〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.188 2011/02/05 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その4) 引き続き、アルベルトゥス・マグヌス『預言についての問い』の概要を 追っていきたいと思います。前回取り上げた第一部の前半では、カッシオ ドルスの定義を解釈する形で預言の諸特徴を論じていました。第一部の後 半になると、今度は預言の様態についての議論になり、ヒエロニムスの言 葉がもとになります。預言には「神の定め」に由来するもの、「神の予 見」に由来するもの、「神的な警告のしるし」があるというヒエロニムス の言葉について、再び異論と自説と反論が展開します。 とりわけ問題になるのは、これらがいずれも自由意志に反しているのでは ないかという点です。アルベルトゥスの解釈では、預言内容となる事象は 自由意志のもとに下るものもあればそうでないものもあり、後者、つまり 自由意識にもとにないものが「定め」に属します。自由意志のもとに置か れる事象は、さらに端的・絶対的なもの(自由意志によって揺るがないも の)と自然的・二次的な原因に結びついたものに分かれ、前者が「神の予 見」、後者が「しるし」に属するとされています。このあたり、スコラ学 に見られる分岐的・分析的思考の好例でもあります(異論への反論部分で は、「定め」もまた二種類に分かれるといった議論が示されていますが、 とりあえずこれは割愛します)。 第二部になると、今度は預言者から見た預言というテーマで議論が進みま す。扱う議論は四つで、それぞれ一節ずつが割かれています。一.預言者 が受け止める預言の様態とはどのようなものか、二.預言とは自然の恵み なのかどうか、三.恵みは無償でもたらされるのかどうか、四.預言のビ ジョンにはどういう種類があるか、という具合です。 まず第一節から見ていきますと、この問いは知性論、スペキエス論に関係 してきます。アルベルトゥスは、預言者が受け止めるもの(「永遠の鏡」 と称されます)は神そのものでもなければ、聖人の言葉の想起でもなく、 むしろ「師の言葉」のようなものだと述べています。師匠の教えが難解な 事象の理解を促すように、預言もまた、それを受けることによって感覚的 な与件(身体的なもの)を精神的なもの(知性)へと翻案し理解すること が促されるのだ、というのでしょう。知性へと差し出される感覚的与件の 像のことを中世思想ではスペキエスといいますが、では預言者が受け取る のはスペキエスなのでしょうか。アルベルトゥスはこう続けます。視覚の 成立に三重の光が必要とされるように(事物を個別に可視化するおおもと の光、事物を抽象化する知的な光、そして視覚を構成する光)、内観にお いても、魂の中にあって原理をなす能動知性の光、それを受け止める可能 知性の光、知解対象となる事物のスペキエスの三つが必要とされる。そし て預言者が受け取る「永遠の鏡」とは、可能知性に働きかける能動知性の 作用であって、けっしてスペキエスそのもののことではない、と。 アルベルトゥスは「火にかけられた鍋」(エゼキエル書)を例として挙げ ています。預言者がそういう像(スペキエス)を与えられたとき、すぐに それを「エルサレムの火災」とは解釈できません。かくして、上に示した 「翻案」こそが重要になります。それを補佐するのはほかならぬ「端的な 光」、つまりは神の介入だとされています(これは魂の中にもともとある とされる能動知性とも違う、知性の働きを促すおおもとの作用ということ でしょう)。 でも、アルベルトゥスの知性論からすると、そうした神の介入(アウグス ティヌス以来の長い伝統のある考え方ですね)は、自然的な知解のプロセ スにおいても遂行されるものではなかったでしょうか。では、預言はそれ とどう違うのでしょうか。預言もまた自然な営為のうちにあるものなので しょうか。こうして第二節の問いが開かれます。「預言は自然の恩恵なの か、それとも自然に上乗せされる恵みなのか」。結論だけ先取りしておく と、アルベルトゥスは(哲学において言われるとされるような)人間の認 識の不完全さを補完する「知性の自然的な完成としての預言」を支持して はいないようで、自由意志に依存する不確定的な未来は結局のところ神の みが認識するところなのであり、人間へのその啓示はあくまで自然の枠外 でなされる、と考えているようです。預言における神の介入は、自然な知 解プロセスとは次元が異なる、ということなのでしょう。 この第二節は、大筋よりもむしろ細かい点で興味深い議論が見られるよう に思われるので、次回も引き続きこの第二節から見ていきたいと思いま す。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その4) 『命題集第二巻の諸問題』問題一七の自説部分の続きです。さっそく見て いきましょう。 # # # Ostendit etiam hoc ipsa essentia materiae et ratio eius. Omnibus enim aliis amotis ipsa per se est sufficienter possibilis ad omnia quae in ea possunt esse; unde nullo modo potest intelligi nisi ut possibilis. Si autem potentia diceret aliquid ab ea diversum, potentiis amotis ipsa non esset possibilis ad aliquid et ita de se nullum haberet ordinem aut respectum ad suas formas possetque intelligi ut non possibilis et sic per consequens ut a nullo determinabilis; et ita sequeretur quod cum omne ens sit determinabile ab alio aut terminus seu determinatio eius, quod ipsa posset intelligi vere ut quoddam ens de se sufficienter determinatum. / / 質料の本質とその理も、やはりこのことを示している。ほかのすべて (の限定)を取り除いても、質料の本質そのものは、その内部に存在しう るすべてのものに対して、十分な可能性をもっているからである。よって いかなる形でも、それは可能性としてしか理解しえないのである。仮に可 能性はそれとは異なる何かだとすると、可能性を取り除いてしまえば何か に対して可能ではなくなってしまい、形相に対する秩序ないし関係をみず からまったくもたないことになる。そうなると、不可能性として理解され うることになり、結果的にいかなるものによっても限定されえなくなる。 すると次のことが帰結する。あらゆる存在者は、他のものから限定されう るか、もしくは他のものの項となるかそれを限定する以上、質料の本質 は、まさしくおのずと十分に限定されたなんらかの存在者として理解され うるのである。 - Praeterea ita se habet materia ad suam possibilitatem sicut forma ad suam actualitatem et ita immediate materia refertur ad formam sicut forma ad ipsam; sed actualitas ipsius formae non dicit aliud ab essentia eius, cum forma et actus sint idem. Et etiamsi diceret aliud, tunc essentia formae nullam haberet de se actualitatem seu actum. Ipsa etiam forma per suam essentiam refertur ad materiam, unde et solam suam essentiam informat eam; ergo materia et sua possibilitas erunt omnino idem et materia per solam suam essentiam referetur ad formam. 加えて、質料がおのれの可能性に対してもつ関係は、形相がおのれの現実 性に対してもつ関係と同様である。形相がただちにおのれ自身に関係づけ られるのと同様に、質料はただちに形相に関係づけられるのである。しか しながら、形相と現実態とは同一なのであるから、その形相の現実性とは まさしくその本質を意味するということになる。たとえそれがほかのもの を意味するのだったとしても、形相の本質がそれ自体として現実性や現実 態をもつことはまったくないだろう。形相そのものは、その本質によって 質料と関係づけられる。ゆえに、ただその本質のみが質料に形を与えるの である。したがって質料とその可能性はあらゆる点で同一ということにな り、質料はただその本質のみによって形相と関係づけられるということに なる。 - Praeterea, definitio materiae est ens in potentia seu ens possibile; ergo possibilitas seu potentia est pars suae definitionis et ita ad minus est pars suae essentiae; sed non potest esse pars, quin sit idem penitus cum tota eius essentia, cum materia sit unum de primis principiis et ita non possit esse composita ex diversis principiis quorum unum sit genus, alterum vero differentia eius. 加えて、質料の定義は可能性における存在者、もしくは可能なる存在者で ある。したがって、可能性ないし潜勢態はその定義の一部をなし、少なく ともその本質の一部をなす。