunt deorsum, leuia uero sursum ex natura leuitatis. Alia uero comparatio est secundum quam dicitur esse in loco simpliciter, et hec comparatio sequitur corpus ex ipsa natura corporeitatis, non propter aliquid additum: secundum hoc enim corpus est in loco, quod loco se commetitur; hoc autem est secundum quod est dimensionatum dimensionibus equalibus et similibus dimensionibus loci, dimensiones autem insunt cuilibet corpori ex ipsa corporeitatis natura. Esse autem plura corpora in eodem loco uel non esse, non respicit locum determinatum, set locum absolute; unde oportet quod causa huius impedimenti referatur ad ipsam naturam corporeitatis, ex qua conuenit omni corpori quod in quantum est corpus natum sit esse in loco; et si ultima spera non sit in loco, hoc non est nisi quia nichil potest esse extra ipsam, non autem propter defectum aptitudinis predicte. 回答。次のように言わなくてはならない。われわれのもとにあるものはす べて物体であると認められているが、それらにおいては、われわれは感覚 的に、一つの物体がある場所にやって来ると、別の物体はその場所から追 いやられると考える。したがって経験上、かかる二つの物体が同じ場所に 存在することはできないというのは明白である。 しかしながら、そのような二つの物体が同時に存在することが妨げられる のは、物体性のせいではない、あるいはそれが物体である限りでのなんら かの物体の原理をなすもののせいではない、と言う人々もいる。すなわ ち、もしそのせいだとすると、すべての二つの物体は同時に存在できない ことになってしまうというのである。彼らはむしろ、それは物体自身の厚 みのせいであると言う。しかしながら、彼らが「厚み」と名付けるもの が、密度(?)ないし不純物、あるいはなんらかの物体の可滅性、あるい は一般的な物体性の本性に付加される特殊な本性など、いかなるものであ れ、それらがそうした妨げの原因となることはできない。 物体と場所の関係は二種類あると考えられる。一つは、物体がここ・そこ の限定された場所に物体が置かれる場合の関係で、これ・それの物体の特 殊な性質に即した関係である。たとえば重いものはその重さの本性ゆえに 下方に位置し、軽いものはその軽さの本性ゆえに上方に位置するなどであ る。もう一つの関係は、端的に「場所に存在する」と言われれる場合の関 係で、これは物体自身の物体性の本性に即した関係であり、何らかの付加 的なものによる関係ではない。物体が場所に在るというのは、みずからが 場所と外延を同じくする限りにおいてのことである。しかしながらそれ は、場所の次元(拡がり)に同等かつ類似の次元によって限定されている 限りにおいてであり、一方で次元は、任意の物体に、その物体性の本性ゆ えに内在している。しかるに、同じ場所に複数の物体があるかないかは、 限定された場所ではなく、絶対的な場所に関係する。ゆえに、そうした妨 げの原因は、物体性の本性そのものに帰されなくてはならないのである。 かくしてすべての物体には、それが物体である限りにおいて、もとより場 所に在ることが適合する。また、最終の天球が場所にないとするなら、そ れ自身の外側に何もありえないからにほかならず、上述の適合性が欠けて いるためではない。 # # # 最初の段落はごく常識的な見解です。これに対して、現実世界において物 体が同一の場所に存在できないのは厚みのせいだという人々がいるといい ます。これは前に出てきたアルベルトゥス・マグヌスやボナヴェントゥラ などのことでしょう(残念ながらまだ確認していないのですが(苦 笑))。トマスは第三段落でこれに反論しています。 