〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.168 2010/03/20 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その6) 二回にわたり重要文献「ガウロス宛て書簡」の大まかな内容を見ました。 今回はその後世への影響ということで、再び論集『胚:形成と生命付与』 に戻って、関連する論考から拾っておきましょう。 まずティツィアーノ・ドランディ「ガレノス作とされた『ガウロス宛て書 簡』のテキスト史のために」(pp.123 - 137)という論考です。これによ ると現存する同書簡(フランス国立図書館所蔵)は、19世紀中盤のフラ ンスの公教育相アベル=フランソワ・ヴィルマンの特使、ミノイデス・ミ ナスがアトス山から買い取った写本類の中に入っていたものだったそうで す。同書簡は冒頭と末尾が欠けていて、ほかの文書とともにある写本に収 められているのだとか。写本そのものは12世紀ごろのもとされ、写本製 作者は不明なのですね。写本製作者本人による修正の跡もあるようです。 このパリの写本のフォリオでは、この文書の前にガレノスの『弁証法序 論』が置かれているといいます。そんなこともあって、この文書はガレノ スの著作とされてきたのでしょう。 ドランディの論考では、この文書を誰が実際に読んでいたのかという問題 を、後世のギリシア思想家の著書の中に探っています。まず挙げられてい るのが4世紀頃のイアンブリコスです。ストバイオスが伝える『魂につい て』の一部に、『ガウロス……』にかなり似た箇所が出てくるようで す。6世紀のピロポノス『霊魂論注解』にも、胚は生き物かどうかという 議論があり、そこに同書簡からの議論が散見されるといいます。 さらに後世の11世紀には、プセロス『様々な教えについて』 (Omnifaria doctrina)があるといいます。同書の115章が、胚は生き 物かどうか、どのように成長するのか、という表題になっていて、そこ に、このテーマに関する古来の著作として、ヒポクラテス、ガレノス、ポ ルピュリオスのものが挙げられているのですね。そしてこのポルピュリオ スの著作とされるものの言及箇所が、『ガウロス……』に照応するという わけです。ドランディは、魂は身体にどう入り込むかを扱った同書の60 章にも、同じような照応関係が見られると指摘しています。そのほか、プ セロスの哲学的著作にも、同書簡を参照している形跡があるといいます。 さらに12世紀のエフェソスのミカエルの『動物発生論注解』にも、同書 簡との照応関係があるようです。 マリー=エレーヌ・コングルドー「『ガウロス宛て書簡』のビザンツの後 裔」という論考も、同様にギリシア世界への同書簡の影響について論じて います。前半はピロポノスと『ガウロス……』の照応箇所を細かく検討し ていて、その上で、ピロポノスが同書簡を直接知っていたかどうかについ て留保の姿勢を示しています。コングルドーは、ピロポノスの場合、議論 の扱い方にやや距離感があるといい、同書簡そのものというより、書簡が ベースにしていたであろう別の参照元を用いた可能性もある、としていま す。後半はプセロスについての検討で、こちらは同書簡におおむね呼応す るとまとめられています。ちょっと興味深いのは、初期教父が胚への魂の 付与についてどう考えていたかという問題です。すでにプセロスが、この 問題についての初期教父の見解は一致していない、と述べているのです ね。コングルドーは、教会はそもそも魂の起源について明確な立場を示し ていないと指摘しています。 これに関連しますが、ベルナール・プデロン「初期教父の生殖教義へのア リストテレスの影響、およびその神学的含意」という論考もあります。種 子は男性にのみ由来するとするアリストテレス=ストア派の系譜に対し て、ヒポクラテス=ガレノスの系譜では種子は両性に由来するとされます が、初期教父たちが前者を支持したことを、神学的背景(キリストの由来 を父にのみ限定するなど)をからめて論じています。ユスティノス(2世 紀)、テルトゥリアヌス(2世紀)、ニュッサのグレゴリオス(4世紀) などいずれもその路線で、やっと5世紀初めのネメシオスになって、ガレ ノス的立場を取るようになるといいます。 上のコングルドーの論考に戻ると、その末尾では16世紀初めごろの作者 不詳の文書『ヘルミッポスまたは占星術について』が挙げられています。 これは対話篇だといい、基本的にはキリスト教占星術を擁護した文書で、 人体と星の類似性などの議論が展開するもののようです。これに、『ガウ ロス……』の引用が見られるというのですね。この引用はかなり密なもの だといい、よって同書簡の写本が実際に使われていた可能性が高いという 話です。コングルドーは、ビザンツ世界で同書簡がそれなりに流通してい たのはほぼ確実だとしています。ただしその議論の使われ方は断片的・概 括的で、書簡本文の細やかな議論は反映されていない、と結んでいます。 では翻って西洋世界ではどうだったのでしょうか。そもそも胚の問題はど のように認識されていたのでしょう?