〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.157 2009/09/26 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その11) マイヤーによると、マルキアのフランシスクスが唱えた残存する力の理論 は、一定の反響を得てはいたものの、それほど広範な影響力は持たなかっ たといいます。1320年代の終わりになってようやく、その後一世紀にも わたり影響力をもつ人物が登場しました。ジャン・ビュリダンです。 ビュリダンとマルキアの間に直接の依存関係があるかどうかは微妙だとい い、マイヤーは否定的です。ビュリダンはおそらくマルキアの説を知って いただろうといいますが、自説の練り上げにおいて直接の影響があったか どうかはまた別問題だとマイヤーは述べています。ビュリダンのインペ トゥス理論は、マルキアの神学やそのアリストテレス指向(マイヤーはそ う見なしてます)とはまったく異なる様相を呈しているといいます。ビュ リダンの場合は、現象や経験をいっそう重視しているというのですね。 ビュリダンのインペトゥス理論はアリストテレスの『自然学』『天空論』 の注解において論じられています。前者の執筆時期は1328年以後の早い 時期(パリで教鞭を執り始めた頃)、後者は一説によると1340年代頃と されます。ビュリダンのテキストはいくつかの異本があるようですが、さ しあたりその点はスルーしておきましょう。ビュリダンの説については以 前(このシリーズの1回目ですね)簡単に概要をまとめましたが、要点だ け振り返っておくと、ビュリダンは運動を担う力をインペトゥスと称し、 投擲の場合には飛翔物となる石にその力が刻印されると考えるのですね。 また、抵抗や石本来の傾向(落下する傾向)によってインペトゥスは漸減 するとされています。ただし基本的には、そうした抵抗力が介在しなけれ ば(それは天球の場合だけなのですが)、インペトゥスは永続的に温存さ れるものとも考えているようです。 ビュリダンは、オッカムのように「運動そのものが物体の中に温存され る」という立場はとらず、むしろ「他の人たちが言うように」(マルキア のフランシスクスも含まれます)一種の「性質(qualitas)」が残される と考えています。全体的な骨子としてはマルキアの論に似ていて、物体に 刻印されるのは運動をもたらす力で、それは動因(投擲の場合なら投げ 手)によって刻印される、としています。動因の速度によって、もたらさ れるインペトゥスの大きさも異なります。マルキアの場合と大きく違うの は、ビュリダンがこの新しい考え方をかなり積極的に(逡巡なく)前面に 押し出していることです。たとえば、重い物体がより遠くへ投げられるこ とを、「質料が留め置くことのできるインペトゥスの容量の違い」という 考え方で説明したりしています。また、同一の物質であれば、インペトゥ スの容量は重量に比例します。 では、ビュリダンによる天空の運動の説明はどうでしょうか。マイヤーに よれば、ビュリダンの説では、天球を動かすのは知性ではなくインペトゥ スであり、それは神が創造の際に刻印したものだといいます。こうなる と、マルキアの場合に問題になっていた、どこからが刻印された力による 運動なのかとか、刻印された力の漸減は天球の永続性に矛盾するのではな いかといった議論は、一気に無効になってしまいます。なんともラディカ ルな問題解決の立場です。 マルキアは刻印される力に、永続的付帯物と漸進的付帯物の中間物を見出 していたようなのですが、ビュリダンははっきりとそれを、永続的な本性 をもつものと見なしています。とはいえ、ビュリダンがインペトゥスを永 続的と考えているのはあくまで天球の場合のみで、地上世界では拮抗する 様々な力によって漸減せずにはいられず、また物体そのものにも停止への 傾向というものがあり、結果的にインペトゥスは減っていき、運動は止む のだと述べています。拮抗する力やインペトゥス漸減への傾向が、もとよ り原理として自然の物体に組み込まれている、というのは興味深い考え方 ですね。また、仮に地上世界で、拮抗する力がまったくない状態があった としても、やはり天球のように一定の速度で回り続けるようにはならない という話も見られます。その場合、むしろインペトゥスが瞬時に全幅的に 働き、運動は速度をもった連続的なものにはならず、瞬時の移動が生じて しまうのではないか、というわけです。これは速度に関する議論で出てく る説で、地上での運動の速度はすべて、動かす力と拮抗する力との相互関 係によって決定されるということが前提になっています。近代の慣性の法 則とはやはり一線を画していることは明らかですが、それでもインペトゥ スが一般的原理として拡張されている点が目を惹きます。 ビュリダンがインペトゥス理論を考える土台は、基本的にはアリストテレ ス思想の枠内にあるようです。運動そのものだけでなくインペトゥスも動 因からもたらされる以上、動因は必ずなくてはならないとされるからで す。ところが一方では、直に接触しないものについてもインペトゥスは伝 えられるとされ、たとえば磁石によって鉄が動くといった遠隔運動が例に 挙げられています(磁石から鉄にインペトゥスが与えられ、それによって 鉄は磁石のほうへと動き出す)。