しかしながらその本質と完全に同一である以 外に、それが一部であることなどありえない。質料は第一原理の一つであ り、類やその差異といった各種の原理からなる複合物ではありえないから である。 # # # 今回の箇所でも、質料と形相が不可分的に結びついていることが繰り返し 指摘されています。両者の結びつきこそが、存在あるいは現実態を成立さ せる根源であり、単独では不完全なものでしかないというわけなのです が、一方で質料は可能性という本質をもち、形相は現勢化という本質をも つというように、それぞれがある意味独立しているような文言もありま す。このあたりの微妙な感じをどう理解すればよいのでしょうか。 前回取り上げたボナヴェントゥラは、質料と形相の不可分性を強調してい るということでしたが、今回はその弟子にあたるジョン・ペッカム (1230頃〜1292)を取り上げてみます。オリヴィの先輩筋ですね。 ペッカムはパリで学び、後にオックスフォードで教鞭を執り、後にカンタ ベリーの大司教になった人物です。思想的にも興味深く、たとえば知性の 二重性(能動知性と可能知性)の議論では、真の能動知性は神そのものだ と主張し、能動知性の分離を訴えたりしています。 では質料形相論についてはどうでしょうか。ここでは、オンライン公開さ れているほぼ最新の博士論文を見てみたいと思います。マイケル・B・ス リヴァンという人の「一三世紀後半における霊的質料をめぐる議論」 (Michael B Sullivan, "The Debate over Spiritual Matter in the Late Thirteenth Century: Gonsalvus Hispanus and the Franciscan Tradition from Bonaventure to Scotus", The Catholic University of America, 2010)というものです(ダウンロード先→http:// test.aladin.wrlc.org:8060/dspace/bitstream/123456789/748/1/ Sullivan_cua_0043A_10097display.pdf)。霊的質料の考え方の変遷 を追って、ボナヴェントゥラを始めとする様々な論者の説を取り上げてい ます。ペッカムにも一節が割かれています。 霊的質料というのは、要するに魂もまた質料と形相から成るという考え方 です。ペッカムもボナヴェントゥラから受け継ぎ、踏襲しているのです ね。実体という類には精神的(霊的)なものと肉体的(物質的)なものが あり、実体は霊的・物質的の区別よりも高次のが高いので、片方を構成す る原理(形相と質料)はもう一方にも適用されなくてはならない、よって 物質的実体が質料と形相によって構成されているのであれば、霊的実体も そうでなくてはならない、という議論です(同論文、pp.143-144)。 ペッカムはさらに、「魂が実体で、人間そのものも実体なら、二重の存在 になってしまう」という異論に対して、魂は質料と形相から成る複合物で あるものの、その複合体は不完全であり、これが形相の役割を担って身体 と結びつき、もう一段上の複合体を作ることになる、という見解を示して いるようです(p.144)。これはボナヴェントゥラには見あたらない議論 なのだとか。この、不完全な複合物が完成に向かって別の複合物を形成す るという考え方、あるいは複合体そのものがまた形相ないし質料の役割を 果たすという考え方は、オリヴィにはしっかりと見られるものでした(だ いぶ以前に別の文脈で触れたことがあります)。オリヴィはペッカムの議 論をしっかりと踏襲しているわけですね。 この論文の著者によると、ペッカムの見解はボナヴェントゥラとは細かな 点で違っているといいます。たとえばペッカムは、質料はそれを扱う学知 によって物体的質料、数学的質料、霊的質料に分かれると議論しますが、 ボナヴェントゥラも似たような区分は設けているものの、数学的質料は含 まれていません。ペッカムのこの数学的質料の考え方は、体系を危うくす る波乱含みなもののようです(p.147)。そして、もっと重要な点とし て、ペッカムが「質料にも形相にもそれぞれ独自の存在がある」という議 論を展開していることを著者は指摘しています(!)(p.148)。両者の 結びつきを重視したボナヴェントゥラにペッカムは必ずしも忠実ではな い、とこの著者は述べています。 こうしてみると、どうでしょうか。オリヴィはもしかすると、ボナヴェン トゥラの質料・形相不可分論とペッカムの質料・形相独立論とを調停する ような立場に立っているのかもしれません。ま、これはあくまで推測とい うか、一種の作業仮説ですので、本当にそう言えるかどうか検証を要しま す。オリヴィ、ペッカム、ボナヴェントゥラのテキストに直接当たる必要 がありますね。というわけで、このあたりの話は今後改めて詰めていきた いと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月19日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------