〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.155 2009/08/29 *夏休みということで、一ヶ月以上のご無沙汰でした。またぼちぼちと再 開いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その9) だいぶ間が開いてしまいましたが、前回はオリヴィの、インペトゥス理論 に近いけれども微妙に異なる議論というのを見ました。マイヤー本に従 い、今回取り上げるのはオッカムです。オッカムとインペトゥス理論とい うのは、もとよりどこかそぐわない感じがします。実際のところ、オッカ ムはインペトゥス理論の批判者として現れてくるようです。オリヴィは基 本的に視覚的理論だったスペキエス理論をより広範な原因論的な議論へと 拡張し、その過程でインペトゥス理論に近づいたわけですが、オッカムの 場合はそもそもスペキエス理論そのものを否定し、原因論的な議論を持ち 出してくることにも反対します。 とはいうものの、オッカムもまた遠隔作用について考察しないわけにはい かず、そこからまったく独自の考え方を示唆することになるようです。 オッカムは著書『命題集注解』第二巻(問一八)で、そもそも動因と動体 の間にはなんら物理的接触は必要なく、ただ近接的に「潜在力の対立関 係」(simultas virtualis)があればよいと考えます。この潜在力の対立 関係というのは、動因と動体が近接的であれば作用と被作用という関係が ごく自然に成立し、かくして運動が生じるという考え方のようで、オッカ ムは投擲物のほか、日光の照射(色ガラスによる色の透過)、磁石の引力 などを引き合いに出しています。スペキエスその他の媒介物、媒質などを 持ち出してくる必要はなく、潜在力によって運動はただただ誘発される、 というわけなのでしょう。考えようによっては、なんともラディカルな立 場です。なにしろそれは、力の伝達すら必要としないというのですから ね。ただオッカムは、そうした解釈を示しはするものの、理論として詳述 してはいないようなのです(ちょっと肩すかしという感じもしなくありま せんが……)。投擲の例にしても、それ自体を問題をするというより、一 つの類推的な例として挙げているにすぎないようです。 では、投擲手の手を離れても投擲物の運動は止まらない、といった事象は どう考えられるのでしょうか。潜在力の対立関係は近接していなければ成 立しないのですから、その現象は矛盾するのではないでしょうか。オッカ ムは続く『命題集注解』第二巻問二六で投石の問題を再考します。アリス トテレス的な媒質(空気)による運動の保持説を斥けた後、石そのものに 力が宿って運動が継続するという説(インペトゥス理論ですね)について も難色を示します。オッカムは、動因と動体をなす二つの物体はあくまで 近接することによって活性化するのだとした上で、投擲手が石に接する仕 方によって(ゆっくりと手を動かす、素早く動かすなど)、動体が動いた り動かなかったりすることを指摘して、石が動く力ないし運動が投擲手か ら伝達されるとは考えられないとしています。むしろ動体は、他の力(外 部からの力)によらず、みずから動いていくのだというのですね。 オッカムのこの説のミソは、インペトゥス理論のように外部から与えられ たなんらかの力が温存されるというのではなく、動体にあらかじめある潜 在力が活性化されて運動を持続させるのだという点にあります。そもそも の動因(たとえば投擲手)は一応想定されてはいますが、運動の持続をつ かさどる力となると、これはもう動体と渾然一体になっている感じです。 ですがこうなると、実際問題として運動がどこに由来するのかが今一つ釈 然としなくなってしまいます(投擲手?石?)。 マイヤーによれば、オッカムにとって、そもそも運動などというものは 「用語」でしかなく、(運動という)現象の存在論的なモーメントを捨象 した概念にすぎません。これはオッカムの議論としては常套句ですが、そ のために、従来言われているような「運動」はなんらかの原因の結果でも なく、またそもそも原因を考える必要すらなくなってしまうというので す。現象としてそこに生じているのは、二つの物体の潜在力が対立関係に 置かれ、ただ運動が生じるということだけなのだ、ということでしょう か。うーん、なんとも超絶的なスタンスですね。マイヤーのこの解説を見 るかぎり、なにやらオッカムが考えている運動(現象としての)というの は、動因と動体がそれぞれに活性化しあう一連のうねり、接触によって織 りなされる一種の流れのような感じさえします……。 ま、それはちょっと極端なイメージかもしれませんが、とにかくオッカム の自然学的な立場についてはもっとよく検討してみたいところです(今後 の課題として取っておきましょう)。再びマイヤーによれば、オッカムの こうした立場は、当時のインペトゥス理論提唱者の一人、マルキアのフラ ンシスクスに対する異論だったといいます。