〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.184 2010/12/04 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その22) 胚についての考え方をめぐり、概略だけですが中世の医学関連の文献を少 し見てみました。今回は一応の締めということで、具体的な胚の問題から 離れて、文献全般にまつわる話をまとめておきたいと思います。 参照した文献の特徴としてまず言えることは、どれもきわめて自然学的な スタンスで記されているということでしょう。当初期待したような形而上 学的な事象に触れている箇所はごくわずかで、たとえば魂の付与といった 話題はほとんど出てきませんし、精気などの扱い方も(語弊を承知でいう なら)とても「生物学的」です。こういってよければ、文献はどれも自然 学に属するものと自己規定していたような印象です。いずれも13世紀ご ろに成立した文献でしたが、こうした観点からすれば、当時少なくとも形 而上学と自然学の棲み分け・境界画定はある程度はっきりしていたことが 推測されます。 そうした境界画定は、たとえば後代のパラケルススの『医師の迷宮』(澤 元亙訳、ホメオパシー出版)などにも受け継がれているようです。そこに はこんな一節があります。「医師は哲学者が立ち止まるところから始める べきである。医師は哲学者とは異なることを理解しなければならないか ら」(p.165)。病気の原因として、哲学の側(つまりアリストテレスな ど)から唱えられた体液(=元素)理論を否定して、病気は本来は種子に 由来するのだという説を披露している箇所です。この場合の「種子」が具 体的なものを指すのか、比喩的に使われているのかやや曖昧な気がします が、比喩として解するなら、病気の大元の原因は親から子へと世代間を通 じて綿々と受け継がれている、ということになります。 そしてそれは原罪にまでたどり着くのですね。ハインリッヒ・シッパーゲ スの『中世の患者』(濱中淑彦訳、人文書院)の冒頭部分には、中世にお ける疾病の評価(意味)は多様だとした上で、「病いとは確かに、まず もって罪の報いである。それはわれわれが相続する分け前であり、そして −−死と同じく−−われわれすべての運命でもある」とあります。もちろん ほかに、個人の罪への罰であるとか、過ちを購う機会という意味での神の 恩寵だとも見なされるわけですけれど、ここで言われている「相続する分 け前」こそが、まさにパラケルススのいう「種子」に呼応しています。 そして原罪の残響として病気があるのなら、医者もまたキリストのはるか 末裔ということになるのですね。これもシッパーゲスが指摘しています。 一二世紀半ばのものだというある文献では、キリストはヒポクラテスにも 譬えられているといいます。形而上学とは明確に一線を画する医学は、こ うしてやや逆説的ながら、神学のほうに擦り寄っている感じです。このあ たり、学問的区分として見ても大変興味深い点です。 その一方で、医学は観察や実験のほうへといっそう向かいつつあることも 見て取れます。形而上学からますますはっきりと分かれる契機はそのあた りにもありそうですが、形而上学の側にも、目的因・形相因から作用因へ の考え方のシフトがあったようで、両者は歩を一にしているのかもしれま せん。ブログのほうでもスアレスがらみで取り上げている問題ですが、形 相や本質などをめぐる形而上学的な思弁は、ドゥンス・スコトゥス以後、 原因の共通概念として作用因を重視するようになってきます。それはスア レス(16世紀)にいたって決定的な局面を迎えるようなのですが、とに かく形而上の共通項・概念の探求も、地上世界のより具体的な事物・事象 の考察へと長い時間をかけて移り変わっていったのでしょう。 そうしたシフトと医学における観察の重視とは、パラレルな動きのように 見えるのですが、現段階ではあくまで「印象」の域を出ません。今後、別 の様々な角度から検証・検討し直してみたいものだと思っています。たと えば医学のステータス自体の変遷も押さえておかなくてはなりません。さ しあたり今は、胚をめぐる問題から中世の医学的な論述の一端を眼にし、 そうした全体像に想いを馳せる程度しかできませんが、また改めてアプ ローチしてみたいところです。 さて、次回からは少し矛先を変えて、中世の預言・占いについて取り上げ てみたいと思います。おもにアルベルトゥス・マグヌスとトマスのテキス トを眺めて、学知の世界でそれらの行為がどう取り上げられていたのかを 復習していきたいと思っています。これまた、学知の区分の境界領域を旅 するような感じになればいいなと思っています。お楽しみに。 ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの自由意志論を読む(その11) スコトゥスの『第一原理論』から意志について考察した部分を読んできま した。