〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.162 2009/12/19 *年末のご挨拶 早いもので今年ももう年末です。年内は本号が最後になります。今年もお 付き合いいただき誠にありがとうございました。年末年始は例によってお 休みとさせていただき、年明けは1月9日からの発行といたします。来年 もどうぞよろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その16) さて、長らくマイヤー本をもとにインペトゥス理論をめぐってきました が、最後にマイヤーは15・16世紀の状況を概括しています。長くなるの でここで詳しく扱うことはしませんが、基本的には活版印刷誕生後も16 世紀にいたるまでビュリダンなどの書が長く命脈を保つことになり(スコ ラ学の世界では、公式な理論にまで昇格します)、その中からまた別の可 能性が議論されることになっていくという流れです。インペトゥス理論が 持っていた反アリストテレス的なスタンスは薄れ、むしろそれをアリスト テレス的な議論の中に再度回収しようという動きが強まっていき、かくし て16世紀のスコラ学に正式に取り込まれることになるようです。 一方でそのインペトゥス理論の枠を徐々に打ち破る形で(ベネデッティや ガリレイ)、運動は外的・内的な力がなければおのずと保持されるとい う、後の慣性の法則につながる考え方も芽生えいくようです。たとえばガ リレイは、傾斜のある丘を球が転がる現象を考察し、傾斜がない直線的な 丘ならば球は動かないはずだと考えます。しかしながら地表(地球)はな だらかな弧を描いているので、球にはたえず運動への傾向が宿るというの ですね。これなど、従来のインペトゥスの考え方を踏襲しつつも、実は運 動には停止する契機がないかもしれないという新しい次元の思考を開いて いて、14世紀には考えられなかった見識だとマイヤーは述べています。 ガリレイによってその後、インペトゥスの考え方は刷新され、運動エネル ギーの考え方が開かれていくといいます。 かくして、思想史的にインペトゥス理論の一定の重要性を指摘しつつマイ ヤー本の議論は幕を閉じます。インペトゥスから慣性の法則へという流れ も興味深い問題領域ですが、これは中世以上に、様々な著者の多種多様な テキストの突き合わせが必要になる研究領域で、とうてい一筋縄ではいき そうにないシロモノでしょう。個人的にはどういった研究がなされている のかも現時点では見えていませんが、機会があればぜひまとまった研究を 読んでみたいところです。 * * * さて、こんなわけでインペトゥス理論をざっと俯瞰してきましたが、最後 に補足として別様の課題を掲げておきたいと思います。最初のころに、イ ンペトゥスに近い考え方を示唆したとされるピロポノスを取り上げまし た。ピロポノスは著書『世界の始まりについて』で、物体に宿る力といっ た考え方を天空の動きにも適用していたとされています。実際にその箇所 を眺めてみると(同書の一巻一二)こんな感じになっています。「月や太 陽、その他の星々に、それらを創った神が、運動する力を吹き込んだ可能 性はないだろうか。重いものや軽いものに運動への傾向を与えたように、 またすべての動物に、内在する魂から発する運動を与えたように (……)」。後の中世のインペトゥス理論は、天体や物体の運動の理論と して展開していき、動物の運動は霊魂論として別個で展開していくわけで すが、ピロポノスではそれらが垣根なしに視野に収まっていた、というこ となのでしょうか。 これに関連して(?)、もとのアリストテレスにもちょっと興味深い一節 があります。『動物発生論』二巻一章(734b9-15)です。「他方が一方 を動かし、それがまた別のものを動かし、まるで、驚くべきものの最たる 自動人形(オートマトン)のようであることも可能である。というのも、 静止している(自動人形の)部分は、なんらかの潜在力を持ち、その最初 の部分を外部の何かが動かすと、近接する部分がただちに現勢化するから である。かくしてその自動人形にあっては、その時点にどこにも触れてい なくても、以前に触れていれば、それによってなんらかの形で動くのだ が、それと同様に種子が生ずるところは(……)」。これは種子に関連す る話で出てくる一節ですが、自動人形(機械仕掛け)がパラレルに引き合 いに出されているのが意外な感じです。しかもそこに潜在力が保持されて いると考えているようで、このあたり、なんとも興味深いですね。ここで もまた、動物と物体の両方に関わる潜在力の考え方があったかに見えま す。古代において「力」というのは案外一元的に考えられていたのかもし れません。 ですが中世にいたると、主としてキリスト教の影響なのか、自然学的な力 と神学的・形而上学的な力ははっきりと別の道へと分かれていく印象を受 けます。