〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.164 2010/01/23 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その2) 前回は胚は生きているかどうかという問題をめぐって、ストア派とプラト ンとが対立しているという話を取り上げましたが、胚をめぐる争点はそれ だけではありません。というわけで今回はこれまた大きな争点をなしてい たという、胚の性差、つまり男女の分化について、前回同様『胚 - 形成と 生命活動』所収の論文をもとに見取り図をまとめていくことにします。取 り上げるのはピエール=マリ・モレルという人の論文「胚をめぐってのア リストテレスとデモクリトスの対立」です。 胚の性差がいかに生じるのかについては、古代から大きな争点になってい たといいます。アリストテレスが異論として伝えているところによれば (『動物生成論』四巻の冒頭 763b16 - 764a11)、アナクサゴラスそ の他の自然学者は性差の分化は種子の段階で決まっているとしています (種子はオスからのみ供されます)。エンペドクレスの考えでは、分化は 母胎内で起こり、胎内の寒暖の差によって性別が決まるとされています (種子はオスからのみ?)。温度が高ければ男に、低ければ女になるとい うのですね。デモクリトスになると、やはり分化は母胎内で起こり、両性 双方の種子(オスもメスも種子を放出するとされています)のいずれが優 勢になるかによって決まると考えています。 モレル論文によれば、このデモクリトスこそが、アリストテレスが自説を 唱える際に仮想敵と見なしていた人物だといいます。仮想的としての批判 は、敬意の表れでもあったとも記されています。デモクリトスの思想は文 書の形では残っておらず、他の人々の証言から再構築するしかないわけで すが、その一つがアリストテレスの証言です。全体的には、アリストテレ スによるデモクリトスへの批判点は、動物の形成を機械論的に捉えている こと(目的因なしに)と、胚の状態の動物がもつ「可能態」(潜勢態)を 考慮に入れていないことだといいます。 個々の具体的な議論を見ると、まずデモクリトスは種子が体のすべての部 分に由来し、いわば体の主要部位のミクロパーツをその中に秘めていると 考えていたようです(後世のアエティウスのコメント)。そうして親の本 質を子はすべて受け継ぐとしていました。アリストテレスはまずこれに異 を唱え、種子は親の本性には関わらない「残滓」でしかないと主張しま す。血液が特殊な形で熱せられて生じたものだというわけで、体のパーツ が現実態として入っているのではなく、可能態として含まれているとして いるのですね(これは後世の別文書によるものですが、それについては今 後に)。また、種子はオスの側からのみもたらされるとしています。「形 相と運動の原理はオスから、身体・物質性はメスから」という有名な一節 は、まさにこの点に関係しています。 そんなわけで、アリストテレスにおいては、性差が両性の種子の優劣で決 まるというのはそもそもありえないことになります。デモクリトスの場 合、種子は体の全体が入っているので、男女双方の種子の間に競合があ り、どちらが優勢かで性別が決まるわけですが、するとその競合は、他の 共通部分(手とか)などの様々な性質の発現にも適用されなくてはならな いことになります。ですが、するとたとえば顔など部分的には父親似、部 分的には母親似などと混在する場合、部分別に優劣が異なるという妙な話 になってしまいます。 二つの種子を認めないアリストテレスの説明では、性別はオスの種子がど れほどの熱の発現能力をもっているかで決まるとされます。オスの種子が 熱を能動的な原理として持ち、メスがもたらす物質の受動的な冷たさがそ れに抵抗し、両者がせめぎ合うというのです。オスの原理が強力であれば 物質を取り込むことができ(よってオスになります)、そうでなければオ スの側が物質の側へと変成させられます(メスになります)(『動物生成 論』四巻766b15-16)。作用する力とそれを抑制する力のパワーバラン スで性別が決定されるという図式です。 アリストテレスの考えでは、種子は力(気息=形相)を原理として内部に もっており、胚の全般的形成はその内的運動として実現します。デモクリ トスは、胚が母親からの栄養摂取するのにあわせて、体の各部が母親をモ デルに形成されるとし(モレルも指摘するように、ちょっとこのあたりが 曖昧で、上の種子の競合説とうまくかみ合わない気もします)、いわば外 部の要因によって発達が生じると考えているらしいのですが、アリストテ レスの場合には、種子が胎内で物質的抵抗を受けながら、みずから可能態 を現勢化させるプロセスだと考えているようです。この違いは重要で、ア リストテレスのこの「漸進的プロセス」は、後世においても重要な論点と なっていくようです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの天使論を読む(その5) 「個体化原理」の問七を読んでいますが、今回は都合によりちょっと短め です。では、さっそく見ていきましょう。 # # # Quod si dicas quod animae habent inclinationem ad diversa corpora et ita habent aptitudinem perficiendi materiam, et ideo per diversitas habitudines distinguuntur, - contra: Ista inclinatio non est entitas absoluta, quia non potest aliquid inclinari ad se; igitur praesupponit aliquam entitatem absolutam et distinctam, et ita in illo priore distinguitur haec anima ab illa. Ergo animae sine huiusmodi habitudinibus, ut sine formali ratione distinguendi, distinguuntur. Confirmatur, quia ista aptitudo non potest esse de formali ratione animae, quia est respectus; respectus autem non est de formali ratione alicuius absoluti. Item, quia est haec anima, ideo habet hanc inclinationem, et non e converso (quia forma est finis materiae, et non e converso); igitur haec inclinatio non est ratio essendi hanc animam, sed praesupponit eam. 仮にあなたが、魂には様々な身体へと向かう性向があり、よって質料を完 成させる素質をもち、したがって習性の違いによって区別されるのだと言 うのであれば、次のように反論しよう。その性向は絶対的な実在性をなし てはいない。なぜなら、いかなるものもおのれ自身に向かうことはできな いからである。したがってその性向はなんらかの絶対的で異なった実在を 前提するのであり、性向に先立つものによってこの魂はあの魂から区別さ れるのである。よって魂はそのような習性によらずに、つまり理性的形相 によらずに区別されるのである。 そのことは裏付けられる。なぜならその素質は魂の形相的概念に属するも のではありえないからである。それは(他との)関係に属するものだが、 関係はなんらかの絶対的なものの形相的概念に属してはいない。 また、「この魂」があればこそそうした性向があるのであって、その逆で はない(なぜなら、形相は質料にとっての目的なのであってその逆ではな いからだ)。したがって、そうした性向は「この魂」を存在させる理由で はなく、その存在を前提としているのである。 # # # 前回も見ましたが、スコトゥスは個体化の原理が実在性にあると考えてい るのでした。問六の末尾でスコトゥスはこう述べています。「個別の実在 は、 <本質>として見る限りにおいては質料でも形相でも両者の複合体 でもない。しかしそれは、質料でも形相でも複合体でもあるような存在の 最終的な現実をなしている。したがって、共通なもので限定可能なものは なんであれ(ただしそれが一つの事物である限りにおいてだが)、形相的 に異なった複数の現実を区別できる。その場合の<これ>と<それ>は形 相的に異なり、<これ>は形相的に個別の実在、<それ>は形相的に本質 の実在になる」。 その少し前の箇所にはこうあります。「この個の現実は種の現実に類似し ている。なぜならそれは、可能態・潜在態のごとくである「種の現実」を 決定するものであり、その現実態のごとくであるからだ。一方でその個の 現実は種の現実とは異なる。なぜならそれは、形相が追加されるのでは まったくないが、厳密に形相の最終的な発現形をなしているからだ」。 実在性というのは可能態の最終的な現勢化とも言えますが、一方では質料 が形相によって最終的に限定された状態とも言えます。上に続く箇所でス コトゥスは、アリストテレスでは形相は何性の意味で使われ、質料は何性 が限定し狭まったものを言うとした後、こう述べます。「したがって、す べての種の現実は形相的な存在として成立し、個の現実は厳密に質料的な 存在として成立する。そこから<種の現実は形相的で、個の現実は質料的 だ>という論理がもたらされる。なぜなら後者は主語になりうるものとし て成立し、前者は厳密に述語になるうるものとして成立するからである。 形式的な述語は形相としての定義を、主語は質料としての定義を持つ」。 スコトゥスは質料が形相によって限定されることを、主語が述語によって 限定されるという命題の問題にスライドさせています。個体はもとより限 定されたものなので主語の位置を取ることができ、当然ながら限定する特 質を述語に取って命題の形で表すことができます。すると個体は質料であ るかのごとくに見なすことができ、また限定する特質は形相に属すると考 えることができるわけですね。で、これが重要なポイントですが、そうな ると物質性がないとされる天使のような存在も「質料的」であると見なせ るようになります(私たちから見るとちょっとすり替え技のような感じで すが(笑))。底本としている羅仏対訳本の注にもありますが、アリスト テレスの質料形相論を下敷きにしているとはいえ、これはもはやスコトゥ スのまったく独自の見解になっています。 このように論理学を絡めるあたり、いかにも中世らしい議論と言えそうで すね。背景にはいわゆる普遍論争の実在論の考え方があるわけです。スコ トゥスは実在論の立場から、論理学を経由させる形で非物質的存在の個体 論を提示している、ということになります。そのあたりも、もう少し詳し くまとめてみたいところです。とはいえ前回と今回は問六の話で少し脱線 が過ぎたきらいもありますので、次回からは目下読んでいる問七に戻って 議論を追っていきたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月06日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------