〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.167 2010/03/06 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その5) 前回に引き続き、『ガウロス宛て書簡』の内容のまとめていきましょう。 第二部(一三から一六章)では、胚は潜在態の生き物なのではないという ことが改めて論じられます。まず、魂を受け取ってはいるがハビトゥスが 発現してはいない、という意味での「潜在態」ではないことが再度指摘さ れます(一三章)。その意味での潜在態はいわば休息状態にあると見なさ れますが(睡眠など)、そもそも胚は未完成の状態にあり、そうした範疇 には入らないというわけです。一四章では、種子の中にすべての原理が 入っていると考える人々(エンペドクレスなどでしょう)、魂までも種子 に由来するとする人々が批判されます(これはストア派ですね)。すべて は物質(質料)からもたらされる、というのが根本的な誤謬であると糾弾 されます。つまり、それだと下位のもの(質料)から上位のもの(魂)が 生み出されることになり、著者が奉じるプラトン主義的の基本原理(上位 のものから下位のものが生み出される)に反してしまうからです。 続く章でも反論が続きます。胎内の胚はまだ感覚器官も完成しておらず、 結果的に感覚や認識(認識は感覚がもたらす像が前提とされます)はまだ なく、感覚を司る魂が入っているとは思えない、未完成の身体では魂を受 け入れられないのだ、と論じられていきます(一五章)。胚の未完成の身 体は柔らかな泥、あるいは水のように柔軟だとも表現されています。一六 章では、仮に胚(または種子)がもつ植物的な潜在性を「魂」と呼ぶ場合 でも、別種の自生的な魂はそこには見られず、そもそもその段階では必要 とされていない、植物的な「魂」で十分だからだ、と言われます。 さらに、やがて身体が形成されて準備が整えば出生にいたり、自生的な魂 が「全なるもの」によってもたらされる、とこれまた繰り返されていま す。カルデア人が言うとされる、世界と生き物を動かす東方からの神的で 知的な流れを引き合い出し、母親から生まれ出る生き物に不可視の流れが 注ぎ、その流れから魂が引き寄せられるのだとの説明を紹介しています。 著者は必ずしもその説明を受け入れているわけではないようで、出産後に 自生に転じることが古代から普遍的に認識されていた事実を指摘している にすぎない、としています。著者は再びここで音楽の比喩を出し、たとえ ばオクターブから外れた音が調和しないように、共鳴しえない身体には魂 が入らないのだと述べています。調和・共鳴こそが重要だと説くのです ね。 第三部にいたると、魂の付与は外部からなされるということが再度論じら れます(こうして見ると、議論の全体像は序文と一部で出尽くしている感 がありますね)。一七章ではまず、魂(理性的魂)が親から部分的に分離 して与えられるのでないことは、それが完全なものとして与えられること から論証できるとされます。次に、人間が身体と魂から成ることは明らか だとし、魂の存在こそが人間を他の動物より優れたものにしているのだと 再び強調されます。身体は精子から秩序立てて発達してくるのだといい、 これまた再び植物の種子との比喩・類推で語られます。そして胚は、胎内 にいる間は理性的諸活動は必要とされないとされます。一八章では、胚は もともと植物的な魂のみならず、感覚的・想像的・欲望的な魂からも産出 されたものである、と何やらこれまでと少し話の方向が変わってきます。 胚のもととなった精子が、そもそも像に結びついた欲望によって放出され る(夢精などを挙げています)のだから、それは明らかだというのです ね。この話はどう展開してくのかと思いきや、ここで本文は唐突に終わり になっています。 参照している仏訳(電子出版の廉価版)では、訳者注として「残りの部分 は傷みが激しく訳出不可」とされています。少し残念な感じですが、とり あえずここまででも、この書簡の著者が考えている大体の図式はだいたい 次の三つくらいのポイントにまとめられると思われます。(一)胎内の胚 は植物的な生き物であり、理性的な魂はまだ受け入れる準備ができていな い。(二)理性的な魂は出産時に与えられる。(三)しかしストア派が言 うような凝結のようなプロセスではなく、むしろ弦の共振に譬えられるよ うな、おだやかな調和のプロセスである。言わずもがなですが、全体的な トーンは新プラトン主義的です。 以上、『ガウロス宛て書簡』の要約をしてみました。繰り返しや比喩表現 など、実際にはもっとしなやかで繊細な議論が展開しますが、ここでは 少々乱暴にまとめています(苦笑)。さて、今度はこの文書の後世への影 響関係を見ていかなくてはなりませんが、それはまた次回ということにし たいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの天使論を読む(その8) 最初に掲げてあった異論への反論の続きです。早速見ていきましょう。 # # # Sed discordamus ab eo in hac propositione "omnis quiditas non habens materiam, est formaliter necessaria" - et ideo in conclusione. Rationabilius enim est theologo discordare a Philosopho in principio propter quod tenet aliquam conclusionem, quam errare cum eo in conclusione et discordare ab eo in principio propter quod ipsemet erravit. Ita enim concordare cum eo, nec est philosophari nec theologice sentire, quia talis non habet rationem quae valeat apud Philosophum, quia nec Philosophus concederet conclusionem nisi propter illud principium; nec etiam habet talis ad conclusionem suam principium theologicum, quia praecise ad eam est principium philosophicum, quod ipse