というわけで、長い長い前置きに なってしまいましたが、いよいよそちらの方へと目を向けていかなくては なりません。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの天使論を読む(その9) どうもこの数回、テキストを議論の途中で切ってしまっているせいで、話 が見えにくくなっているかもしれませんが、どうかご勘弁ください。で は、前回の続きの部分から見ていきましょう。 # # # Primo modo potest concedi major, et sic est minor falsa. Probatio autem minoris, scilicet quod "angelus differt ab angelo quia est forma, igitur habent differentiam formalem", includit fallaciam consequentis : non enim sequitur "forma differunt, ergo formaliter diferunt (vel differunt in forma)", sicut non sequitur "homines plures differunt, ergo in humanitate differunt"; aliud est enim "aliquid dustingui" et aliud "ipsum esse primam rationem distinguendi (vel distinctionis)", quia cum hoc quod ipsum sit distinctum, stat quod ipsum sit etiam ratio distinguendi, quia cum hoc quod ipsum sit distinctum, stat quod ipsum sit etiam ratio distinguendi, - cum hoc autem quod ipsum sit ipsa ratio distinguendi, non stat ipsum esse distinctum. Et ratio logica est ad hoc, quia negatio inclusa in nomine "differentiae" non tantum confundit terminum "huius" relationis confuse et distributive, sed etiam illud quod specificat differentiam, ut in quo notatur esse diffrentia : haec quippe confunditur (quantum ad negationem inclusam in hoc nomine "differentia"), quia si Socrates differt a Platone in albedine, non est idem sibi nec in hac albedine nec in illa. - Si autem accipiatur maior improprie, secundum secundum intellectum, nego maiorem. Ad probationem dico quod Philosophos loquitur (in VIII Metaphysice) de forma prout indicat quiditatem. Quod apparet ex prima comparatione formarum ad numeros; dicit enim: "Si" (inquit) "aliqualiter numeri substantiae, sic sunt, - nam definitio numerus quidam, divisibilis in indivisibilia (non enim infinitae rationes); numerus autem tale". Hoc est: resolutio definitionum stat ad indivisibile sicut et resolutio numerorum stat ad indivisibile; et talis definitio est eius quod vocat "substantiam", hoc est quiditatis, - non formae, quae est eius altera pars. 最初の意味では、大前提は容認でき、小前提のほうは誤りとなる。小前 提、つまり「天使が他の天使と異なるのは、形相が異なるからであり、 よって形相的な違いがあるからである」という論証は、推論の誤りを含ん でいる。つまり「形相が異なるから」といって「形相的に異なる(形相に おいて異なる)」とはならないのである。それは、「多くの人間は異なっ ているから」といって「人間性において異なっている」とならないのと同 様である。