〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.179 2010/09/25 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その17) アーバノのピエトロ『調停の書』(Conciliator)は長大な著作です。医 学と哲学が交差し合う様々な問題について論じたもので、「医学とは思弁 的学問とは別ものか」といった学問論から始まり、「人間の身体は医学の 対象になるか」といった総論を経て、元素や星辰の話(コスモロジーです ね)から身体の個別の各論にいたるまで、自然学的なトピックを総覧的に 巡っていくいわば百科全書のような体裁です。各問題ごとに一つの章 (「相違」と題されています)が立てられ、それが全部で二一〇章まであ ります。これはなかなか壮観ですね。各章では、まず冒頭に医学者と哲学 者の双方の対立する主張を掲げ、それらを「調停」するというかたちで私 見が述べられていきます。三段論法的な形式ですね。 百科全書的なので、おそらくは全体を通読するというより、部分的に読ん で活用するという読書形態が想定されていたのでしょう。そのことを思わ せるものとして、この1565年版のリプリントでは冒頭にいわゆる索引が 付いています。これは便利です。たとえばこれで「embrio」(胚)を引 いてみると、四八章と四九章(相違四八、相違四九)が挙げられていま す。 その箇所を見てみましょう。この「相違四八」は見出しが「切り離された 種子は魂をもつか否か」となっています。本文ではまず、「切り離された 種子は魂をもたない」という説が紹介されます。論拠としてアリストテレ スの『動物発生論』に言及されています。これはつまり、種子には自生能 力がなく、機能的にも(摂食などがない)形状的にも(余剰であり魂を受 ける形相がない)独立して魂を受け取れない以上、魂はもたないと考えら れるという議論です。 次にこれに対する異論として、これまたアリストテレスの『動物発生論』 を論拠として、種子は魂からは離れられないとする説が示されます。ただ しこの説では、種子がもつ魂とは可能態であり、ちょうど種に果実が可能 態として宿っているように、種子には魂が宿っているのだとされます。魂 の可能態があるからこそ、母胎内においてはただちにその可能性の発現プ ロセスが開始されるのだ、とも言われていますが、その際の種子の働き は、外部から作用する人為的な技法(ars)のようなもので、まだ内的な 自然のプロセスではないとの留保もついています。 こうした両論に対して、いよいよピエトロ本人の見解が示されていきま す。ピエトロまず、魂をもつとはどういうことかを問題にします。魂をも つ身体というのは、なんらかの形で魂に参与しているもののことを言い、 それは実体であるか、生命の可能性もしくは原理をもった身体の形相であ るとします。続いて、切り離された種子とは、適切な場所において、主た る精気に支えられて形成力(virtus informativa)から分離したものを 言うと捉えています。 次に「種子が実体的に存在するには、魂をもつ本体との連続性がなくては ならないので、種子には本体の様々な部分が分け与えられ(魂も)小パー ツ的に入っている」という古代人の説を取り上げ、これを一蹴してみせま す。この説では、種子はまるで本体からそっくり切り出された小動物であ るかのように見なされているわけですが、反論として、そもそも本体から 魂も含めて切り出されてしまっては、もとの本体が損なわれるし、そうし た分離の傷みが感じられてしかるべきなのにそれもないと述べています。 次の第三の議論では、種子が魂をもつとしたら、それは可能態としてであ るということを検証していきます。その可能態とはどういうものなのか、 いかにして現実態になるのか、それを促す原理はどこから来るのかといっ た話が展開していくのですが、これはやや長い議論ですので、また次回 に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの自由意志論を読む(その6) 今回は続く59節に進みます。ここでは第五の結論(テーゼ)とその論 証、それに対する異論が列挙されていきますが、今回は異論の途中までで す(また切り方が悪くてすみません)。 # # # [59] QUINTA CONCLUSIO : Primum causans, quidquid causat, contingenter causat. Probatur: Quia quod immediate causat, contingenter causat - ex tertia probatione quartae praemissae; igitur et quidlibet, quia contingens non praecedit naturaliter necessarium nec necessarium dependet a contingente. Item ex volitione finis : Non necessario est aliquid volitum nisi illud sine quo non stat illud quod est volitum circa finem. Deus amat se ut finem; et quidquid circa se ut finem amat, stare potest, si nihil aliud ab ipso sit, quia necessarium ex se a nullo dependet; igitur ex volitione nihil aliud necessario vult; igitur nec causat necessario. Contra : 'Velle aliud' est idem primo; igitur necesse esse; igitur non contingens. Item : Si tertia probatio praemissae, cui ista innititur, bene tenet, igitur nulla est contingentia cuiuscumque causae secundae in causando nisi contingentia primi in volendo; quia sicut necessitas primi in volendo concludit necessitatem cuiuscumque alterius in causando, ita determinatio eius in volendo concluderet