〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.181 2010/10/23 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その19) アーバノのピエトロによる『調停の書』から、「相違四九」(四九章)を 見てみます。この章の副題は「八ヶ月目で生まれたものは生存するか」で す。議論の運び方は前回見た四八章と同じで、まずは両論併記的に、胎内 に長くいるもののほうが多く生存するという説と、そうではないという説 とが対比されます。これを受けてピエトロの見解が示されていきます。ピ エトロは基本的にアリストテレスに準拠する形で、人間は動物の中でもと りわけ胎生期間が長く、出生は七ヶ月から一〇ヶ月までと様々だとした上 で、八ヶ月で生まれた場合には(七ヶ月と違って)生命力が弱いとの立場 に立っています(ここでの「月」がどの時点からの算定かは今一つはっき りしていません)。 ピエトロは説明として、(一)医学的・自然学的見地、(二)秘数的見 地、(三)占星術的見地を挙げています。まず医学的見地ですが、そこで は主にヒポクラテスを引きながらも、着床後の胚の発達を概略的に述べて います。続く月数についての所見では、気候その他の影響や母胎の環境な どの違いによって、個体の発達の時間(日数)にはかなりの開きがあると しています。原則的には、器官形成に要する時間の倍の時間で運動が始ま り、さらに今度は運動に要する時間の三倍の時間で出生時期を迎える、と されています。器官形成三五日なら運動開始が七〇日、そして二一〇日で 出生となり(七ヶ月の場合)、器官形成四〇日なら運動開始が八〇日、出 生が二四〇日となります(八ヶ月の場合)。 同書で言うところの七ヶ月めは、胎児の出生準備が完全に整った状態に相 当するとされ、一方で八ヶ月めに入り好機を逃した場合、胚の力は増大す るものの、母胎も胚もそれだけ結果的に負担が重くなって疲弊を招くこと になってしまい、例外的に強い個体でなければ十分な生命力を保持できな いと説明されます。遅れればそれだけ、みずからの力のせいで脆弱になっ ていくというのですね。 続く秘数的な見地では、七という数は完全数、八は不完全数であるとして います。ピュタゴラスに準拠するというこの考え方では、七の完全数は一 種の原理として作用しており、人体を始め様々なものに見出されるとされ ています。神が世界を創造したのも七日なら、乳歯が生えるのも七ヶ月、 乳歯が抜けるのも七歳のとき、その七年後には幼年期を脱し、そのさらに 七年後には一人前になる……などなど。月の満ち欠け・運行もまた七の数 字に支配され、母音の数もギリシア語なら七……。 この「七」の支配は胚胎にも適用されるというわけなのですが、ピエトロ はひとしきり完全数などの解説をした後、この数字の支配についてやや批 判な見解を示しています。ここでは詳しくは見ませんが、要は現実が数字 に必ずしも適合しないこと、完全数の概念に必ずしも整合性が保たれてい ないことがその中心的な議論になっています。八以外の、完全数とされる 七、九、一〇などは、いずれも様々な組み合わせでできているとも言え、 完全性があるとは必ずしも言えないのではないか、ということです。上の 医学的見地でもそうですが、ピエトロはアリストテレスを重視するととも に、一方では観察にもとづく議論に重きを置いている感じです。 続く占星術的見地はどうでしょうか。最初は同時代の占星術の見解が紹介 されます。胎児の発達は月ごとに惑星の影響を受け、土星、木星、火星、 太陽、金星、水星、月の順番に繰り返されるといいます。惑星のそれぞれ に温・寒・湿・乾の組み合わせから成る属性があり、それが胚の形成にも 影響を及ぼすというのですね。このあたりは『サレルノ問答集』や『人体 形成について』にもあった通りです。そして例によって、七ヶ月めを支配 する「月」は胎児の活力を高める属性があるので出産に適しているとさ れ、続く八ヶ月目の「土星」は、胚の温度を低め、物質的な動きを抑制し てしまうので、出産には向かないなどと説明されます。 ですがピエトロは、これらにもやや批判的なまなざしを向けているようで す。土星はむしろ事物の終局、成熟を意味するし、月は刷新の始まりを意 味すると指摘するピエトロは、惑星の属性と人体との照応関係が、特徴の 類似性をもとに体系化されていると喝破し、惑星の属性の一面にのみ偏っ ていると指摘します。もちろんこの批判は、八ヶ月目の出産はおもわしく ないという全般的な主張を覆すものではなく、あくまで説明の整合性を高 めるために言及されているようなのですが、それでもなお、医学的見地に 比べ秘数的・占星術的な見解にこうした批判のとげが刺さっている点が興 味深く思えますね。事実や観察の優位ということでしょうか、エジプトの ような高温で女性の活力が高い地域ならば、土星の悪しき影響も遮蔽され る、とも語っています。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの自由意志論を読む(その8) 前回の続きです。さっそく見ていきましょう。 # # # [61] Hoc Aristoteles ostendit 12 Metaphysicae de intelligere : alias primum non erit optima substantia, quia per intelligere est honorabile; alias laboriosa erit continuatio, quia si non sit illud, sed in potentia contradictionis ad illud, ad illam sequitur labor, secundum ipsum. Istae rationes possunt declarari. Prima : quia, cum omnis entis in actu primo ultima perfectio sit in actu secundo quo coniungitur optimo, maxime si sit activum, non tantum factivum - omne autem intellectuale est activum, et prima natura est intellectualis, ex praemissa - sequitur quod eius ultima perfectio est in actu secundo. Igitur si ille non est eius substantia, non est eius substantia optima, quia aliud est suum optimum. Secunda : quia potentia solummodo receptiva est contradictionis; igitur. - Tamen nec ista secunda secundum Aristotelem est demonstratio, sed tantum probabilis ratio. Unde praemittit : "Rationales est, " etc. Aliter ostenditur ex identitate potentiae et obiecti inter se; igitur actus est idem eis. - Consequentia non valet; instantia : Augelus intelligit se, amat se; actus tamen non est idem substantiae. このこと(第一者と「みずからを愛すること」の同義性)を、アリストテ レスは『形而上学』一二巻の「知解すること」に関する箇所で示してい る。つまり、そうでないとすると、第一者は最も優れた実体ではなくなっ てしまう。知解するがゆえに高貴だとされるからである。また、そうでな いとすると、(思惟の)継続は苦痛であるということになる。もし第一者 が知性と同一ではなく、可能態において矛盾しうるのであるならば、同著 者によるなら、それゆえに苦痛が伴うからである。 これらの議論は明示が可能である。まず、第一の現実態にあるすべての存 在にとって究極の完成とは、それが最善の結合をなす第二の現実態にあ る。創造できなくとも現実化しうるならば最良である。ところで、知的な ものはすべて現実化しえるのであり、先の結論から、第一の本性とは知的 なものに属する。ゆえに、その究極の完成は第二の現実態にあることにな る。したがって、仮にこの現実態はその実体ではないとするならば、それ は最良の実体ではないことになる。別の何かがその最良であることになる からである。 二つめの議論として、単に受容するだけの可能態は矛盾をなしうるからだ とも言える。したがって……以下略。とはいえ、アリストテレスによれば この二つめの議論は論証ではなく、蓋然的な推論でしかない。ゆえに、あ らかじめ「合理的であるとは」云々と述べているのである。 また別に、そのことを可能態と対象との同一性から示す議論もある。結果 として現実態もまたそれに同一となる。しかしながらその結論は有効では ない。事例を挙げよう。天使はみずからを理解するし、みずからを愛す る。けれどもその現実態は同一の実体ではない。 [62] Haec conclusio fecunda est in corollariis. Nam sequitur primo quod voluntas est idem primae naturae, quia velle non est nisi voluntatis; igitur illa est incausabilis; ergo etc. Similiter : Velle intelligitur quasi posterius, et tamen velle est idem illi naturae; igitur magis voluntas. Sequitur secundo quod intelligere se est idem illi naturae, quia nihil amatur nisi cognitum; ergo intelligere est necesse esse ex se; similiter quasi propinquior est illi naturae quam velle. Sequitur tertio quod intellectus est idem illi naturae, sicut prius de voluntate ex velle argutum est. Sequitur quod ratio intelligendi se est idem sibi, quia necesse esse ex se, et quasi praeintelligitur ipsi intellectioni. この結論は多くの副産物をもたらす。