ちょっと食い足りない感じもしますが(苦笑)、予定していた範囲 は今回で終了です。では早速見ていきましょう。 # # # [66] Octava Conclusio : Intellectus primi intelligit actu semper et necessario et distincte quodcumque intelligibile prius naturaliter quam illud sit in se. Prima pars probatur sic : Potest cognoscere quodcumque intelligibile sic, quia hoc est perfectionis in intellectu posse distincte et actu intelligere, immo necessarium ad rationem intellectus, quia omnis intellectus est totius entis communissime sumpti, ut alibi declaravi; nullam autem intellectionem potest habere nisi eandem sibi - ex proxima; igitur cuiislibet intelligibilis habet intelligere actuale et distinctum, et hoc idem sibi. Arguitur etiam prima pars aliter per hoc, quod artifex perfectus distincte cognoscit omne agendum antequam fiat; alias non perfecte operaretur, quia cognitio est mensura iuxta quam operatur; ergo Deus omnium producibilium a se habet notitiam distinctam actualem, vel habitualem saltem, et priorem eis. - Instatur, quia ars universalis sufficit ad singularia producenda. [66] 第八の結論:第一の知性はいかなる知解対象をも、つねに現実態と して、また必然として、明確に知解する。それは本性からして、知解対象 がそれ自身として存在することに先行する。 前半は次のように論証される。知性がいかなる知解対象もそのようなもの として認識できるのは、明確に現実態として知解することが知性のもつ完 全性に属するからであり、いわば知性の理にとっての必然でもあるからで ある。他の箇所で述べたように、知性はみな、最も広い意味での全存在に 関わるからだ。とはいえ直前の結論から、いかなる知性も、みずからに同 一でなければ知解を持ちえない。したがって、どの知解対象についても現 実態として明瞭な知解を有するとともに、その知解はみずからに同一なの である。 さらに前半は次のように別様にも論証される。完全なる職人は、なすべき ことをすべて実際に行う前に明確に認識する。さもなくば完全には作業で きなくなる。認識とはそれに沿って作業を行う基準だからである。よっ て、みずからすべてを生み出しうる神は、明確かつ現実態として、あるい は少なくとも継続的に認知する。しかもそれらが産出される以前にであ る。だが、これには異議が唱えられよう。普遍的な技法さえあれば、個別 のものを産出するには十分だからである。 Secunda pars de prioritate probatur sic : Quidquid est idem sibi, est necesse esse ex se - ex quinta tertii et prima quarti. Sed esse aliorum a se intelligibilium est non necesse esse - ex sexta tertii; necesse esse ex se prius naturaliter omni non necessario. Probatur aliter : quia esse omnis alterius a se dependet ab ipso ut a causa - ex decimanona tertii : et ut causa est alicuius talis, necessario includitur cognitio eius ex parte causae; igitur illa prior est naturaliter ipso esse cogniti. 