determinationem cuiuscumque alterius in causando. Sed determinatio eius in volendo est aeterna : igitur quaecumque causa secunda priusquam agat est determinata, ita quod non est in potestate eius determinari ad oppositum. Hoc ulterius declaratur; quia si in potestate huius est determinare se ad oppositum, igitur cum determinatione primae causae in volendo stat istius indeterminatio in causando, quia non est in potestate eius facere primam causam indeterminatam; et sic cum determinatione primae stat indeterminatio huius, ita videtur quod cum necessitate eius stat possibilitas et non necessitas istius. Vel igitur tertia probatio nihil valet, vel voluntas nostra non videtur esse libera ex se ad opposita. 第五の結論:第一の原因をなすものは、何を生じせしめるにせよ、偶有と して生じせしめる。 これは次のように論証される。直接的に生じせしめるものとは、偶有とし て生じせしめるもののことである。これは先の第四の結論の第三の論証か らのもので、というのも偶有的は当然ながら必然に先行しないし、必然は 偶有に依存しないからである。 また、これは目的への意志からも論証される。必然によって望むのは、目 的に関して望まれるものが必然なしにはありえない場合だけである。神は みずからを目的として愛する。そしてみずからに関して目的として愛する すべては、神自身以外から出ることはないのであるから、存在しうる。と いうのも、必然そのものは何にも依存しないからである。したがって、神 が意志から何か他のものを必然により望むことはない。よって必然により 生じるものはないのである。 次のような反論がありうる。「他のものを望む」のは第一者とて同じであ る。したがってそれは必然であり、よって偶有ではない。 また、この論証が立脚する先の第三の論証が正しいのであれば、ゆえに意 志の系譜における第一者の偶有以外、原因の系譜におけるいかなる二次的 な原因にも偶有は存在しないことになる。なぜなら、意志の系譜における 第一者の必然が、原因の系譜における他の必然を帰結するのと同様に、意 志の系譜における第一者の決定は、原因の系譜における他の決定を帰結す るだろうからだ。しかしながら意志の系譜におけるその決定は永続する。 したがって二次的な原因はすべて働きかける以前に決定づけられ、対立物 へと決定づけられることがありえないことになる。 そのことはさらに次のようにも示される。二次的な原因がみずからを対立 物へと決定づけることができるならば、意志の系譜における第一原因の決 定と、原因の系譜における二次的な原因の未決定とが併存できることにな る。なぜなら、第一の原因を未決定にすることは、二次的な原因の権能に はないからである。また、第一原因の決定と、二次的な原因の未決定が併 存できるのと同様に、第一原因の必然と、二次的な原因の可能性(非必然 ではない)も併存できると思われる。よって第三の論証はまったく価値を なさないか、あるいは私たちの意志に、対立物になる自由はもとよりない と思われるかのいずれかである。 # # # ここでは、第一原因が何かを生じさせる場合にすべて偶有として生じさせ ることを論じています。引き合いに出されている第四の結論とは「第一の 作用者は知性と意志をもつ」というもので、その第三の論証というの は、56節で見たように、偶有的に生じるものがある以上、すべてが必然 ではなく、また偶有をもたらすのは意志である、という議論でした。 今回の箇所では、意志と必然についての話が再び取り上げられています。 神(すなわち第一原因)は必然を介さずとも望むだけで事物を生じせしめ ることができる、というわけですね。スコトゥスの議論からすると、そう した神の意志は二次的な原因にも受け継がれ、こうして必然の系列とは別 の意志の系列が浮上する、というふうに読めます。ですが、果たして二次 的な原因も必然を介さずに、意志だけで事物を生じせしめることができる のでしょうか。フランスの研究者オリヴィエ・ブールノワが『存在と代 示』で示唆していますが、スコトゥスにおける意志とは、「意志の一義 性」とまで言えるほどの、存在も合理性もすっかり包み込む根源的原理を なしているようなのです。 ブールノワによると、意志の問題はもともと、フランシスコ会の神学者た ちがクレルヴォーのベルナールやサン=ティエリーのギヨームの議論 (「意志のあるところに自由あり」)を支持したことに端を発していると いいます。その後、合理性が知性に存することを全面否定したオリヴィな どのラディカルな議論を経て、スコトゥスにおいては「合理性そのものす ら意志に由来する」とまで議論が拡張しているといいます。主意主義はこ うして、ルネサンスのはるか以前に最高潮に達してたのだというのです ね。 ですが、上のテキストの後半部分にも示されているとおり、反論としてま ず、第一者が偶発的に第二者を生み出したとして、第二者以下が偶発的に 他を生み出す保証はなく、むしろ第二者がなんらかの決定(限定)を被っ ていることから、第二者以下ではその決定が枷のようになり、必然を導く のではないか、と考えることもできそうです。また、第一者はあくまで必 然であり、第二者以下が必然の枠内での可能性においてゆらぐ、というこ とも主張できそうに見えます。もしこれが論証されるなら、トマスなどの ように、偶有は再び質料の問題へと帰結させられてしまいます。必然が系 譜をなしていくような具合に、意志が系譜をなしていくことはどのように して担保されるのでしょうか。スコトゥスはこの問題にどう対応していく のでしょう?このあたりは結構厄介そうですが、改めて次回に取り上げて みたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月09日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------