まずは意志が第一本性と同一である ことが導かれる。望むことはほかならぬ意志に属しているからだ。よって それ(望むこと)は原因によって生じるのではない。よって……以下略。 同様に、望むことは後追いであるかのように理解される。一方で望むこと はその本性と同一とされる。したがって意志はいっそうそのようなものと いうことになる。二つめとして、みずからを理解することはその本性と同 一であることが導かれる。認識されたもの以外愛されはしないからであ る。したがって理解することはおのずと存在するのでなくてはならない。 同様に、みずからを理解することは、望むことよりいっそうその本性に近 いかのようである。三つめとして、知性はその本性と同一であることが導 かれる。望むことをもとに上で意志について論じたのと同様である。ま た、おのれを理解する道理はみずからに同一であることも導かれる。それ はおのずと存在するのでなくてはならず、知解に先立って把握されるかの ようであるからだ。 # # # 前回、「未来の偶有に関する神の知」がどういう議論なのかという問題を 宿題にしておきましたが、一つの手がかりは有名な『レクトゥラ I 39』 にあるようです。この『レクトゥラ』はスコトゥスが若い時分に記した文 書とされ、その69節に未来の偶有の話が出てきます。ただ、今読んでい るテキストが「参照せよ」としていたのが、果たしてその若書きの文書の ことを指すのかどうかは不明ですが……。 とりあえずここでは、それを訳出・解説した参考書を見ておきましょう。 羅英対訳本(Vos Jaczn et al. "Contingency and Freedom", Kluwer Academic Publishers, 1994)の序論です。まずアリストテレスによれ ば、過去と現在については事象が成立しているので、それは決定ずみ(限 定ずみ)であり、唯一未来だけが未決定状態ということになります。そし てこの未決定状態こそが偶有なのだとされます。これに対してスコトゥス は、神の知性においては未来もまた決定ずみだとします。このこと自体は 中世神学の伝統的な立場の踏襲ということでしょう。ですが、するとそこ にはもはや偶有の余地などなさそうに見えます。ところがスコトゥスは (ここが斬新な点だというわけですが)、そこで「偶有」と「決定・未決 定」を分けて考えているのだといいます。 スコトゥスが論じるところの偶有とは、ある事象の成立に際して別の事象 が成立する可能性もある場合のことを指すようです。つまり共時的な選択 肢が示されること、です。そしてその「共時的選択性」は、なにも未来の 事象だけに関係するのではありません。スコトゥスはこれが現在において も成立していると考えているようで、この序論の著者たちによれば、それ は過去にも同様にあてはまるといいます。過去の事象は成立してしまって いるけれど、その成立に際しては共時的選択性があったのであり、それは 事象の成立そのものに組み込まれていたのだ、というのですね。偶有が支 える存在論、と言ってもよいかもしれません。いずれにしても、スコトゥ スにおいては、神が未来の事象を決定ずみとして知ることと、その未来の 事象が成立するかしないかという偶有的構造とは別物であり、偶有性は事 物の存在を支える構造そのものをなしているというわけです。うーむ、確 かにそういう観点で見ると、前回、前々回のところで挙げられていた異論 は、決定性と偶有との「混同」ということで一蹴できそうに思えますね。 さて、話を今回の箇所に戻すと、どうやらここで論じられているのは、意 志と知性と愛の体系的布置、あるいは相関関係ということのようです。ス コトゥスのテキストでは、第一者の本性は「みずからを愛すること」にあ り、知性はそのあとに置かれ、さらに意志は知性よりもあとに置かれてい ます。それでいてその三つは同一であるとうのですね。これはまさに、 父・子・聖霊をそれぞれ愛、知性、意志に対応させる、伝統的な三位一体 論をなしてもいます。一方ではまた、愛、知性、意志が原因として生じた のではなく、根源的な「必然」のプロセスでもあるということも、改めて 浮かび上がらせています。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月06日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------