以前にも少し触れましたが、このあたり は若干曖昧で、アリストテレスの枠から逸脱しているだけでなく、理論の 適用範囲をやや拡張しすぎている感じもします。また、インペトゥスは一 種の「性質」とされているわけですが、そうすると、性質をもたらすのは 形相だと考えられるので、これは形相の増減といった古くからの問題系に もつながってくることになり、インペトゥスは容易には漸減できないこと になるのではないか、という話もあります。マイヤーは、そのあたりにつ いてもビュリダンの見解は曖昧であることを指摘しています。 とはいえ、そうした曖昧さこそあれ、力の温存という当時としては比較的 新しいテーマ系を、それなりの整合性をもたせつつ拡張してみせた点にこ そ、ビュリダンの功績があるのだとは言えそうです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの場所論を読む(その7) 今回のところからは異論への反論部分になります。まずは異論一と二への 応答です。異論はそれぞれ次のようなものでした。(一) 「二つの物体 が同じ場所にある」という命題は主語・述語の概念同士が対立していない ので知解可能である。(二)栄光の身体から取り除かれるのは厚みの本性 だけである。ではさっそく本文を見ていきましょう。 # # # 1. Ad primum ergo dicendum, quod dupliciter aliqua propositio potest dici non intelligibilis: uno modo ex parte intelligentis qui deficit intellectu, sicut hec propositio 'in tribus personis diuinis est una essentia', et huiusmodi propositio non oportet quod implicet contradictionem; alio modo ex parte ipsius propositionis. Et hoc dupliciter: uno modo implicat contradictionem absolute, sicut 'ratioale est irrationale', et similia; et huiusmodi nullo miraculo uerificari possunt. Alia uero implicant contradictionem aliquo modo, sicut ista 'mortuus redit ad uitam' : implicat enim contradictionem secundum quod intelligitur redire ad uitam propria uirtute, cum ponatur per hoc quod dicitur 'mortuum' omni uite principio destitutum; et talia possunt uerificari per miraculum, superiori uirtute operante. Et similiter est in proposito: non enim in duobus corporibus in eodem loco positis potest aliqua naturalis causa diuersitatis inueniri, set diuina uirtus potest ea quamuis sint unita in situ in sua distinctione conseruare, et sic miraculose fieri potest quod duo corpora sint in eodem loco. 2. Ad secundum dicendum, quod quicquid sit illa corpulentia que ponitur remoueri a corporibus gloriosis, tamen planum quod corporeitas ab eis numquam remouebitur, et ideo nec causa naturaliter prohibens aliquod eorum simul esse cum alio corpore in eodem loco; set solum miraculose hoc esse poterit quod sint simul cum aliis corporibus in eodem loco. 一.よって第一点に対しては次のように言わなくてはならない。ある命題 について、二重の意味で「知解可能でない」と言うことができる。一つ は、知解する側が洞察力を欠いている場合である。「神は三つの位格をも ち、本質においては一つである」という命題のような場合であり、そのよ うな命題に矛盾が含まれていてはならない。もう一つは、命題そのものの せいであるような場合である。そしてこれには二つの場合がある。一つ は、絶対的な矛盾が含まれている場合である。たとえば「合理的なものは 非合理的である」というような場合である。