〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.187 2011/01/22 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その3) それでは今回から複数回に分けて、アルベルトゥス・マグヌスの『預言に ついての問題』(Questio de prophetia)をざっと見ていくことにしま す。底本はガルッツォ出版から出ている"Question de prophetia", a cura di Anna Rodolfi (2009)です。その序文によると、アルベルトゥス のほかの書での示唆などから、同書は1245年から48年ごろだろうとされ ています。これ、ちょうどトマスがアルベルトゥスの講義に出ていたころ なのですね。内容的には三部に分かれています。第一部がそもそも預言と は何かを扱い、第二部は預言者と預言の関係について問い、第三部は預言 される当の対象について考察しています。とくに第二部の預言者について の話が長尺になっています。先のアヴィセンナ思想との関連というあたり が特に気になるところです。 さっそく第一部から見ていきましょう。論述形式はおなじみの、テーゼと それへの異論を提示した後に、自説を示して(この部分は省かれることも ありますが)それらの異論を論駁するというスタイルです。第一部の前半 では、まず出発点のテーゼとしてカッシオドルスの言が引かれています。 「預言とは神的な啓示もしくは霊感であり、事象の発生について揺るぎな い真理として伝えるものである」という定義を掲げます。次いでこれに対 する一九ものコメントが異論として提示され、その後、それぞれの異論に 対するコメントが反駁として続きます。すでにして結構長いパッセージに なりますので、個別に詳細に追うことはせず、主なポイントをまとめるの みとします。 アルベルトゥスは上のカッシオドルスの言葉の意味を逐一検証する感じで 論を進めています。「啓示もしくは霊感」という部分についてアルベル トゥスは、預言をなす表徴(しるし)は、まずは想像力において見出され るとし、その上で精神においても(知的にも)捉えられる、としていま す。預言のことを「ビジョン」などと言いますが、それはいずれにしても 内的なものであり、その意味で霊感と解釈されるというのですね。次にア ルベルトゥスは、啓示というものを「認識を可能にする原因をもたず、本 来ならば認識不可能なもの」と定義します。そして預言はまさしくそうい うものであるとして、上のカッシオドルスの定義を擁護します。本来なら 認識不可能なものが、霊感を通じて内的に与えられる、それが預言だとい うわけですね。 「神的」という部分についても検討しています。もちろんそれは「神によ る」という意味なのですが、異論で出てくる「天使による霊感の可能性」 という議論を取り上げ、天使の認識はあくまで自然的なものであり、未来 の予知という意味では人間に比べて秀でてはいないとして、預言の霊感が 天使(や悪魔)によるものである場合があるという議論を斥けます。天使 に予知が可能であるとすれば、それもまた神からの霊感によるものなの だ、というのですね。こうして神的な霊感は天使による霊感とは別物とさ れ、預言はあくまで神的な霊感によるものだと論じられています。「天使 の認識論」という問題は、それ自体としても思想史的に探求できる興味深 い問題です。 続いて今度は「事象の発生」が問題になります。事象の発生には原因(な ぜ起こるか)や時間(いつ起こるか)が関係しますが、アルベルトゥスは ここで、預言が扱う事象は、原因が人間の認識から隔たっている事象であ り、未来の事象は現在や過去において原因を認識できないがゆえに、まさ にそうした事象をなす、と分析します。異論においては、預言で示される 内容がいつの時間(過去、現在、未来)なのか特定できないという議論が なされているのですが、アルベルトゥスはこれに対して、預言者は啓示内 容を、それが指し示す事象や啓示の原因と照らし合わせる形で、それがど の時間に関わるのかを検証できるのだと述べています。これはちょうど、 前回取り上げた、ガザーリーが論じている預言の真偽の判断方法を彷彿と させますね。 「揺るぎない真理」についても注釈的に述べています。アルベルトゥスは これを原因の観点から検討します。預言が「揺るぎない真理」と言われる のは、啓示される未来の事象が上位の原因の秩序にもとづいているからで す。ではここでの原因とはどのようなものでしょうか。アルベルトゥス は、原因はその事物の存在をめぐる因果関係を規定するだけでなく、存在 するものの秩序をめぐる因果関係をも規定するとし、とくにこの後者の因 果関係(「君が走っているのを私が見るとするなら、必然的に君は走って いなくてはならないが、和私の視覚が君の走りに作用するわけではな い」)こそが、まさしく預言や予見において未来の事象を受け取る様態な のだと述べています。そしてこのことが、「揺るぎない」もしくは必然的 と称されるのだ、としています。 こうしてみると、このわずかな議論の中にすら、天使の認識論、時間論、 原因論など、それ自体で大きな問題として扱われる議論が凝縮されて盛り 込まれているのがわかります。その意味で、このテキストはアルベルトゥ スの神学・哲学思想の一端を覗かせる興味深いものかもしれません。で も、さしあたりここではそれらに深入りせず、預言の諸相のみを概観して いきたいと思います。