〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.186 2011/01/08 *明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言の真偽とは(その2) 前回導入ということで取り上げたフランク・グリッフェルの論文は、預言 についてイブン・シーナー(アヴィセンナ)がどう考えていたかを知る上 でも参考になります。というわけで、少し本文の中身も追っておきましょ う。この論考は基本的に、預言をめぐるガザーリーの議論に、イブン・ シーナーの議論がどう活用されているかを検討しています。 まず、12世紀後半に活躍したアシュアリー派の神学者、アル・ラージー の議論が取り上げられます。ラージーは、預言の真偽を判断する際に挙げ られる従来の三つの基準、つまり「奇跡」、「預言者の道徳的行い」、 「過去の預言の諸情報」が、いずれも厳密には信憑性にかけるとして一蹴 します。そもそもラージーにとっての預言者とは、ある傑出した人物のこ とを指します。その人物は、真なるもの・善なるものについて完全な知識 をもつと同時に、そうした知識を欠いた人々を補佐できる人物でなくては なりません。 つまり、完全さと不完全さが混在することこそ人間の必然的な条件だとさ れているのです。そして預言者は、その最上の完全さを体現する人物だと いうわけですね。また、一方で人間は預言なしでも理論的・実践的な完成 に至れるとされます。ここから、預言者のメッセージを人々が検証できる 可能性が出てきます。真なるもの・善なるものがどのようなものであるか を知りうる、その人間的能力をもって判断することができる、というので すね。こうした考え方(前回のところで取り上げたように、これはアル・ ガザーリーが採用する考え方でもあるわけですが)の根底には、実はイブ ン・シーナーの思想があるのだといいます。 イブン・シーナーによる預言の必要性についての議論は二つあり、一つめ は(『治癒の書』の霊魂論の部分によるものです)、人間は本性上社会 的・集団的な生き物であり(アリストテレス的ですね)、その集団には法 の制定が必要で、預言によって与えられる法こそが最良の法なのだという 議論です。もう一つは、人間の中には知的な完成は不均一に配分されてい るので、不完全な知をもつ人々を導き補佐する傑出した人物が必要だとい う議論です。まさに上のアル・ラージーが取り込んでいる考え方です。預 言者というのはそうした「聖なる」知性を湛えた、とりわけて傑出した人 物だとされているわけですが、この論考の著者によると、そこにはイブ ン・シーナーの必然と可能の存在論が色濃く反映しているといいます。つ まり、自立的な必然的存在(つまり神)の周囲を、それ自体は偶有でしか ない多くの存在が囲んでいるという構図です。 続いて今度はガザーリーの話に入っていきます。ここでも、イブン・シー ナーの預言論の取り込みが焦点になります。とくに注目されるのは、預言 者が受け取る啓示がどのようなものかという論点です。そうした啓示は三 種類に分けられます。「想像的啓示」(想像力によるビジョンとして受け 取る)、「知的啓示」(理論的知識として受け取る)、「魂の力による奇 跡の提示」の三つです。この三番目については、ガザーリーは批判的に 扱っているとされます。前二者はイブン・シーナーの認識論・知性論に対 応します。ガザーリー側からすると、問題になるのは知的啓示です。とい うのも、イブン・シーナーの形而上学からすると、知識としての啓示は天 空の魂(知性)からもたらされることになるからです。ガザーリーはこの 「哲学的」見解を、イスラム神学の側から激しく批判しているようなので すが、さしあたりその細かい議論は割愛しておきます。 ではガザーリー自身の預言観はどのようなものなのでしょうか。どうやら それは、預言者の人物像ではなく、預言の文言そのものを重視する立場の ようです。預言者自身も含めて預言を受け取る側が、啓示の内容と、そこ に描かれる対象そのもの(受容する側にとって外的・内的に存在する諸処 の「存在」)とを比較・検証することによって、預言の真偽は判断されな くてはならない、というのですね。ガザーリーはそこで言う対象を五つに 分類(外的対象のほか、四つの心理的対象)しています。それらについて の内的な知識(アプリオリな?)に照らして、それぞれの対象を判断する というのですから、言うほど簡単ではないプロセスです。論考の著者によ れば、ここにもまたイブン・シーナーの内的感覚論などが影響していると いいます。 このように、アシュアリー派の預言論においては、イブン・シーナーの考 え方がとても重要なベースをなしていることがわかります。イブン・シー ナーの思想は西欧にも流入したわけですが、思想的背景や文脈が異なる以 上、西欧側がそれをどう取り込んでいるのかが気になります。というわけ で、次回からはそのあたりの一端を考えていきたいと思います。さしあた り、アルベルトゥス・マグヌスの見解から見ていくことにします。