〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.156 2009/09/12 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その10) 14世紀のインペトゥス理論そのものは、誰か一人が唱えて拡がったとい うよりも、何か時代の流れのようなものの中で同じような考え方が群発し ていったという印象を受けます。今回は「一応の」嚆矢の一人とされる、 マルキアのフランシスクスを取り上げます。フランシスクスはフランシス コ会のスコトゥス主義者で、1320年頃にパリ大学でペトルス・ロンバル ドゥスの『命題集』についての講義を行っていたことで知られています。 魂の不滅性は厳密には論証できないと指摘したことで有名です。1323年 執筆の『命題集注解』第四巻の冒頭では、インペトゥス理論の考え方がか なりはっきりと打ち出されています。マイヤー本はその問題の箇所を大き く再録してくれていますが、実際のところ、かなり端的な形で「(物体を 継続的に動かす)力は媒質よりも物体にあると考えるほうが良いと思われ る」と述べています。 フランシスクスの議論は、もとは神学的な問いから始まっています。「秘 蹟物(聖餐のパン)に宿る力は、超自然的な力が留め置かれたものなの か、それとも形相に内在する力なのか」というものです。この問題を考え るにあたって、フランシスクスは長い迂回路に入り、道具一般(人為的な もの、自然のもの)に力が伝わる場合を考察し始めます。「道具が体現す る力はそこに内在する力によって励起するのか、それとも道具を使う者 (動因)の力が発現するだけなのか」。この考察の過程で「石を上空に 放った場合の運動」についての話が出てきます。扱う問題が大きなものか ら極小のものへと絞り込まれていく感じですね。 フランシスクスは、投げ出された後の石の運動の原因は、投擲手そのもの や媒質そのものには求められないし、投擲物本来の形相に求めることもで きないとします。そのような継続的な運動は、もとの第一原因によって動 体に生じる、第二の運動の力(直接的な力ではない、運動継続のための別 の力)によるものに違いないと考えるのですね。ではその力はいったいど のようなもので、どこにあるのでしょうか。動体でしょうか、それとも媒 質でしょうか。ここでアリストテレスの議論が改めて検討され、空気がそ の力を伝えるのだというアリストテレス説が否定され、上記のように、そ の力は物体によって担われるという説が展開されていきます。 フランシスクスは力を、運動を起こす力(投擲ならば手の力)と、運動に よって物体に残される継続的な力とに分けて考え、後者は前者によって生 じると見ています。でもって、その後者の力は、一定の期間のみ持続され る性質の、一種の中間的な形相のようなものと考えているようです(火の ように常に熱を出すのではなく、水と混じったときのように一定の間だけ 暖かさが持続する、と言われています)。この漸減的な力という点は重要 なポイントです。このような考察を経て道具の問題に立ち返るフランシス クスにとっては、もはや人為と自然の区別もさほどの意味はもたなくなり ます。物体が担う継続的な力という考え方は、あらゆるものに敷衍されま す。そこには天球の運動まで含まれます。天球そのものにも、その(継続 的な)第二の力が残されているのではないか、というのですね。さらには 出発点だった秘蹟物についても、その考え方が適用されます。 天球の運動への言及は本来は付加的な部分なのですが、そこで問われる問 題のせいで、フランシスクス自身、いろいろと逡巡しながら考察を巡らし ていくことになるようです。上に記したように、フランシスクスの考えで は、物体が担う継続的な力は基本的に漸減的なもので、逆向きの力の働き などがあれば、それによって滅していきます。ではそれは、永遠とされる 天球の運動にも適用できるのでしょうか。永続的とされる天球の運動とは 矛盾してしまうのではないでしょうか。 そのあたりの矛盾を考えるに際してのフランシスクスの見解は、いくぶん 明解ではないように見受けられます。天球は知性(ないし天使)が動か し、しかも知性は動因として自然の力を奮うという、当時フランシスコ会 で一般的だった見解を踏襲すると、では知性はどういうふうに力を働かす のか、天球の動きはどこまでがその直接的な働きで、どこからが継続的な 力によるのかといった点が、なにやら曖昧になってしまうからです。フラ ンシスクスは一応、解答として、形相をその本性で三つに分類してみせま す。本性として移ろいやすいもの、真に永続的なもの、そして両者の中間 です。物体に残される継続的な力とは、この三番目に属するものとされる のですが、天球という永続的な本性のものに担われれば、その力も永続的 なものとなるかもしれないとも述べています。 また『命題集注解』の別の箇所(二巻)では、天使が天球を動かす様態に ついて言及し、天使は直接的に天球を動かすのではなく、知解でも意志で もない第三の現実態を介して(per actum tertium)動かすとした上で、 その現実態(つまり動かす力のことでしょう)は天使と天球のいずれかに あると、曖昧な説明に留めています。