続いて同書の議論は、第一部の後半、預言の様態へ と移っていきます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの意志論を読む(その3) オリヴィの『命題集第二巻の諸問題』問題一七を読む二回目です。前回の 異論部分に続き、オリヴィの自説が展開する箇所に入ります。 # # # Respondeo Dicendum quod licet quidam dixerint quod potentia sit accidens materiae et ita quod addat aliquid secundum rem diversum ad ipsam, moti ex rationibus praedictis et etiam quia ubique sumpserunt pro primo principio quod ubicunque est diversitas rationum realium, semper est ibi diversitas essentialis, constat autem rationem potentiae et rationem essentiae ipsius materiae esse rationes diversas, et ita quod quaelibet earum est in materia secundum rem et non solum secundum modum intelligendi: credo tamen cum aliis quod penitus sint eadem secundum rem. Si enim essent diversae, tunc potentia esset recepta in essentia materiae; recepta autem esse non posset, nisi materia haberet in se aliam potentiam per quam posset eam recipere, et sic iretur in infinitum. Oporteret etiam quod ipsa potentia esset quaedam forma, quia omne quod inhaeret materiae et quod determinat eam aliquo modo est forma materiae, unde et materia ordinatur ad omne quod in se recipit sicut ad suum actum, unde et prius erat possibilis ad recipiendum illud; non dicitur autem possibilis nisi respectu actus, et etiam quia omne accidens ponitur in genere formarum. Nec mirum, quia cum ens sufficienter dividatur in materiam et formam et aggregatum ex eis seu compositum, certum est autem quod nullum accidens est materia nec aggregatum ex materia et forma : ergo necesse est quod omne accidens sit forma. / / Nemo autem rationabiliter dicere potest quod potentia materiae sit forma, cum per eam non significemus nisi solum ordinem materiae ad formam. Et praeterea constat quod non posset esse forma substantialis, quia talis dat materiae esse substantiale actu determinatum, quod nullo modo potest convenire ipsi potentiae; nec forma accidentalis esse potest nec etiam aliquo modo accidens, sicut in questione de materia substantiarum intellectualium est ostensum ex parte rationis ipsius accidentis et rationis subiecti seu suppositi et rationis ipsius potentiae et corporalis materiae et potentiarum animae. - Ratio igitur receptionis et inhaerentiae clamat ipsam potentiam non esse aliquid diversum ab essentia materiae. 回答 次のように言わなくてはならない。一部の論者は、可能性とは質料の偶有 のことであり、よってそれは事実上異なるものを質料に加えるのであると 述べている。その論拠は上で述べた理にあるのだが、さらに、実際に異な る理があるところには常に異なる本質があるということを、いたるところ で第一原理と見なしているからでもある。