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの意志論を読む(その2) いよいよ今回から、オリヴィのテキストを見ていきます。『命題集第二巻 問題集』から問題一七を読んでいきましょう。 # # # Quaestio XVII Secundo quaeritur an potentia materiae addat aliquid realiter diversum ad essentiam eius Et quid sic videtur. 1. Impossibile enim est diversas essentias esse penitus idem cum une simplici essentia; sed potentiae materiae sunt plures, sicut et actus formales; quot enim modis dicitur unum correlativorum, tot modis et reliquum; essentia autem materiae est una; ergo impossibile est quod sint penitus idem cum ipsa. - Huic autem rationi videtur consentire Commentator, super XI Metaphysicae, super illa parte : "Et dubitandum est in hoc et dicendum ex quo non ente fiat generatio"; ait enim sic : "Non quodlibet ens fit ex qualibet potentia, sed unumquodque entium fit ex eo quod est in potentia id quod fit, id est, ex potentia propria, ita quod numerus potentiarum sit sicut numerus specierum entium generabilium"; dixit hoc secundum Aristotelem, quia opinatur quod sit una secundum subiectum et multa secundum habilitates. 2. Item, quaelibet forma, maxime substantialis, attingit totam essentiam suae materiae et tamen non attingit totam potentiam eius, quoniam si totam potentiam attingeret, illa existentia in ea, non esset possibilis ad aliquam aliam formam; sed si potentia esset penitus eadem cum essentia materiae : quandocumque unum totaliter attingeretur, et reliquum; ergo et cetera. 問題七 第二に、質料の可能性が本質に、現実的になんらかの多様性を付与するか どうか検討する これは次のように考えられる。 一.多様な本質は、単一の本質と完全に同一ではありえない。しかるに質 料の可能性は、形相の現実態がそうであるように複数ある。つまり、相関 する一方と同じだけ、もう一方についても様態が述べられる。とはいえ質 料の本質も一つである。したがって、(質料の可能性は)質料の本質と完 全に同一ではありえない。−−この考え方に、注解者(アヴェロエス)の 『形而上学』第一一巻の次の箇所も一致すると思われる。「これについて 検討し、いかなる非在のものから創造がなされたのか言わなくてはならな い」。というのも、彼はこう述べているからだ。「任意の存在はどの可能 性性からでも生じるのではなく、任意の存在は、かくあるようになること が可能であったところから、つまりおのれの可能性から生じるのである。 かくして、可能性の数は、生成しうる存在の種の数ほどあるのである」。 これはアリストテレスに準じた文言だ。なぜなら(アリストテレスは)、 (質料は)主体としては一つであり、権能としては多であると考えていた からだ。 二.同様に、任意の形相、とりわけ実体的なものの形相は、その質料の本 質全体には達するものの、その可能性の全体には達しない。なぜかという と、もし可能性の全体に達するのだとすると、そこに形相の実在が置かれ た場合、他の形相についてはそれが可能ではなくなってしまうからだ。け れども、もし可能性が質料の本質と完全に同一であったとしたら、一方が 全体に到達しうるときには他方も到達しうるということになる。よっ て……以下略。 