もちろん両者が錯綜する部分もあって、前にも触れた民間信仰的 な聖遺物の治癒力などはそれらの混淆的なものと考えられるかもしれませ んし、一方では魔術的思考などもそうした錯綜の発現と見なすことができ そうです。とすると、そのあたりも視野に入れた、力一般についてのもっ と包括的な整理が必要になってくる気もします。インペトゥス理論よりも はるかに巨視的に、物体に宿る力という考え方を歴史的に位置づけると いった作業ですね。おそらくそれには、生命付与・霊魂論などの問題も絡 んでくるでしょうし、かなり広範な領域を横断するような作業が必要にな るでしょう。そんなわけで、これは非力な一個人がただちに取りかかれる ような作業では到底ありません。ですが少しずつ足固めをしつつ、そうい う領域にたとえわずかでも接近していけたらなあ、などと妄想する今日こ の頃です(笑)。 (了) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの天使論を読む(その3) 今回からいよいよ本論ですが、ここでも自説を展開する前に他者の見解を 紹介し、それに反駁する形を取っています。さっそく見ていきましょう。 # # # AD QUESTIONEM Opinio aliorum Qui dicunt ad praecedentes questiones de individuatione, principium individuationis esse quantitam vel materiam, dicunt secundum hoc consequenter, ad hanc quaestionem negative, quod scilicet non possunt esse plures angeli in eadem specie, quia non possunt in angelis inveniri illa principia talis "differentiae individualis" speciei; et habent dicere quod non tantum est hoc impossibile impossibilitate intrinseca sed etiam impossibilitate extrinseca, quia simpliciter incompossibile, - ita quod isti naturae non potest competere distinctio individualis, ex quo sibi repugnat illud quod praecise potest esse principium talis distinctionis, sicut incompossibile esset sub animali plures esse species si repugnaret animali alia et alia actualitas per quas distinguerentur species. Fundamenta autem istius opinionis improbata sunt prius, in quaestionibus praecedentibus. Opinio propria Tenenda est igitur conclusio simpliciter opposita, quod videlicet simpliciter est possibile plures angelos esse in eadem specie. Quod probatur: Primo, quia omnis quiditas - quantum est ex se - est communicabilis, etiam quiditas divina; nula autem est communicabilis in identitate numerali, nisi sit infinita; igitur quaelibet alia est communicabilis, et hoc cum distinctione numerali, - et ita propositum. Quod autem omnis quiditas sit communicabilis, patet, quia hoc sibi non repugnat ex perfectione, cum hoc quiditati divinae conveniat, - nec ex imperfectione, cum hoc conveniat generabilibus et corruptibilibus; quare etc. 問いへの返答 他者の見解 先の個体化問題に対して、個体化の原理は量もしくは質料であると述べて いた人々は、その結果として、目下の問いに対しては否定的に述べること になる。