この場合、いかなる奇跡を もってしてもそれを真にはできない。もう一つは、別様に矛盾を含んでい る場合である。「死せる者が生き返る」というような場合である。その場 合、みずからに固有の力によって生き返ると解される限りにおいて、矛盾 を含むことになる。「死せる者」と言われるものはあらゆる生命原理を 失っていると考えられるからだ。そのような事例は、奇跡によって、つま りより優れた力が働くことで真にされうる。そして懸案の命題においても 同様である。すなわち、同じ場所に置かれた二つの物体には、違いをもた らすなんらかの自然の原因を考えることはできないが、神の力ならば、位 置においては一体であろうと、両者の区別を温存することも可能である。 このように、奇跡によってであれば、同じ場所に二つの物体が在ることも 可能ではある。 二.第二点に対しては次のように言わなくてはならない。栄光の身体から 取り除かれると考えられるその厚みがいかなるものであれ、そこから物体 性は決して取り除かれないということは明らかであり、したがって、そう した身体のなんらかのものが別の物体と同時に同じ場所に存在することを 妨げる自然の原因も取り除かれない。ただ奇跡によってのみ、そうした存 在が、なんらかの物体と同時に同じ場所に存在することも可能になる。 # # # トマスは、場所を規定する原理は物体性そのものにある(正確には、次元 によって規定される質料にあるわけですが)と考えていますが、それはあ くまで自然学の枠内での話です。今回の箇所には奇跡への言及があります が、当然それは自然学とは別の神学的領域の話になります。 例によってここで脱線になりますが(苦笑)、「自然学から神学へ」とい う点で興味深い問題に、たとえば聖体の問題があります。キリスト教の教 義がいう「実体変化」(パンと葡萄酒がキリストの体となる)の問題です ね。聖体(eucharistia)の実体変化(トマスはconversio substantiae と言っています)について、トマスは『神学大全』の第三部問七五で詳述 しています。そこに、聖体の変化を場所の移動(空間移動)との対比で論 じた部分があります(第二項)。聖体の変化は「場所的な運動」によって 起こるのでないとし、理由として次のような論点が挙げています。(1) 実体変化は、一つの場所から他の場所(天から地上)への移動ではない、 (2)場所的な移動は中間点を通らなくてはならないが、実体変化はその ようなものではない、(3)場所の移動では終端が複数の場所になること はありえないが、聖体の変化は同時に複数の場所で生じうる。 さらに同じ問七五の第三項では、聖体においては実体が変化するので、も はや変化前の実体は残らないという話が続いています。パンや葡萄酒はス ペキエス(形象)だけで、中身は(瞬時に)キリストの体になっている、 というわけですね。実体変化はまさに神の力のなせる奇跡の業だとされて います。上の本文にあるように、「パンと葡萄酒がキリストの体になる」 という命題自体の論理(項同士の関係)に絶対的な矛盾はありません。で すから、これは奇跡の対象になりうるということなのでしょう。 続く問七六では、今度は聖体がどのように存在しているかが論じられてい ます。変化前のパンや葡萄酒が場所的・次元的に(dimensivae)規定さ れていたのに対して、変化後の聖体は、それ自体で場所に規定されるので はないものの、やはり次元に内包される形で「実体的に」存在するのだ、 とトマスは述べています(第五項)。これもやはり上の本文にある「物体 性は取り除かれない」という議論と呼応しています。いずれにしても、場 所や次元の話が、実体変化を論じるにあたって持ち出されていることは興 味深い点です。トマスの思想を考える上で、それらがとても重要な要素で あることはやはり間違いなさそうです。 実体変化が教義に具体的に入ってくるのは意外に遅く、12世紀ごろから ですね。当時は聖体をめぐる論争までありました。パンや葡萄酒は変化せ ず、知的な価値が加味されるだけだとするトゥールのベレンガリウスに対 して、後にカンタベリー大司教となるパヴィアのランフランクスは、聖体 においては実体そのものが変化するのだと反論しました。そしてこの実体 変化の議論は、ランフランクスのもとで学んだアンセルムスによって一応 の完成を見ます(聖体論争については、瀬戸一夫氏の一連の著作が実に詳 しく扱っています)。ちなみにトマスは、上述の問七五の第四項で(キリ ストの身体について論じた箇所)、そのアンセルムスによる秘蹟について の著書を引いています。実体変化(transsubstantiatio)の教義はその 後、1215年の第四回ラテラノ公会議で正式に認められたのでした。そう いえば、聖体の祝日の聖務日課を策定したのもトマスなのですね。聖体の 問題は『神学大全』の末尾に近い部分(トマスが執筆をやめる前の部分) のせいか、この問七五、七六前後のトマスの議論などは、どことなくひと きわ熱を帯びたもののようにも感じられます(気のせいでしょうか?)。 次回も異論への反論部分を読んでいきます。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月10日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------