〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.166 2010/02/20 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その4) 前回触れた「ガウロス宛て書簡」という文献ですが、これは重要でもあ り、ちょっと面白いので、内容を少しばかり詳しく取り上げておきたいと 思います(とはいっても簡素な要約にしかなりませんが)。同文書はプロ ローグと三部から成ります。それぞれの部分はいくつかの章(というか 節)から成ります。とりあえずここでは、枝葉の議論をそぎ落として全体 の流れだけ追っておきましょう。 プロローグでは、まず一章で、多くの学識者が胚を植物的なものと見なし ていることが紹介されます。次に、胚が潜勢態であると言われる際の「潜 勢態」の意味を二つ区別しています。一つは、すでに魂を受け取りハビ トゥスはあるけれど活性化していない状態という意味での潜勢態、もう一 つは、魂をまだ持っていないけれども魂を受け取れる状態にあるという意 味での潜勢態です。著者は、前者の意味であるならそれはすでにして完成 した動物と見なせるが、後者の意味であればまだ動物になっていないとし ます。 続く二章の冒頭では、この後者の潜勢態の意味でなら、魂はどこかの段階 で付与(注入)されなくてはならならず、動物の特徴である自律的運動か ら判断すれば、それは出産の後ということになると論じます(プラトンの 教義の解釈だと述べていますね)。続いて、潜勢態のもう一つの意味を採 用すると魂の付与の次期は特定が難しくなってしまう、としています。ヌ メニオスその他の識者の説(精子の段階で魂が付与されるというもの) や、ヒポクラテスなどの説(胚の形成の初期段階で付与されるというも の)がその関連で紹介されています。さらには交尾の際に魂が引き寄せら れるという説も紹介されていますが、著者はこれは寓話にすぎないと一蹴 しています。 プロローグはこんな感じで、異論並記という趣きです。次いでいよいよ第 一部の本論へと入るわけですが、その第一部(三章から一二章と、結構長 いです)は大きく前半と後半に分かれます。まず前半は、要所要所で権威 としてプラトンを引き合いに出しながら論証がなされ、基本的には胚が現 実態(動物としての)ではないという議論が展開します。まず植物的・動 物的であるとはどういことかを、食物摂取と呼吸の有無から論じた後、そ れらから鑑みて胚は植物的であるというテーゼが出されます(三章)。植 物も生物に属しはするものの、自律的運動をもたらす魂があってこそ動物 である、というプラトンの考え方を示した後、かくして胚はすでにして生 物ではあるものの、自律的運動ができない以上、プラトンもまたそれを植 物的と捉えている、と著者は述べます(四章)。 胚が生物であることは、胎内での身震いなどからも推測されるといい、出 産に際しては母親による押し出しにみずから協力するとも述べています (五章)。胚が母親と欲求を共有しているとか、想像的な魂を共有してい るとかいう通説も紹介していますが、著者は、すでに注入された魂によっ て胚の身体的形成がなされていくという説は誤謬だとしてしりぞけ(六 章)、また胎内の動きが意識外の動きであることを力説し(七章)、母親 が妊娠中に特定のものを欲したり、つわりで気分を悪くするのは、胚その ものの欲求や不快感のせいではないとし、ここでもプラトンを引いて、母 胎の独立性を強調しています(八章)。九章でも、プラトンによる種子や 胚、生殖についての考え方がまとめられています。 「胚は植物的である」というテーゼの論証は、ここまではプラトンに乗っ かった議論でしたが、その後は観察と類比による論証になります。一〇章 では、植物の接ぎ木との類比で胎内での胚の成長が説明されます。胚は体 の各部を順次作っていくとされています(「漸進説」ですね)。ここで船 の比喩も出され、出産前の胚の成長を進水前の船の製造に、また出産後の 自律的運動を進水後の船頭による航行になぞらえています。そしてこの 「船頭」は、出産に際して、世界を司る「原因」によって与えられると説 明されています。 船頭(つまり魂)の付与は、プロメテウス劇で描かれるような強制注入す るようなものではなく、むしろヘブライ人の聖書に言うような「息吹」に 近く、与える側と受け取る側が協調し合うとても自然な営為なのだと著者 は言います(一一章)。目がものを見るのと同じようなもの、ともされて います(ここで視覚論が少し差し挟まれます)。魂の離脱としての死も同 様で、身体が変節すれば魂は自然に離れると説明されています。魂の付与 はさらに、隣接する二本の弦の一方を鳴らすと、もう一方の弦も振動を始 めるのに似ている、とも言われます。二つの弦のそれぞれが魂と身体だと いうわけです。 この、しかるべき準備が整った身体に魂がおのずと付与されるという説の 補強として、著者は知性もまた身体の準備が整わなくては到来しないとい う説(プラトンとアリストテレスの説とされます)を引き合いに出します (一二章)。こうして最後に、胚が植物的な存在であることを再び強調し つつ第一部は終了します。