オッカムの運動概念は、後世 においてインペトゥスと同一視されるなどの誤解もあったようで、やはり インペトゥス理論が広まる当時のただ中にあって、オッカムもまた同じよ うな問題圏にいたことを感じさせてくれます。つまりそれは、アリストテ レス思想からのゆるやかな離脱ということです。次回はオッカムが批判的 だったという、そのマルキアのフランシスクスを見てみたいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの場所論を読む(その5) トマスの「場所論」ということで、『ボエティウス「三位一体論」注解』 の第四問題第三項を読んでいます。前回からがトマス自身の議論でした。 今回は休み明けのウォーミングアップという感じで、短めにさせていただ きました。 # # # Et ideo alii concedunt simpliciter quod nulla duo corpora possunt esse in eodem loco, et rationem huius referunt ad principia mathematica, que oportet saluari in omnibus naturalibus, ut dicitur in III Celi et mundi. Set hoc non uidetur esse conueniens, quia mathematicis non competit esse in loco nisi similitudinarie et non proprie, ut habetur in I De generatione; et ideo ratio predicti impedimenti non est sumenda ex principiis mathematicis, set ex principiis naturalibus, quibus proprie locus debetur. Et preterea, rationes mathematice non sufficienter concludunt in ista materia: etsi enim mathematica saluentur in naturalibus, tamen naturalia addunt aliquid supra mathematica, scilicet materiam sensibilem, et ex hoc addito potest assignari ratio alicuius in naturalibus, cuius ratio in mathematicis non poterat assignari. / In mathematics enim non potest assignari ratio diuersitatis harum duarum linearum nisi propter situm; unde remota diuersitate situs non remanet pluralitas linearum matheaticarum, et similiter nec superficiem aut corporum; et propter hoc non potest esse quod corpora mathematica sint plura et sint simul, et similiter de lineis et superficiebus. Set in corporibus naturalibus posset ab aduersario assignari alia ratio diuersitatis scilicet ex materia sensibili, etiam remota diuersitate situs, et ideo illa que probabat duo corpora mathematica non esse simul, non est sufficiens ad probandum duo corpora naturalia simul non esse. よってほかの人々は、単純に二つの物体が同じ場所に存在することはない とし、その理由として数学の諸原則を引き合いに出す。『天空・世界論』 第三巻で言われているように、それはあらゆる自然的事象に温存されなく てはならない諸原理である。しかしながら、これは適切であるようには思 われない。なぜなら、『生成論』第一巻にあるように、数学的なものが場 所に生じるというのは比喩的にであって、本来的にではないからだ。した がって、上述の「妨げ」(二つの物体が同時に一つの場所を占めることへ の妨げ)の理由は数学的な原理にではなく、場所が本来負っている自然の 諸原理に由来すると考えなくてはならない。加えて、数学の道理はそのよ うな原因を帰結するに十分ではない。