後半はまずは次のように論証される。みずからに同一であるものはすべ て、必然的にみずから存在するものである。これは第三章の結論五、およ び第四章の結論一による。しかしながら、おのれ以外によって存在する知 解対象は、必然的な存在ではない。これは第三章の結論六による。よって みずから存在するものは、本性として必然ではないあらゆるものに先立つ のである。 次のような別様の論証もある。みずからと異なるすべての存在は、原因に 依存するのと同様にそれ自身(第一の存在)に依存する。これは第三章の 結論一九による。そして第一の存在がそうした他の存在の原因であるよう に、原因の側からのそれらの認識も必然的にそこに含まれる。したがって その認識は、みずから認識対象となる存在に本性的に先行する。 # # # 今回の部分も知解についてのテーゼを取り上げています。第一の知性によ る知解が、知解対象が存在する前になされる、というのが主旨ですね。例 によって文中の参照箇所をまとめておくと、第三章の結論五というのは 「原因によらないものはおのずと必然的に存在する」、第四章の結論一は 「第一の本性はそれ自体において単一である」、第三章の結論六は「みず から存在するという必然性は、ただ一つの本性にのみ適合する」というも のです。 さて、今回は全体のまとめも兼ねて、前回のインガム論文の続きを見てお きたいと思います。インガムによれば、スコトゥスにおける人間理性の完 成とは、単に知性の完成にはとどまりません。それは神の愛が注がれては じめて達成されるものなのですね。フランシスコ会派に広く見られるとい うアウグスティヌスの照明説への回帰が、ここでは知性を越えて意志にま で拡張されているように見えます。 照明説というのは、神の光に照らされることによって、人間はその照明に より不完全な知性を補われ、知的な理解を得ることができるという説で、 あくまで知性に関する議論ですが、前回も出てきたように、スコトゥスの 場合は合理性は意志に宿っているとされているので、「照明」もまた意志 の側面に関わることになるのかもしれません。知性についての図式がその まま意志のほうへとずらされている印象です。 インガムによれば、フランシスコ会派には、戒律への回帰という、よりラ ディカルな立場を取る論者もいたといいますが、スコトゥスは戒律よりも 神の愛こそが人間的完成を促すという立場を取ります。その意味で、スコ トゥスは急進派ではなく、節度ある中庸的立場を取っていると著者は述べ ます。同様に徳についても、スコトゥスは、主知主義が謳うようにそれを 知性に内在する資質だとは考えていません。「目的を知れば、その目的に 適した手段をも知ることになる」という主知主義の側の議論を斥け、徳と は単に「行動への傾向」にすぎず、その傾向自体が意志による選択の結果 生じるものだと考えている、というのですね。 前にも触れたように、スコトゥスにおいては意志こそが理性的判断の中心 と見なされ、「一義」的に神の意志に通じているとされています。かくし て人間の意志は神の意志から理性的判断と自由とを受け継ぐことになるわ けですね。神の自由は自己規制に裏打ちされた自由です。自己規制とはす なわち自律的に運動できるということであり、人間の意志もまた、そのよ うに自律的に、つまり自己規制的に働くものだとされます。そのため、ス コトゥスの語る自由は無軌道なものではなく、あくまで抑制された自由と なります。自由は意志の中にしっかりと取り込まれていて、理性的判断に よって自己規制されているのですね。 スコトゥスが論じる自由についてインガムは、合理的なものの中にしか自 由はないという堅実な前提に支えられている、と述べています。インガム の論調は、とかく急進リベラルのように語られるスコトゥスのイメージを 穏健派へと修正しようとするもので、ある特定の著者を集中的に批判して います。ま、そのこと自体の是非はともかく、ここで確認しておきたいの は、以上のようなスコトゥスの意志論全体の構図です。それはなんでもあ りというようなものではなく、可能性を選択できる力能としてありながら も理性的に統制されて、倫理的判断ができる強固な意志なのですね。 さて、今回でひとまずスコトゥスの読みを終えたいと思います。スコトゥ スについても検討すべきことはまだまだありそうですが、また折りをみて 検討できたらと思っています。とりあえず、このメルマガの文献講読シ リーズでは、続いて、スコトゥスにも大きな影響を与えたとされるヨハネ ス・ペトルス・オリヴィに進んでみたいと思います。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月18日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------