この後、第二部では胚が潜勢態ではないこと、 第三部では胚がたとえ現勢態であったとしても、魂の付与は出産時に行わ れるという話が改めて議論されるのですが、ちょっと長くなりそうですの で、そのあたりはまた次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの天使論を読む(その7) 今回の箇所はスコトゥスの自説の結論部分と、先の異論への反論の冒頭で す。異論というのは、今読んでいる問七の冒頭に掲げられていたもので す。ではさっそく見ていきましょう。 # # # Dico igitur quod omnis natura quae non est de se actus purus, potest - secundum illam realitatem secundum quam est natura - esse potentialis ad realitatem illam qua est haec natura, et per consequens potest esse "haec"; et sicut de se non includit aliquam entitatem quasi singularem, ita non repugnant sibi quotcumque tales entitates, et ita potest in quotcumque talibus inveniri. In eo tamen quod est ex se necesse-esse, est determinatio in natura ad esse "hoc", quia quidquid potest esse in natura, est ibi - ita quod determinatio non potest esse per aliquid extrinsecum ad singularitatem, si possibilitas sit in natura de se ad infinitatem; secus est in omnia natura possibili, ubi potest cadere multiplicatio. AD ARGUMENTA PRINCIPALIA Ad primum argumentum dico quod licet Philosophus intelligat ibi per se de materia (hoc est de entitate contrahente per se quiditatem), tamen applicando ad habens materiam quae est altera pars compositi, et non habens, - concedo intentionem Philosophi fuisse quod omne non habens materiam pro aliqua natura componente, est idem suo quod-quid-est primo, quia omne tale quod-quid-est ponit per se "hoc"; et ratio ad hoc est, quia omnia tale quod non habete materiam partem sui, posuit formaliter necessarium. Quidquid autem potest esse in natura formaliter necessaria, est in ea, - igitur quidlibet quod potest habere illam quiditatem, habet eam, quia non est ibi potentia distans ad actu; unde omnem possibilitatem quam posuit in tali natura ad supposita, posuit esse in actu. Si autem esset ibi possibilitas ad plura individua, esset possibilitas ad infinita, - igitur essent infinita in actu; quare, cum infinitas sit impossibilis in aliqua natura, igitur et in "hac natura" (secundum eum) est impossibilitas ad infinitatem. Ideo est de se "haec", secundum ipsum. したがってこう言おう。もとより純粋な現実態でないすべての本性は、− −それが本性であることの拠り所である現実に即して−−、「この」本性で ある根拠をなす現実に対して潜勢態なのであり、結果的に「このもの」と なるのである。また、単一であるかのようななんらかの実在を、本性がも とから含んでるわけではないのと同様に、任意の数のそうした実在がその 本性に適合しないわけでもなく、その本性は任意の数のそうした実在の中 にありうるのである。一方、もとより「必然的存在」であるものにおいて は、本性において「このもの」であることが決定づけられている。