そのため、たとえばメディアヴィラ のリカルドゥスなど、同時代以降の人々によるさらなる解釈を促すことに なっていくようです。とはいえ明確な決着にはいたらず、逆にたとえば、 もし天球に残される継続的な力を永続的と考えるなら、今度は天球の運動 がつねに加速されてしまうことになるのでは、といった疑問も出てくるよ うです。そのあたりの問題についての対応は、次のビュリダンの考察を待 たなくてはならないようです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの場所論を読む(その6) 『ボエティウス「三位一体論」注解』第四問題第三項を読んでいますが、 いよいよこれも大詰めです。では早速、今回の箇所を見ていきましょう。 # # # Et ideo accipienda est uia Auicenna, qua utitur in sua Sufficientia, in tractatu de loco, per quam assignat causam prohibitionis predicte ex ipsa natura corporeitatis per principia naturalia: dicit enim quod non potest esse causa huius prohibitionis nisi illud cui primo et per se competit esse in loco, hoc est enim quod natum est replere locum; forme autem non competit esse in loco nisi per accidens, quamuis alique forme sint principium quo corpus determinatur ad hunc uel illum locum; similiter nec materia secundum se considerata, quia sic intelligitur preter omnia alia genera, ut dicitur in VII Metaphisice. Vnde oportet quod materia secundum quod subest ei per quod habet primam comparationem ad locum hoc prohibeat; comparatur autem ad locum prout subest dimensionibus. Et ideo ex natura materie subiecte dimensionibus prohibentur corpora esse in eodem loco plura. Oportet enim esse plura corpora in quibus forma corporeitatis inuenitur diuisa; que quidem non diuiditur nisi secundum diuisionem materie; cuius diuisio cum sit solum per dimensiones, de quarum ratione est situs, impossibile est esse hanc materiam distinctam ab illa nisi quando est distincta secundum situm, quod non est quando duo corpora ponuntur esse in eodem loco; unde sequitur illa duo corpora esse unum corpus. Quod est impossibile. Cum ergo materia dimensionibus subiecta inueniatur in quibuslibet corporibus, oportet quelibet duo corpora prohiberi ex ipsa natura corporeitatis ne sint in eodem loco. したがって、アヴィセンナがその『治癒の書』の場所論で用いた方法が受 け入れられるべきなのだ。それは、上述の妨げ(二つの物体が同じ場所を 占めることの)の原因を、自然の原理による自然の物体性そのものから指 定するときの方法である。アヴィセンナは、そうした妨げの原因は、第一 に、かつみずから場所に存在することのできるものによる以外にない、と 言う。それはつまり、もとより場所を占めることができるものである。し かしながら、たとえ一部の形相が、物体がこれこれのものへと、あるいは その場所へと限定される原理であるにしても、形相は偶有による以外、場 所に存在することはできない。そのものとして考察された質料も同様であ る。