〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.159 2009/11/07 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その13) 前回触れた「付帯的な重さ」という概念は、実は古くからあるらしく、ア リストテレスにまで遡れるようですが、これとインペトゥスが同一視され るのはビュリダンあたりからとされています。オレームの場合、インペ トゥスが生じるには初速が必要で、インペトゥスによってその後の加速が 説明されているのでした。 オレームは異論・批判に対する反論という形で、そのインペトゥスの考え 方を擁護します。一時的な運動がそうした性質(habilitas)の原因にな るとは考えられないという批判に対して、オレームは運動が熱を帯びるこ とを反論として述べます。インペトゥスの考え方の根底に、熱との類推が あることがわかります。オレームもインペトゥスは第二の性質、つまり付 帯的に生じる性質であると考えていて、運動の減速によって減衰し、静止 状態においてはなくなるものの、「水における熱のように」一定の時間は 存続するとしています。インペトゥスのそもそもの起源としては、オレー ムはビュリダンと同様に第一動因を挙げています。 運動の終了と同時にインペトゥスはなくなるわけではなく、一定時間残存 するという議論は、インペトゥスを本来的には永続しうるものと見るビュ リダンの説とは異なります(むしろマルキアの説を踏襲した形です)。と はいえマイヤーによると、オレームがビュリダンから決定的に逸脱するの は、インペトゥスをもたらすのが運動そのものというより加速度であると 見なしていることだといいます。ビュリダンがあくまで運動がインペトゥ スをもたらし、インペトゥスが運動を維持させるとするのに対し、オレー ムでは、インペトゥスが生じさせるのは加速度であり、またインペトゥス を刻印するのも加速度だと考えているのですね。これは重要な変更点で す。 やはりラテン語の『自由討論集(Quodliberta)』(1370年頃)になる と、インペトゥスは熱だけでなく、たとえば磁力のほか、弦や木の振動な どとも類比されて論じられています。重い石と軽い矢で飛距離が異なるこ とも、インペトゥスの残存の違いということで説明されます。面白いの は、フランス語版の『天空論注解』では、インペトゥスという言葉は使わ れていないことで、どうやらフランス語に、対応する単語が見いだせな かったようなのです。余談ながら同書には、「軽いものの方がインペトゥ スを長く残せる」といった、あまり実証的でない見解なども見られ、同書 の成立年代についての議論(円熟期の1370年代ではなく、若書きだった のではという説)もあるようです。 いずれにしても『天空論注解』では、上の類比を通じて、どこかその議論 は汎インペトゥスの様相を呈していく感じです。運動の区分や最大速度に ついて若干の修正がなされた上で、自然の運動や激しい運動のいずれにつ いても、インペトゥスで説明がなされているのですね。インペトゥスは力 (force)もしくは作用(redeur)と訳され、自然の運動と人為的(激し い)運動のどちらでも、運動を補佐する性質であるとされます。こうした 言葉の使い方からして、インペトゥスが一種のエネルギー概念のようなも のと捉えられている印象も抱かせます。ただ、インペトゥスがどのように して加速度から生じ、どのようにして加速度を生じさせるのかについて は、不明瞭な説明しか与えられていないようなのです。 加速度と密接に関係するとされたそのインペトゥスは、一定の速度で動く 天球の説明にはもはや適していないようで、オレームは天球の問題につい てはインペトゥスの文脈では触れようとしません。オレームのインペトゥ スはあくまで地上世界に限定されるわけですね。マイヤーは、この加速度 との関連で考察されている点を重く見、オレームにおけるその新たな特徴 点はニュートン的な力の概念のはるかなる先駆けかもしれないと述べてい ます。とはいえ、近代のエネルギー概念とはまだはるかに大きく隔たって います。そもそも説明自体があまりに不明瞭で、後継の議論や次世代のよ る理論的な発展もどうやら生じなかったようなのです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの場所論を読む(その9) 『ボエティウス「三位一体論」注解』の問四第三項はいよいよ今回で読了 です。残り部分を一挙に見ていきましょう。今回の箇所も引き続き異論へ の反論が展開しています。それぞれ異論は次のようなものでした。「六. 複合的物体には元素が温存されているが、それらは同時に存在しているで はないか。七.形相・質料はもとより、次元もそれ自体では場所をみたさ ないのだから、二つの物体が同じ場所に存在するのを妨げるのは、それら 物体に共通的なものではなく、付帯的なものにすぎない。八.プトレマイ オスの周転円の考え方では、惑星はそれぞれ離心円と交わることになる が、その交わる点においては、その惑星は天球の物体と同じ場所に存在す ることになるはずだ。」では、テキストを見ていきます。 # # # 6. Ad sextum dicendum, quod etsi ponantur elementa in corpore mixto remanere secundum suas formas substantiales, non tamen ponuntur esse plura corpora in actu; alias nullum corpus mixtum esset uere unum, set est unum in actu et multa in potentia. Probabilior tamen uidetur esse opinio Commentatoris in III Celi et mundi, qui hanc opinionem Auicenne improbans dicit elementorum formas in mixto non remanere nec totaliter corrumpi, set fieri ex his unam mediam formam, in quantum suscipiunt magis et minus. Set cum forme substantiales magis et minus suscipere sit absonum, uidetur eius dictum esse intelligendum hoc modo quod forme elementorum susucipiant magis et minus non secudum se set secundum quod manent uirtute in qualitatibus elementaribus quasi in propriis instrumentis; ut sic dicatur quod forme secundum se non remanent, set solum prout sunt uirtute in qualitatibus ex quibus fit una media qualitas. 