物体と場所の関係性をトマスは二つに分けて考えていますが、それらは、 物体の限定性にもとづいた「相対的な」場所概念と、物体が存在するとい う場合の「絶対的な」場所概念とに対応します。この二つの場所概念は、 前に挙げたアリストテレスの二つの場所概念、つまり物体を内包するもの としての場所と、運動の参照軸としての不動の場所に呼応しているわけで すが、これをトマスは、前の第二項のところで論じた「次元」に絡めて解 釈しています。 次元というのは空間的な拡がりのことを言うのでした。第二項では、次元 もまた「これ・それ」と限定的な次元と、次元そのものの本性から考えら れた非限定の次元を考えていました。トマスは場所もまた次元をもつと述 べていますが、前者の次元は上の相対的な場所概念に、後者は絶対的な場 所概念に対応しているように思われます。絶対的な場所というのは、少し わかりにくい気がします。座標のようなものをイメージしているのでしょ うか。座標だとするなら、それが地上世界から天球にまで及ぶのであれ ば、最終の天球(前にも触れたように、アリストテレス以降の注解者たち の間では、その最終の天球が大問題になっていたのでした)の話が出てく るのも当然という感じがしますが、それで良さそうにも見えながら、どう も一律均等な網の目のようなイメージではない印象を受けます。 例によってデュエムの整理によれば、「不動の場所」概念はもともと、円 運動の中心は不動な何かでなくてはならないという、新プラトン主義系の アリストテレス注解者たち(とりわけシンプリキオス)のテーゼに由来す るといいます。彼らは円運動の不動の中心は、不動の物体でなくてはなら ないとし、天球で言うなら、地球こそがその不動の中心であると考えま す。そしてその不動の物体はそれ自体として(本質的に)場所にあり、一 方の円運動をする物体(たとえば天球)は付帯的に場所にあるのだと論じ ます。デュエムによると、この「付帯的(per accidens)」という場所 概念をトマスは受け入れないといいます(『自然学注解』四巻第七講)。 トマスはむしろテミスティオスの見解(最終の天球はその部分ゆえに場所 に在る、というもの)をもとにして、独自の考え方を展開していくようで す。トマスはまず、場所が運動に関係していることを示し(アリストテレ ス的テーゼです)、よしんば物体それ自体に場所が必要でないとしても、 場所に対して動く物体には必然的に場所があてがわれなくてはならないと します。複数の物体が継続的に直線運動をしている場合、同じ場所を次々 に別の物体が通っていくわけで、直線運動全体として見れば、一つの物体 が、その物体の占めていた場所を離れ、その場所に別の物体が置かれると いうことになります。そのときの場所が、絶対的な(運動に対する不動 の)場所となります。 ところが、とトマスは言います。天球の円運動の場合には、運動全体で見 れば、基体として(つまり円そのものとして)の場所は変わらないことに なります。動体は同じ場所をめぐるだけなので、その観点からすれば場所 は変わらないというのですね。とはいえ動体の部分の動き(そのときその ときの位置)に注目すれば、そのときそのときで、その部分に対して場所 があてがわれなくてはなりません。それが円運動での絶対的な(運動に対 する不動の)場所ということになります。そんなわけでトマスは、最終の 天球についても、その天球内部の「部分」ゆえに場所はあてがわれるので あって、その中心が実体の外にあるからではない(これもわかりにくいで すが、要するに円の実体そのものではなく円運動の中心に場所をあてがう という上のシンプリキオス的な説を否定しているのでしょう)と結論づけ ます。なるほどこれは、前回触れたアヴェンパーチェ(=テミスティオ ス)の説を換骨奪胎している感じですね。 場所はあくまで、なんらかの運動を基準にして、その運動体にあてがわれ るものであり、直線運動と円運動では物体への場所のあてがわれ方が違 う、というのがミソです。かくしてトマスの場合には、場所に本質的・付 帯的といった区分はなく、直線運動・円運動のいずれでも、あてがわれ方 はともかく、必然として場所があてがわれなくてはならない、ということ になります。これは網の目というより、運動が生じるその都度、絶対的な 場所が立ち上がる、というようなイメージでしょうか? そのあたりも検証しながら、本文を読み進めていきたいと思います。次回 も、トマスの見解が示される本論の続きです。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行ですが、夏休みを挟みますので、次号は08月 29日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------