というのも、『形而上学』第七巻で述べられているように、その際の 質料は、ほかのあらゆる類以外として理解される場合だからである。ゆえ に、場所へと第一に関係する拠り所となるものに従属するがゆえに、質料 はかかる妨げをなすのでなくてはならない。しかしながら質料は、次元に 従属するに従って場所に関係する。したがって、次元に従属するという質 料の本性ゆえに、複数の物体が同じ場所に存在することは妨げられるので ある。複数の物体があるのであれば、物質性の形相が分かれていなくては ならない。分かれている場合、それは質料の分割による以外にはない。そ うした質料の分割はただ次元によるのみであり、その道理は位置にある。 こちらの質料がそちらの質料から区別されるのは、位置によって区別され る場合以外はありえないが、二つの物体が同じ場所に存在するとされる場 合にはそうはならない。その場合、二つの物体が一つの物体をなしている ことになるが、そんなことは不可能である。 このように、どの物体においても質料は次元に従属していると考えられる 以上、どの二つの物体も、みずからの物体性の本性ゆえに、同じ場所に存 在することが妨げられなくてはならない。 # # # はじめに出てくるアヴィセンナの書は、原文では「Sufficientia」となっ ています。伊訳注によれば、アヴィセンナの主著『治癒の書』の自然学関 連部分をラテン世界ではそう呼んでいたのだそうで、場所論はその第二巻 に出てくるようです(残念ながら未見です)。同注にはヴェネツィアの 1508年刊の版が参考として挙げられています。 さて、今回の箇所はまさに核心部分です。二つの物体が同じ場所を占めら れないのは、質料が「次元」によって限定されるという性質を備えている ためだ、というわけです。この「次元」については、前の第二項のところ でも出てきました。そこでは、基本的に「次元にある」というのは、空間 を量的に占めて完結していることだと説明されていました。一方で次元そ れ自体を問題にするならば、限定されていない「量的に不完全なもの」 (完結していないもの)であるとされていました。モノが次元にあるとい う場合には限定空間を占めているわけですが、次元そのものを直接考える なら、それは空間としてはまだ限定されていない不確定な状態だというの でしょう。その場合の次元とは、おそらくは空間を限定しようとする作用 の非限定的な拡がりのことと思われます。 モノが取る「次元」は「位置」を道理とする空間的な拡がりであり、一方 の「場所」は「次元」で限定された物体同士の相互関係で成立する概念の ように見受けられます。また、今回の本文から窺えるように、無規定な質 料(第一質料)が次元によって限定されて一定の空間を占めることは、そ の質料が本来的にもっている性質だと考えられているようです。とするな ら、「次元」それ自体を空間限定の作用の拡がりだとすると、それが質料 の側の性質だということになります。ならばそれは、単一の物体の空間的 な限定ばかりか、限定された物体同士の関係まで成立させる、個体化論上 のかなり重要な概念になってくると思われます。ですが案外、このような 「次元」の考え方からの整理というのはなされていない印象を受けます。 最近出た坂口ふみ『天使とボナヴェントゥラ』(岩波書店、2009)に は、トマスが考える「次元」についての興味深いコメントがあります。ト マスの場合は原則、個体のあらゆる限定は形相から来ることになっている わけですが、個別化の原理を質料に見る立場のせいで矛盾が生じます。本 来無限定であるはずの第一質料を個別化の原理とすると、個別化がどう導 かれるかが説明できません。次元(三次元)によって限定された質料で は、形相を受け入れる前の質料がすでに限定されていることになり、矛盾 してしまいます。また、そもそも空間限定をもちこむと、個体化が「無個 性な質料の単に時空の内なる分割によることになり、個の個としてのあり 方が単に時空の限定ということから生じることになる」(p.193)とい う、なにやら非常に貧しい個体化論と化してしまいます。トマスはこれに 苦慮したあげく、「限定されざる次元」という概念を出してきたのだろう といいます(p.194)。限定の原理をできるかぎり形相の側に残しつつ、 空間限定にとどまらない個別化を担保した上で、質料に一定の役割を担わ せるための苦肉の策というところでしょう。ですがそれだけに緊張を孕ん だ概念かもしれません。 何回か前に、ここでの「場所」概念は空間の体系的な升目にそって配置さ れるようなものではなく、「物体」の出現に際してその都度成立するよう な(あるいは生起するような)ものではないかというようなことを記しま したが、どうもこの「その都度の成立」という点も、次元の考え方に大き く結びついているような気がします。このあたりはもう少し吟味してみた いと思っています。 次回は前に挙げられた異論への反論部分に入ります。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月26日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------