7. Ad septimum dicendum, quod quamuis dimensiones per se non possent replere locum, tamen corpus naturale ex hoc quod eius materia intelligitur subiecta dimensionibus habet quod repleat locum. 8. Ad octauum dicendum, quod opinio Ptolomei de epiciclis et excentricis non uidetur consonare principiis natralibus que Aristoteles ponit, et ideo illa opinio sectatoribus Aristotilis non placet. Si tamen sustineatur, nulla necessitas erit quod duo corpora sint in eodem loco; quia secundum tenetes illam opinionem triplex substantia distinguitur in celestibus corporibus: scilicet substantia stellarum, que est luminosa, et substantia sperarum, que est diaphana, et solida, non diuisibilis, et substatia alia que est inter speras, que est diuisibilis et inspissabilis ad modum aeris, quamuis sit incorruptibilis. Et per hanc substantiam defenduntur ne opprteat eos ponere substantiam sperarum diuidi aut duo corpora esse in eodem loco. 六.第六点については次のように述べなくてはならない。たとえ元素が、 複合的な物体においてみずからの実体的形相に即して存続すると考えられ るとしても、複数の物体が現実態としてあるとは考えられない。さもない と、いかなる複合的な物体も真に一つではないことになる。けれどもそれ は現実態としては一つだが潜在態としては複数なのである。しかるに、注 解者(アヴェロエス)が『天空・世界論』三巻で示す見解のほうが蓋然性 が高いと思われる。そこでは、アヴィセンナのこの見解をありえないとし て、複合体における元素の形相は存続するのでもなく、また完全に破壊さ れるのでもなく、大小を受け入れる限りにおいて、中間的な一つの形相が もたらされるのだと述べている。とはいえ、 実体的な形相には大小を受 け入れることはそぐわない以上、その文言は次のように理解されるべきも のであると思われる。つまり、元素の形相が大小を受け入れるのは、みず からに即してではなく、あたかも固有の道具におけるがごとく、元素の性 質のうちに潜在態として存続する限りにおいてなのである。したがって形 相はみずからに即してではなく、性質において潜在態である限りにおいて のみ存続するのであり、そこから中間的な性質がもたらされる、と言われ るのである。 七.第七点については次のように述べなくてはならない。次元はそれ自体 では場所を占めることはできないが、自然の物体は、その質料が次元に服 従していると理解され、それゆえに場所を占めるのである。 八.第八点については次のように述べなくてはならない。周転円や離心円 についてのプトレマイオスの見解は、アリストテレスが提示する自然の原 理には馴染まないように思われ、したがってその見解はアリストテレスの 学派には受け入れられにくい。しかしながら仮にそれが支持されても、二 つの物体が同じ場所にあることはなんら必然とはされないだろう。という のも、その見解を採択する人々によれば、天体には三つの実体が区別され ることになるからである。すなわち光を発する星の実体、透明で頑強な分 割できない天球の実体、そして天球の間にあって分割でき、空気のように 濃縮できるものの、滅することはないもう一つの実体である。そしてこの 実体ゆえに、天球の実体は分割されるとか、二つの物体が同じ場所に在る といったことを彼らが考える必要はないのである。 # # # 「複合的な物体において元素の形相が温存される」という説は、長倉訳の 注によればアヴィセンナの『生成消滅論注解』第一巻に出てくるといい、 アヴェロエスの『天空論注解』(第三巻第六七注解)はそれを批判し、複 合体においては中間的形相ができるのだと論じているといいます。それら のテキストはあいにく確認できていないのですが、ちょっとこのあたりは 興味深い問題ですね。形相のあり方についての諸説、とりわけ「形相の増 加」問題などは中世を通じて様々な諸説が飛び交うテーマです。こうした 点についても、そのうち復習・整理したいところです。 天体の三つの実体については、トマスの『形而上学注解』第一二巻第一〇 講に(天球の種類について論じた箇所です)、異説として、ほぼ同じよう な表現で次のように記されています。「空気が他の運動体によって分割さ れ、濃縮したり薄くなったりするように、周転円の終端位置は分割でき、 薄くでき、圧縮できる」。天球相互の間に、空気のように柔軟な実体があ るという説ですが、本文にもあるように、トマスは必ずしも支持していな い見解です。ですが、となると逆にトマスの場合の天球の末端部の考え方 も改めて気になってきます。というか、トマスにおいても天球構造の全体 など、自然学的な見識全般を整理しまとめておかなくてはならないと思わ れます。 そんなわけで、トマスやその周辺についてはまだまだいろいろやるべき作 業がありそうです(当たり前といえば当たり前ですが)。場所論そのもの についても、中世思想のより広い文脈に開いていかなくてはならないと考 えられます。以前、トマスの場合、場所というものが座標系のような体系 に位置づけられるのではなく、物体が問題になるときにその都度立ち上が るもののようだ、と言いましたが、どうやらそういう規定はトマスだけの ものではないらしいのですね。また、非物質的な存在とされる天使などが 占める場所という話になると、これはもう論者の数だけ異論のある大問題 になっています。 さしあたり、トマスの場所論については今回で一区切りにしたいと思いま す。問四には第四項もありますが、これは場所の相違と物体の数的な相違 の関係性(同一性)について論じている箇所で、現時点ではさほど興味深 い論点があるわけでもなさそうですので、ここでは割愛いたします。もち ろんトマスは一種のメルクマールとして重要ですし、また追々立ち戻らな くてはならないでしょうけれど、今はとりあえず先に進みたいと思いま す。 次回からは少し趣旨替えという感じで、ドゥンス・スコトゥスの天使論を 扱ってみたいと思います。スコトゥスはその独自の個体化論が有名です が、その天使論は個体化論がらみで出てくるものです。またゆっくりと読 んでいきたいと思います。またお付き合いいただければ幸いです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月21日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------