negat. Per idem ad Avicennam dico quod intentio eius fuit quod tantum sit unus angelus in una specie, sed propositio cui haec conclusion innititur - scilicet quod "angelus superior causat inferiorem angelum" - eo quod ponit quod "ab uno, eodem modo se habente, non potest esse nisi unum", a nullo theologo vel catholico conceditur; quare, nec eius conclusio debet concedi ab aliquo theologo. Ad rationem primam alias fuit dictum quod differentia formalis potest accipi pro differentia in forma (et hoc proprie videtur significare hoc quod dicitur "differentia formalis"), - vel potest accipi "differentia formalis" pro differentia formarum, licet non sit in forma ut in ratione differendi. しかるに、「質料をもたないすべての何性は、形相的に必然である」とい う命題、およびその帰結については、私たちは哲学者と見解が異なる。神 学者としては、哲学者が異なる結論を導いたその原理について哲学者に異 を唱えるほうが、哲学者とともに結論において誤りながら、哲学者自身が 誤った結論を出した原理については哲学者に異を唱えるよりも、理に適っ ている。(後者のように)哲学者に同調することは、哲学することにもな らず、神学的に考えることにもならない。それでは哲学者が重んずる理性 を適用しないことになるからである。というのも、哲学者がそうした結論 を認めるのは、その原理ゆえに他ならないからだ。また(後者のように振 る舞う場合)それでは結論に対しておのれの神学的な原理を適用しないこ とにもなる。なぜなら、そこで結論に適用されるのはまさに哲学の原理で あり、神学者がみずから否定するものだからである。 アヴィセンナに対しても同じように述べよう。その意図するところは、一 つの種には一体づつの天使がいるというものだったが、「上位の天使は下 位の天使の原因をなす」というこの結論をもたらす元の命題、つまり「同 じ様態を持った一からもたらされるものは、やはり一でしかありえない」 については、いかなる神学者ないしカトリック信徒でも認められない。ゆ えにそこから導かれる結論も、いかなる神学者からも認められてはならな い。 第一の論理的議論に対しては、すでに他の場所で、形式的な違いとは(同 一の)形相における違いと解される(それが「形相的な差異」と言われる 場合の本来の意味であると思われる)か、あるいは「形相的な違い」が (異なる)形相間の違いと解される、と述べた。この後者の場合、原理が 異なる場合のように、違いは形相そのものの内部にはない。 # # # 最初の段落は前回の続きの部分です。スコトゥスの見解では、質料をもた ないもの(霊的存在)の「何性」(本質)は、それ自体で「このもの」 (個)をなす、というのが大前提で、被造物は偶有的であるため、おのず と複数性に開かれている、というのが小前提、かくして天使(霊的存在) もまた、個としては複数ありうる、というのが結論です。それに対してア リストテレスは、霊的存在はすべて必然的存在と見なしているといい、小 前提のところが違っています。キリスト教神学的には、必然的存在は神だ けなので、スコトゥスはアリストテレスのその部分を認められないのです ね。 前の繰り返しみたいになってしまいますが、ポイントは質料の捉え方で す。霊的存在のように質料をもたないものも、実在として現実態をなすの だとすると、形相が質料に働きかけて後者を可能態から現実態へと移行さ せる、という従来の図式は再考を迫られるように思われます。 余談ですが、このところスコトゥスの先駆とされるペトルス・ヨハネス・ オリヴィの質料論を見ています。まださわりしか見ていないので、あまり 確証的なことは言えないのですけれど、そこではどうやら質料を無定形の 可能態と見るのではなく、形相とともに複合体を作る「不完全な現実態」 と位置づけて議論が展開するようです。質料がすでに現実態として、不完 全ながら規定・限定されているという話ですね。このあたり、スコトゥス も同じような問題意識を持っているのかもしれません。ちなみにオリヴィ の質料論というのは、主著『命題集第二巻問題集』の問一六から二一で、 昨年フランスのヴラン社から『質料』というタイトルでハンディな対訳本 が出ています。 二番目の段落は、問七冒頭の二つめの異論への反論です。異論は、アヴィ センナは「つねに上位の知性から下位の知性が作られる」を大前提とし、 「一からもたらされるのはつねに一である」を小前提とし、「知性である 天使は種ごとに一つである」と結論する、という趣旨ですが、これも上と 同様に、スコトゥスは小前提を受け入れられません。もし一からは一しか もたらされないのであれば、神は被造物の複数性を創造していないことに なってしまいます。 三段落めは、問七の三つめの異論への反論です。「第一の論理的議論」と なっているのは、その前の二つの異論がそれぞれアリストテレスとアヴェ センナの権威にもとづく議論だったからですね。この三つめの異論という のは、「形相的違いはすなわち種的な違いのことである」が大前提、「天 使は複数いていずれも形相的存在であり、ゆえに形相的違いをもつ」が小 前提、よって「異なる天使は種的に異なる」を結論とするものでした。ス コトゥスはまず「形相的違い」の意味内容を吟味し、種的な違いに対応す る形相的な違いというのは「形相間の違い」であって、「同一形相の差 異」ではないと話をもっていきます。また先走りになってしまいますが (今回も切り方が悪く申し訳ありません)、こうして次の段落で上の小前 提に反論を加えていきます。そのあたりはまた次回に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月20日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------