3. Item, nos videmus quod materia acquirit novas potentias vel impotentias, secundum quod diversimode disponitur a diversis formis, ut materia corporis humani per formam organizationis fit capax animae; unde et ab Aristotele naturalis potentia vel impotentia ponuntur in secunda specie qualitatis; sed hoc esset impossibile, si essent penitus eadem inter se; ergo et cetera. 4. Item, potentiae propinquae videntur esse diversae a potentiis remotis, unde et plures sunt illae quam istae; sed si omnino sunt idem cum essentia materiae, nulla in eis poterit esse diversitas; ergo et cetera. 三.同様に、異なる形相から様々に付与されるものに従って、質料は新た な可能性もしくは不可能性を獲得するようにわれわれには思われる。ちょ うど人体の質料が、器官の形相を通じて魂を受け入れられるようになるの と同様にである。ゆえに、アリストテレスにおいてもまた、自然の可能性 ないし不可能性は第二の種類の性質に入れられているのである。しかしな がら、仮にそれらが完全に同一であるとしたら、以上のことはありえない ことになる。よって……以下略。 四.同様に、近接する可能性は遠隔的な可能性とは異なるように思われ る。よって、「これら」よりも「あれら」の方が数は多いということにな る。しかしながら、すべてが質料の本質と同一であるなら、そのどれもが 違うことはありえなくなってしまう。よって……以下略。 # # # 論述は基本的に(一)一般的な議論、(二)自説、(三)反論への対応と いう形で展開しています。この箇所は冒頭の一般的な議論の部分にあたり ます。質料の本質は一つだが、可能性は多数あり、両者は別々のものとし て考えられるという話がちょうど変奏のように繰り返されています。つま り、両者が完全に一致することはなく、可能性は本質になにがしかの付与 をもたらしている、というわけです。どうやらオリヴィはこれを論駁して いこうというのですね。 その興味深い議論は次回からということになりますが、今回はまず、オリ ヴィ本人について少しまとめておきたいと思います。ペトルス・ヨハネ ス・オリヴィは1248年頃に南仏セリニャン(ラングドック地方、ベジエ 近郊)に生まれ、12歳でベジエにてフランシスコ会入りしました。1267 年から72年までパリ大学で学び、ボナヴェントゥラやジョン・ペッカ ム、アクアスパルタのマテウスなどに師事しますが、その後はプロヴァン ス地方に戻り、説教師になっています。当時フランシスコ会派には穏健派 と急進派があり、オリヴィは清貧の教えを厳格に守るという急進派の立場 を取ります。 ところがそうした姿勢が反発を買い、1282年にオリヴィは告発され、異 端の嫌疑をかけられます。翌83年から異端かどうかの審議が行われ、オ リヴィは弁明書を記していますが、かなり分の悪い状況が続きま す。1285年に修道会総長が代わると(プラトのアルロット)ようやく事 態は好転し、1287年にはモンペリエの修道会総会で正統性が認められ、 修道会総長となったアクアスパルタのマテウスによって、1287年から89 年にかけてフィレンツェのサンタ・クローチェ修道院に教師として派遣さ れます。ダンテもその講義を聴講したことがあるといいます。 オリヴィはその後も南仏で説教師としての活動を続け、1298年に没しま す。仲間の修道士に見守られた穏やかな死だったようですが、死因は不明 です。オリヴィはこの晩年には数々の著作を完成させていたようです。そ して没後に再び物議を醸すことになります。墓石が建てられたナルボンヌ を中心に、一種のオリヴィ信仰が高まりを見せるのですが、その支えと なった著書の一つ『黙示録注解』ともども排斥を受けます。1299年には リヨンの修道会総会で、著書を焚書扱いにする決定が下されます。その急 進的な清貧思想も再び糾弾され、1318年にはオリヴィの墓石が破壊され ます。その後事態はまたも好転し、1323年の教皇令、1326年の判決に よって糾弾が取り除かれます。なんとも数奇な運命ですね。 ブラバントのシゲルスもそうですが、オリヴィもなにやら波瀾万丈の生涯 という感じで、とてもドラマチックです。小説か何かの主人公になれそう な気もします(笑)。基本的にどこか挑発的な物言いが、そうした敵視を 招いているのかもしれません。かくしてオリヴィは後世において、プロテ スタントの先駆とも言われるようになるのでした……。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は01月22日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------