「何かが違うこと」と「それ自体が違いをもたらす(あるいは 区別の)第一原理であること」とは同じではない。なぜなら、それ自体で 違うものは、それ自体の違いをもたらす原理であることもありうるが、そ れ自体の違いをもたらすものが、それ自体で違うことはありえないから だ。論理学的論証がそのことを示している。というのも、「違い」という 名辞に含まれる否定概念は、「そのような」(違いの)関係の項を混淆 的・周延的に一緒くたにするばかりか、「違いを類別するもの」すら、 「違いがあることを示すもの」として一緒くたにしてしまうからだ。実際 のところそれはひとまとめにされる(「違い」という名辞に含まれる否定 について言うなら)。たとえばソクラテスとプラトンが白さにおいて違う という場合、いずれの白さをもってしても、その違う白さには一致しない のである。ここでもし第二の意味に取って、大前提を不当なものとすれ ば、その大前提は否定しなくてはならない。 (次の)論証についてはこう述べよう。哲学者は(形而上学第八巻で)形 相について、あたかもそれが何性を示すかのように述べている。そのこと は、形相と数の最初の比喩から伺い知れる。彼はこう述べる。「諸実体が 何らかの形で数のようなものだとすると、定義もどこか数のようなものと いうことになる。それ以上分割しえないところまで分割しうるからだ(無 限にいたるのは不合理だから)。数もそのようなものである」。つまり、 数の解決がそれ以上分割しえないものにまで至るように、定義の解決もそ れ以上分割しえないものにまで至るのである。そのような定義は、哲学者 が「実体」と呼ぶものに属するが、それは何性の定義なのであって、形相 の定義ではない。形相はそのもう一つの部分なのである。 # # # 少し分かりづらい感じの議論ですが、ちょっと整理していきましょう。最 初の段落は前回の続きです。「形相的違いは種的違い」「天使は形相的に 異なるので、形相的違いをもつ」「ゆえに個々の天使は種的に異なる」と いう議論へのスコトゥスの反論です。前回のところでは、形相的違いとい う場合に、「同一形相における差異」と「別の形相同士の違い」の二つの 意味があるという話をしていました。 それに続き、今回の箇所ではまず、最初の意味(「同一形相における差 異」)のほうを当てはめると、「天使は形相的存在なので形相的違いをも つ」という小前提が誤りになると指摘します。この小前提には推論上の誤 りがあるというのですね。「形相的に異なる(=同一形相の差異が現れ る)」が「形相において異なる」(=もとの形相からの隔たりがある)と はイコールにならない、というのがその主旨です。個別の違いと、おおも との原理・モデルそのものの違いが、一緒くたにされているというわけで すね。発現としての形相の違いと、原理としての形相の違いと言ってもよ いでしょう。 「関係の項を混沌的・周延的に一緒くたにする」というのは、仏訳注によ ると、たとえば「ソクラテスはその白さによって異なる」と言った場合 に、何に対して異なるのかという関係の項が渾然一体となって不明瞭に扱 われてしまうことを述べているようです。一方、「ソクラテスは白さにお いてプラトンと異なる」と言った場合には、基準となる白さの概念が不明 瞭になります。違いを類別するもの(基準となる白さ)と、違いを示すも の(各項における白さ)とがこうして混同されてしまうわけですね。で、 この場合、白さという同じ性質の形相の中に差異があることになってしま いますから、仮に小前提が正しいとすると、大前提の「(あらゆる)形相 的違いは種的違い」と矛盾してしまいます。 ここで「形相的違い」を第二の意味(「別形相間の違い」)に取る可能性 も残されていますが、前回見た箇所でスコトゥスは、第二の意味の場合に はそもそも「原理が異なる場合のように、違いは形相の内部にはない」と 述べていましたので、それを当てはめると大前提での「形相的違い」が意 味をなさなくなり、大前提が成立しなくなってしまいます。かくしてどち らの意味でも前提において問題が生じるため、結論は導かれないことにな ります。細やかな分析を施した、なかなか周到な議論ですね。 次の段落は、問七冒頭の、続く異論への反論です。そこでのもとの異論 は、「アリストテレスの『形而上学』八巻にもとづき、形相は数になぞら れられ、数の加算・減算のような形で種は変化する」というものでした。 これも後の段落でスコトゥスの反論が展開します。形相の付加という大き な問題が扱われていきますが、この段落はその前段です。注目できるの は、アリストテレスの言う「定義」(それ以上分割しえないものとしての 定義)が何性の定義であって形相の定義ではない、という部分でしょう。 これがどういうことなのかも含めて、すみませんが次回に持ち越しという ことにいたします。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月03日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------