つまり、同一の種に複数の天使はありえない、なぜなら天使にお いては、かような種の「個体的差異」の原理が見いだせないからだ、とな る。また彼らは、それがありえないのは内在的な不可能性によるだけでな く、外在的な不可能性にもよる、なぜなら単純にありえないからである、 と言うことになる。つまり天使の本性は個体の区別に適合しえず、厳密に そうした区別の原理でありうるものをみずから斥けるのである。たとえば 種を分ける別々の現実性を動物が斥ければ、動物において種が複数あるこ とがありえなくなるのと同様である。 しかしながら先の各問において、すでにこうした見解の根拠は論駁されて いる。 みずからの見解 したがって、まったく逆の結論を支持しなければならない。すなわち同一 の種に複数の天使がいることはまったくもって可能である。 論拠を以下に示す: まず、すべての「何性」は、そのものとして見る限り共約可能なものであ り、神の何性もそうである。しかしながら、無限でない限りいかなる何性 も数的に同一のものにおいて共約可能とはならない。したがって、それ以 外の任意の何性は、数的な区別をともなってのみ共約可能となる。かくし てこの命題が得られる。すべての何性が共約可能だということが明らかな のは、共約可能性が完全性と矛盾せず(神の何性に適合するからだ)、ま た不完全性とも矛盾しないからだ(生成・消滅可能なものの何性にも適合 するからだ)。なぜなら……以下略。 # # # 今回の箇所では、今読んでいる問七よりも前の問いの中身が絡んできてい ます。そんなわけで、前回に引き続きそれらの問いの内容をまずは簡単に 振り返っておきたいと思います。 前回見たように、問一では質料的実体そのものが個別をなすかという問い が投げかけられ、スコトゥスはそれに否と答えたのでした。ではいったい 何が個体化の原理なのでしょうか。これについて問二から問五では四つの 仮説を提示し、それらに批判を加えて斥けていきます。問二で取り上げら れるのは実体の非分割性と他のものへの非同一性です。スコトゥスはそう した「非」で表される否定性を斥け、実体が個体であるのは実体に内在す る肯定性によるのでなければならないとしています。分割されないから個 物としてある、のではなく、個物としてあるから分割されないのだ、とい うわけですね。 問三では、現実に存在することが個体化を導くという説が斥けられます。 現実態としての存在は究極の現実態ではあるけれども、論理学的な範疇の ほうが先行するというのがその論拠です。範疇としての「石」があるから こそ個別の石もありえる、というふうに言うことはできますが、現実の存 在があるからこそ個別の石もありえる、とは言えないということでしょう か。 今回の本文で出てきた、個体化の原理を量と質料に求める立場というのが 問四と問五で検討されています。まず量については、離散的な量(数)と 連続的な量(大きさ)とに議論が分かれます。離散的な量の説では、個別 の石があるのは石が複数あるからだと言い、連続的な量の説では、空間に 占める個別の大きさこそが個別の石を成立させると言うわけですが、スコ トゥスはそうした議論を、それぞれ偶有によって個体が成立することに なってしまうとして一蹴します(実際にはこの問四は全体のかなりの長さ を占め、かなり微細な議論が展開されていくのですが、さしあたりここで は立ち入らないことにします)。 質料を個体化の原理とする説は、同じ本性(形相)をもった石が二つ区別 されるのは質料によって区別されるからだという立場ですが、スコトゥス は、たとえば水から火が生じ、次に火から水が生じる場合(こうした元素 の転換は、もともとアリストテレスから来る考え方です)、先の水と後の 水は質料としては同じ水であり、数的に異なるものとは見なせないとし て、質料を個体化の原理とするのは無理だとしています。質料が個体の成 立原理ならば、そもそも破壊されたものの同じ素材(質料)を用いて別の ものが作られた場合に質料(素材)が同一であり続けるということはあり えない、というわけですね。質料を個体化の原理とするのはなかなか難し く、たとえば前に見たようにトマスも、限定された質料といった概念を導 入せざるを得なかったのでした。スコトゥスのこの議論での質料は、やは り限定されていない質料ということになるようです。 こうして諸説を斥けた後に、いよいよ問六でスコトゥスの基本的な考えが 示されるのですが、そのあたりは目下の問七の自説と合わせて、年明け後 の次回に改めて見ていきたいと思います。では皆様、よいお年をお迎えく ださい。 *本マガジンは隔週の発行ですが、年末年始はお休みといたします。次号 は01月09日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------