数学的なものは自然的事象において も温存されるが、一方で自然的事象は数学的なものになんらかの付加をも たらす。すなわち感覚的質料である。そしてこの付加物から、なんらかの 道理が自然的事象に与えられるのである。それは、数学的なものよっては 与えられえない道理である。 というのも数学において二つの直線が異なる理由は、位置による以外に与 えられないからだ。そのため、位置の違いが取り除かれれば、数学におけ る直線の複数性は残らなくなってしまう。面積や立体の複数性も同様であ る。また、そのために、数学的な立体は複数にもならず、同時に存在する こともないのである。直線や面積についても同様である。しかしながら自 然における立体は、対立するものによって別の差異の理由を与えられう る。つまり位置の違いが取り除かれても、感覚的な質料から(差異の理由 が)与えられるのである。このように、二つの数学的物体が同時には存在 しないことが論証されるだけでは、二つの自然の物体が同時には存在しな いと論証する上で十分ではない。 # # # 今回の箇所は便宜的に二つに分けましたが、もとは一つの段落です。二つ の物体が同時に同じ場所を占めない理由を、数学的な原理に求める人々へ の批判が展開されていますね。批判されている人々というのは、アルベル トゥス・マグヌスやボナヴェントゥラのようです(伊語訳注)。両者それ ぞれの『命題集注解』にほぼ共通の議論が見られるらしいのですが、残念 ながらまだテキストを参照できないでいます……。 『天空・世界論』というのはアリストテレスの『天空論』のことですが (長倉注)、その第三巻第一章の参照箇所(299a 13-17)にはむしろ、 数学が(物象を)差し引くことで語り自然学が(物象を)加算することで 語ることから、両者の領域は一致しない、ということが記されています。 『生成論』は『生成消滅論』のことで、同じく長倉注によれば、参照箇所 は第一巻第六章(323a 1-3)となっていますが、この箇所では、数学的 事象の在り方は場所(トポス)とは別様ではあるけれども、数学的事象に も同様に場所が与えられてしかるべきだとされています。これらの参照箇 所、なんだか微妙に違うのではという気もしますが、前にも確か少し触れ たと思いますが、トマスの引用はときに元のテキストと微妙にずれていた りもします。 というか、ここでの参照元はむしろトマス自身の注解書なのかもしれませ ん。たとえば『天空・世界論注解』の第三巻第三講(四)には、次のよう にあります。「数学的物体になんらかの不可能が事態が生じる場合、自然 の物体にも影響が及ばざるをえない。それはつまり、自然的事象から捨象 したものが数学的事象と言われるからだ。一方、自然的事象は数学的事象 を比喩としてもつことで成立している。(……)このように、数学的な根 拠に属するものが自然学的事象にも温存されるのであって、その逆ではな いことは明白である」。また、トマスの『生成消滅論注解』第一巻第三講 (七)には、「点や線、面積は、純粋に数学的事象であり、他の自然的な 受苦がみずから生じることはない」とあります。同じく第一三講にも数学 的事象が自然的事象から分離したものであることが記されています。 今回の本文の主眼は、数学的事象のみで考えることの不十分さにありま す。数学的事象(幾何学的図形などを考えればよいでしょう)について は、トマスの『自然学注解』第四巻第一三講でも取り上げられています。 そちらでも、同じ場所を二つの物体が占めることは可能かという議論が、 真空は存在しないという議論に絡めて検討されています。物体をその次元 (大きさ)だけで考える場合には(つまり数学的に考える場合です)、位 置のみが差異をなすことになるけれども、大きさの等しい二つの物体が位 置も一致するなら、それらは完全に一致することになり、そうするとそれ ら二つが占めていた空間あるいは真空もまた一致することになってしまう が、それはありえない、さもないと三つめ、四つめの物体も同じ空間を占 めることができてしまい、無限に至ることになるが、それは不可能だか ら、結局そもそも大きさの等しい二つの物体が位置も一致することはあり えない、という議論構成になっています。 どうやらこれは上のアルベルトゥスやボナヴェントゥラの議論にも重なっ ているようです。数学的事象の差異が位置に依存することはそこに明確に 示されていますが、これはあくまで真空についての議論が問題になってい るからでしょう。しかしながら今回の本文によれば、トマスは位置のみに よらない、感覚的質料にもとづく自然学的な原理でもって場所の限定性を 考えていこうとしています。トマスの自然学における質料概念はここでも また重要になってきそうですが、このあたりはまた次回にゆっくりと見て いきたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月12日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------