なぜな らそういう存在の場合、本性において存在しうるものはすべてそこに現に あるからである。そのようなわけで、本性にもとより無限に向かう可能性 があるとする場合でも、何か外部のものによって単一へと限定されること はありえない。複数性が生じうる、あらゆる可能な本性においては別様な のである。 主な議論への反論 最初の議論に対してはこう述べよう。哲学者が同書において意図していた のは、質料そのもの(つまりは何性を限定する実在性だ)だった。しかし ながら、複合体の他方の部分である質料をもつものと、質料をもたないも のとにそれを当てはめた場合、哲学者の見解が、複合体を作るなんらかの 本性としての質料をもたないものは、まずもってその「何性」に一致する というものだったことは、私も認めるところである。なぜなら哲学者は、 そうした「何性」はすべて、もとより「これ」であると見なしているから だ。その理由は、みずからの一部として質料をもたないようなものすべて を、彼は形相的に必然的なものと見なしたからである。しかるに、本性に おいて形相的に必然でありうるものは、実際にそこにある。よってそのよ うな何性を持ちうるものは、それを実際に持っているのである。なぜな ら、そこでは潜勢態が現実態から離れてはいないからだ。それゆえ、その ような本性にあるとされた代示(?)への可能性は、すべて現実態にある と彼は考えたのである。そこに複数の個体の可能性があったならば、可能 性は無限にあっただろう。そして無限に現実態にあっただろう。しかる に、任意の本性には無限はありえないのだから、結果的に「この本性」 (そのものとしての)にも無限はありえないことになる。かくしてそれ (本性)は、そのものとして、もとより「これ(このもの)」となる。 # # # 今回の箇所の前半にあたる自説の結論部分では、純粋な現実態(それはつ まり神ですね)以外のもの、つまり被造物の本性は現実に対して潜勢態の 位置をしめ、現に実在する「このもの」がその現実態をなしているという テーゼがまとめられています。質料が潜勢態で形相がそれを限定すること によって現実態としての複合体ができるというのが従来のスコラ的な考え 方だったはずですから、本性(形相)が潜勢態で、実在が現実態というス コトゥスのこの考え方は、ちょっと意外な感じもします。ある意味ひっく り返しているとも言えそうですね。前にもちょっと触れたように、これは 潜勢態と現実態を「相対的に」位置づけようとするスコトゥスならでは考 え方です。 また、見方を変えると、被造物の本性はもとより偶有的とされるため、複 数の現実態となることが可能だということになります。本性のあり方か ら、すでにして複数性に開かれているわけです。逆に純粋な現実態の場合 には、唯一必然的な存在とされるので、複数へと開かれてはいないことに なります。こうして神は一つだということになるのですね。 この質料形相論はなにやら独創的なものですが、果たしてこれがスコトゥ スの完全オリジナルなのか、それとも何か下敷きにしている議論があるの か気になるところです。最近刊行された八木雄二氏(スコトゥスの研究者 ですね)の『天使はなぜ堕落するのか』(春秋社、2009)によると、ス コトゥスに影響を与えたらしい人物として、同じフランシスコ会の神学者 ペトルス・ヨハネス・オリヴィが挙げられています。オリヴィの形相や質 料の考え方は特殊だったようですから(たとえば「知的魂が身体の形相な のではない」みたいな文言が、本人の死後に問題視されたようです。やが ては異端の扱いを受けることになります)、そこからの影響もあったのか もしれません。このあたりは近々、少し確認してみたいと思っています。 さて、後半は問七の冒頭で提示された議論への反論です。復習しておく と、その一つめは、『形而上学』七巻でアリストテレスが言う「質料がな いものの場合、何性は、何性が定義するもの(本質)に一致する」を天使 に適用し、天使には種(何性)の区別しかなく個の区別はない、と主張す る内容でした。これに対する反論をスコトゥスは展開していくわけです が、今回の箇所はその前段にあたります。今回の箇所では、スコトゥスは アリストテレスの文言を受けて、まずその場合にアリストテレスが言う何 性は、すでにして実在としてある「このもの」をなしているとコメントし ています。これは上の自説の結論部分と照応します。 明記されてはいないものの、スコトゥスのこれまでの見解からすれば、何 性イコール「このもの」なのだから、すでにしてそれは現実態としての個 をなし、結果的に天使に個の区別がないというのは当たらない、というこ とになりそうですが、そのためには、質料をもたないものが必ずしも必然 的存在ではないということが論証されなくてはなりません(上の結論部分 でも見たように、必然的存在は複数性に開かれていないとされます)。先 走りになってしまいますが、そのことはこの後の部分で言及されます。と いうわけで、それはまた次回に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月06日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------