〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.180 2010/10/09 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その18) 引き続き『調停の書』から四八章を概観しましょう。著者のピエトロは、 種子における魂は可能態としてあるという説を支持しています。ここでの 可能態とは、要するに発現していない状態で内在する原理、力能のことで す。それは発現後の現実態から推測されるしかない力能ですが、ちょうど 「不完全なものが完全なものに向かうように」、その力能はおのずと発現 へと向かうとされています。種子の場合、それは生命活動と死との中間、 つまり眠っているようなものであるとも記されています。 前に見たエギディウスの人体形成論では、そうした力能は親から受け継が れる精気が担っているとされていました。ピエトロの場合、精気はむし ろ、母胎に着床した種子が凝縮・純化する過程で生じるものと考えられて いるようです。植物において果肉が種の栄養になるように、種子本体の不 純物とされる部分が変成するというわけです。この精気はやがて、経血が もたらす質料を分化させて、脳、心臓、肝臓といった重要部分を形成して いくわけですが、種子から胚へのそうした生成・分化の過程について、ピ エトロはこの四八章で長々と述べています。 分化を促す力はどこから来るのか、という問いをめぐって、ピエトロはア リストテレスとガレノスの論を対照させています。ガレノスはこれが親の 魂に由来し、人間のすべての作用は種子内部の熱によってなされるとし て、あくまで自然学的な立場を貫きます。それに対してアリストテレス は、これを神的な知性による作用であるとして、むしろ形而上学的な立場 を示します。ピエトロのコメントによると、形成力・形相付与力(virtus informativa)は超天空の力(virtus supercoelestis)にもとづいてしか るべき受容体に生命を与えるのだけれど(魂によって、ということでしょ うか?)、実体としての種子にはもとよりその力を受け取る潜在性が備 わっており、かくして最初の精気が天空の熱を運び入れるのだ、とされて います。うーん、詳しいプロセスはここからだけでは何ともいえませんが (苦笑)、全体としてアリストテレス寄りの立場であることは明らかで す。 ピエトロは、形成・分化のプロセスを支えるものとして、生命の継続をも たらす天空の熱と、消滅へと向かわせる元素(=質料)の熱との相互作用 があると考えているようです。鉄がいったん溶解した後に、あらためて剣 に錬成されるプロセスが、たとえとして引き合いに出されたりしていま す。質料は経血からもたらされ、相互作用を介在する精気は星辰によって 秩序づけられるといいます(占星術的な思惟?)。いずれにしても、天空 に由来する力(熱?)こそが分化の発動原理をなすらしく、それが発動し た後の細やかな分化・多様化には別の原理が必要で、質料(経血)に由来 する他の原理とのやりとりでもってプロセスは達成される、というのが基 本的な考え方になっているようです。 また、胚の成長とともに形成力そのものは減衰するという話に関連して、 知的魂が外部からもたらされると、自然の領域に属する植物的魂、感覚的 (動物的)魂は滅するといった、いわゆる魂の三態の話も出てきます。当 然それは、より完全なる形相を迎え入れるためだとされます。このあたり も、ピエトロがアリストテレスを拠り所にしていることが色濃く分かる部 分です(ピエトロはアリストテレスの翻訳者でもあったのでした)。 少なくともこの四八章については、自然学的な議論と形而上学的な議論と が対照され、発生の問題絡みではむしろ後者が重視されているように思わ れます。上の星辰への言及にも感じられるように、占星術的な思惟も通低 音をなしていそうです。このあたりのスタンスは、ほかの章についても言 えるかどうか確認してみなくてはなりませんね。というわけで、さしあた り続く四九章も概観しておきたいと思います。『サレルノ問題集』でも 『人体形成について』でも触れていた、「八ヶ月目での生まれる胎児は生 きながらえるか」という問題を扱った章です。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの自由意志論を読む(その7) 前回列挙された異論からは、必然の系とは違う意志の系がどうやって導か れるのかという疑問が浮かび上がりました。スコトゥスは必ずしも直接的 に回答しているわけではありませんが、今回読むところにはその手がかり が示されています。では早速見ていきましょう。 # # # Item : Si prima determinata determinat, quomodo potest aliqua causa secunda movere ad aliquid aliquo modo, ad cuius oppositum prima moveret si moveret, sicut est de voluntate nostra peccante ? Item : quarto : Omne efficere erit contingens, quia dependet ab efficientia primi quae est contingens. Ista sunt difficilia, quorum plena et plana solutio multa narrari et declarari requirit. Quarantur in quaestione quam de scientia Dei respectu futurorum contingentium disptavi. また、もし限定された第一原因が限定するのであるなら、第二原因はどう すれば、第一原因が動かしたとしたら動かしたであろう方向とは逆の方向 に向けて、私たちの罪深き意志のごとく、なんらかの別の方法で動かすこ とができるというのだろうか? また、四つめとして、あらゆる産出は偶有かもしれないとも言える。なぜ ならそれは、偶有である第一原因の産出に依存しているからである。 こうした異論は難問である。十全かつ平坦な解決策には、多くの言葉と議 論を要するだろう。未来の偶有に関する神の知について私が述べた問いを 参照のこと。 [60] Sexta Conclusio : Primam naturam amare se est idem naturae primae. Hanc probo sic : Causalitas et causatio causae finalis est simpliciter prima - ex quarta secundi; et ideo causalitas primi finis et eius causatio est penitus incausabilis secundum quamcumque causationem in quocumque genere causae. Causalitas autem primi finis est : 'movere primum efficiens ut amatum', quod est idem isti : 'primum efficiens amare primum finem'. Nihil aliud est : 'obiectum amari a voluntate', nisi : 'voluntatem amare obiectum'. Igitur : 'primum efficiens amare primum finem' est penitus incausabile, et ita ex se necesse esse - ex quinta tertii; et ita erit idem naturae primae - ex sexta eiusdem; et deductio patet in decimaquinta tertii. Deducitur aliter, et in idem redit : Si 'primum amare se' est aliud a prima natura, igitur est causabile - ex decimanona tertii; igitur effectibile - ex quinta secundi; ergo ab aliquo per se efficiente - ex probatione quartae huius; ergo ab amante finem - ibidem. Igitur 'primum amare se' esset causatum ex aliquo amore finis priore isto causato, quod est impossibile. 第六の結論:第一の本性がみずからを愛することは、第一の本性と同義で ある。 これは次のように論証しよう。目的因の因果関係や原因作用は端的に第一 のものである。それは第二章の結論四による。よって第一目的の因果関係 とその原因作用は、どの類の原因のどのような原因作用であろうと、まっ たく原因によるものではない。一方で目的因の因果関係とは「第一産出物 を、愛されたものとして動かす」ことにある。それは「第一の産出物は第 一目的を愛する」のと同義である。「意志により対象が愛される」とは 「意志が対象を愛する」ことにほかならない。したがって、「第一産出物 が第一目的を愛する」ことは、まったく原因によるものではなく、それは もとより必然なのである。これは第三章の結論五による。そしてこの愛情 は第一の本性においても同様である。これは同じ章の論証六による。また この推論は、第三章の論証一五からも明らかである。 別様の推論でも、やはり同じ結果にいたる。「第一者がみずからを愛す る」ことが第一本性とは別ものであるなら、するとそれは原因により生じ うることになる。これは第三章の結論一九による。したがってそれは産出 しうることになる。これは第二章の結論五から導かれる。よってそれは別 のものにより産出する。これは第八章の結論四による。ならばそれは目的 を愛するものから産出する。これも同箇所による。すると「第一者がみず からを愛する」ことは、第一者が生じる以前に、目的へのなんらかの愛か ら生じたということになるが、それはありえない。 # # # 前回の続きにあたる59節の残り部分では、スコトゥスは異論への考察を いったん先送りにしている感じですね。「未来の偶有に関する神の知」に ついての議論を見よということですが、具体的にそれがどの部分を指して いるのかは目下調査中です(笑)。今しばらくお待ちください。 一方、意志がどのように系をなしていくかについては、続く60節でわず かながら触れられています。参照箇所が次々に挙げられているのでちょっ と煩雑ですが、改めて整理すると、「限定されていないものは産出されて いない」(二章、結論四)ということから、第一の目的因は特定の原因か ら生じたものでないとされます(これは神と同義でしょう)。続いてその 第一の目的因(第一原理)から産出された最初のものは、「必然的に」第 一原理を「愛する」(これは「志向する」と言い換えてもよいでしょう) のだと説明されます。「原因によらないものはおのずと必然的存在をな す」(三章、結論五)からです。 スコトゥスは「必然」そのものを系の発端には置かず、むしろ意志の志向 性(=愛)の特性として扱っています。こうすることで、必然から必然が 次々に生まれるのではなく、必然が支える意志が次々に生まれることにな るのですね。産出物はその原因となったものを目的因として志向し、それ に近づこうとしますが、そのこと自体は必然として定められているという のです。そうした志向と接近(つまりは第一原因を真似ようとすること) によって最初の産出物はまた第二の産出物をもたらし、今度は第二の産出 物が第一の産出物を志向し接近することで第三の産出物がもたらされ る……。こうして意志もまた系をなしていくことになります。このあた り、見事な妙手という感じもしますが、実はこの「産出物が原因を仰ぎ見 る」という体系は、プロティノスの発出論がおおもとにあり、それをアラ ビア世界で引き継いだアヴィセンナなどに系譜を見ることができるのでし た。 ある意味当然のことですが、必然の系が主に作用因を軸に構成されるのに 対して、意志の系は目的因を軸に構成されることも興味深いですね。前回 も触れたブールノワの著書によると、トマスやガンのヘンリクスにおいて は、人間の魂が神に向かうのは自然の必然によるとされていたのに対し、 スコトゥスは人間と神の結びつきを自律的なものと規定しているのです ね。たとえ意志が神を愛さずにはいられない(志向せずにはいられない) としても、それはいわば「自発的な必然」「自由なる必然」ということな のだ、とブールノワは論じています。神の意志がすでにして「必然かつ自 由」なる志向である以上、それに倣う人間の意志もまたそうしたものであ りえ、極限の状態にまで高まるなら、意志は偶有的なものから必然的なも のへとステータスを変えてしまうのだ、というのです。必然でありながら 自由でもあるという一種のオクシモロン(矛盾語法)が、スコトゥスの体 系の要石になっているというこの議論、ややもとのテキストを強引に解釈 しているふしがないとも言えませんが、スコトゥスのテキストはどこかそ うした読みを誘ってくるのかもしれません(笑)。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月23日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------