しかしながら、可能性の理と、 その質料に属する本質の理とは互いに異なる理であり、よってそのいずれ も事実として質料に属するのであって、単に認識の様態において質料に属 するのではないことは明らかである。だが一方で私は、ほかの論者と同様 に、両者は事実上完全に同一であると考える。 というのも、もし両者が別物であるなら、その場合可能性は質料の本質に 受け入れられることになる。しかしながら、その受け入れが可能なのは、 質料そのものにその可能性を受け入れる別の可能性がある場合のみであ り、こうして議論は無限後退してしまう。また、可能性そのものが何らか の形相である必要がある。なぜなら、質料に内在し、なんらかの形でそれ を限定するものはすべて、質料の形相であるからだ。ゆえに質料は、みず からの現実態に対してと同様に、みずからのもとに受け入れるすべてに対 して秩序づけられるのであり、ゆえに質料にはその前から、それを受け入 れることが可能であったということになる。しかしながら、可能であると いうのは現実態に関してのみ言われるのであり、また、あらゆる偶有は形 相の類に属するがゆえにそう言われるのである。このことは驚くには当た らない。なぜなら、存在するものは的確に、質料と形相とその集合体ない し複合体に分かれ、また一方で、いかなる偶有も質料ではなく、質料と形 相の集合体でもないことは確かだからだ。よって、必然的にすべての偶有 は形相であるということになる。/ /けれども、質料の可能性が形相をなしている、と合理的に述べることは 何人にもできない。質料の可能性と言う場合、われわれが含意するのはた だ形相に対する質料の秩序のみだからだ。加えて、可能性が実体の形相で はありえないことも明白である。なぜなら、そのような形相は質料に、限 定された現実態の実体的存在を与えるからである。それはいかなる形にお いても、可能性そのものには適合しえない。また、それは偶有的なものの 形相でもありえないし、いかなる形の偶有でもありえない。そのことは、 知的実体の質料に関する問いにおいて、偶有そのものの理、主体ないし代 示の理、さらには身体的質料の可能性や魂の可能性の理から示した通りで ある。受け入れと内在の理からは、質料の可能性は質料の本質と異なるも のではないことが明示されるのである。 # # # 質料がもつ可能性とは、質料が形相と結合して実体となるときの本質(す なわち形相)とは別に、実際上その質料にあらかじめ内在する特性を言う というわけです。で、そうした特性があるためには、質料はすでにして、 いわば不完全ながら現実態を形作っていなくてはならず、その意味で質料 には「質料の本質」がなければならない、というのですね。ここから、 「質料の本質」イコール「質料の可能性」ということになるのでしょう。 質料に「質料の本質」があるというこの独特な質料観はどのようにしても たらされていたのでしょうね。先行する類似の考え方があったのでしょう か。このあたりは難しそうな問題ですが、少し探ってみたい気もします。 とするなら、まずは師匠筋にあたる、ボナヴェントゥラ、ジョン・ペッカ ム、アクアスパルタのマテューあたりに、そうした議論の萌芽があるかど うか見てみるのが筋かなと思います。 以前にも取り上げたことがありますが、坂口ふみ『天使とボナヴェントゥ ラ』を復習しておくと、ボナヴェントゥラは個体化の原理を、形相だけに あるのでも質料だけにあるのでもなく、両者の結合に見出したのだとされ ています。ボナヴェントゥラの説は、「形相も質料も独立存在ではなく、 どちらかだけでは実なる存在を生じえない、という思想の表現」(p. 202)だと著者は記しています。では質料と形相のどちらが主なのかとい うと、実在、つまり「これ」であることをもたらすのは質料である、とさ れているのですね。「実在することを質料は形相に与え、存在の現実性 (actus)を形相が質料に与える」(p.203)というのです。 とはいえ、質料がそれ自体でなんらかの現実態を作っているという話には なっていないようです。孫引きになりますが、同書が引いているボナヴェ ントゥラの一節に「個体は現実態における存在者であり、質料は可能態に おけるそれ」(つまり存在者)だというのがあります(p.204)。それに 続く箇所では「普遍的形相はある意味で現実態であり、ある意味で可能態 である」となっていて、坂口氏はこれを、ボナヴェントゥラの個体が種に 先行するという考え方と突き合わせて、「普遍的形相はなんらかの個別的 形相から引き出されることによってのみ存在すると言われる」としていま す(同)。 つまりボナヴェントゥラにあっては、形相は個物の中にあるものが主で (つまり先行し)、形相全般はその後に成立するものとされているのです ね。そしてこの後者は、現実態でもあり可能態でもあるというのです。で は質料もそう考えてはどうでしょうか、さすれば「質料も可能態でありな がら現実態でもある」みたいな話になりそうですが……。ボナヴェントゥ ラはさすがにそこまでは行っていないようなのですが、少なくとも質料が 個別化の上で大いに重要な役割を果たすと考えた点で、そのような類推を オリヴィに与え、その考え方を方向づけたのかもしれません。いずれにし てもこの個物重視、質料重視の考え方は、その後のフランシスコ会の思想 的基礎となっていった模様です。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月05日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------