〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.190 2011/03/05 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その6) アルベルトゥスの預言的ビジョンの三区分はアウグスティヌスに準じてい ます。その(三)は知的ビジョンというものでした。これは何かという と、おそらくは直接的に預言内容が思惟もしくは命題として心に浮かぶと いう類のものではないかと思われます(具体的な説明がないので、今一つ はっきりしない感じですが……)。ここでのアルベルトゥスの論点は、そ のような知的ビジョンが、アウグスティヌスの言うように「本質的に魂の うちにあるもの」によってもたらされるのか、あるいはそこに知性は関与 しているのかという問題です。当然これは知性論になりそうですね。 アルベルトゥスは三つの考え方を取り上げています。一つめは、知性が理 解する対象、すなわち「モノ」の本質は、いっさい知性のうちにはないと いう考え方です。知解対象となる「モノ」はあくまで外部にあり、認識す る主体の魂の中には「スペキエス(形象)」(魂にもとよりあるか、ある いは外部のモノから受け取るか、いずれにしても一種の感覚与件ですね) があるだけだ、というわけです。知性は、そのスペキエスがさらに捨象さ れた抽象的な表象にのみ関わるというのでしょう。知性と魂とが別々に捉 えられている点に注意が必要です。少々穿った見方をすると、これは知性 の分離を強調するという意味で、アヴェロエス的と言えるかもしれませ ん。 ですがアルベルトゥスが指摘するように、その場合には魂の中にあるモノ の理(形相?)が、「本質」ではなく「存在者」(具体的な実体をなして いるモノ)に属することになり、知性に立ち現れるモノの表象は、端的に ではなく、偶有的に存在することになってしまいます。本質は端的に存在 するとされますが、実体は偶有性を纏っているからです。ですがここで不 都合が生じてしまいます。偶有性は必ずなんらかの本質に付随するわけで すから、偶有が帰する本質がなくてはならないのですが、知性(魂)の中 にはそうした本質が見あたらないことになってしまうのです。アルベル トゥスはこれを難ありと見ています。 二つめは、知解対象はすべて実体として知性の中にあるという考え方で す。アウグスティヌスの言を大きく拡張・敷衍する立場で(おそらくフラ ンシスコ会派を念頭に置いているのでしょう)、本質イコール実体と考え る点で、これはアリストテレスに反する立場でもあります。アリストテレ スは、実体としてのモノは外的な存在であり、魂の中にはその表象 (similitudo)のみがあるとしているのでした。アルベルトゥスが報告す る「彼ら」の考え方は次のようなものです。モノの実体は形相とイコール であるけれども、もとより質料的存在をももっており、その存在ゆえに偶 有的に「今ここに」ある。その一方でモノの遍在的・永遠的な側面は魂の 中にあり、そちらのほうが高貴である……。アルベルトゥスはあえて論難 してはいませんが、これも難ありと考えているのは明白です。 アルベルトゥスはこれら二つの立場を列挙してはいますが、三つめの立場 がより蓋然性が高い(verior)としています。それは、アウグスティヌス の言は知性の中での知解対象にのみ該当し、魂のうちにあるものすべてに 当てはまるのではない、という立場です。これはいわば上の二者の折衷案 のようなものです。異論への反駁部分で説明されていますが、アルベル トゥスは、知解されるモノとはあくまでモノの「本質」であり、かかる本 質こそが知性の中にあるのであって、その存在(実体)面はスペキエスと して魂の中にあるとしています。 ここでは知性と魂とが用語として明らかに区別されています。アルベル トゥスの言う「知性」は、やはりどこか分離(つまり質料に関わらない) という側面が強調されているように思われます。質料(感覚的与件も含め た)に関わるのは魂のほうで、知性は質料にはいっさい与らない、という わけですね。これは、アヴィセンナやアヴェロエスがもたらした能動知性 (人間の質料的知性を照らす、分離した純粋な知性)の考え方が色濃く影 響しているせいではないかと思われます。もちろん、アルベルトゥスにお いては能動知性も各人の魂の中にあるとされていたのでした。 アルベルトゥスによれば、質料的なものによらない(つまりスペキエスな どを介在させない)知性による本質理解とは、知性のうちにモノ(知解対 象)を浮かび上がらせる対象化の作用(intentiones)を意味します。こ のintentioというのはなかなか訳しにくい用語ですね。アルベルトゥスは ここではさらっと述べているにすぎませんが、おそらくこれは、知性が対 象を志向したときに、対象の本質がおのずと現れてくるような状態のこと を言うのでしょう。ブログのほうでも触れましたが、小林剛『アルベル トゥス・マグヌスの感覚論』(知泉書館、2010)によると、感覚と意味 の複合を分離する悟性的な働きは、アルベルトゥスの場合、魂の感覚機能 に属するとされているようです。ということは、知性はあくまで意味作用 の操作にのみ関わるということになるのでしょうか。預言の知的ビジョン というのも、まさにそのような思惟なのでしょう。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その6) 今回は自説部分の最後の箇所です。この後、先の異論への反駁が続きま す。ではさっそく見ていきましょう。 # # # - Tertium autem multo minus stare potest, tum quia materia non recipit suam potentialitatem a formis, tum quia ad hoc omnia praedicta inconvenientia sequuntur et etiam ampliora, sicut satis de se patet. - Praeterea, si potentia ista non dicit essentiam materiae nec essentiam formae: quaero cuiusmodi essentiam dicit; et specialiter quaero quomodo dicit talem essentiam quod per eam materia sit potens recipere et sustinere formas et sine ea nullo modo sit potens; et credo quod non poterit dari. Unde ipsa ratio potentiae, si bene pensetur, satis hoc ipsam clamat; non enim videtur quod possit dicere per se aliquam naturam aliam ab illa in qua fundatur. Si autem aliquis dicat quod partim est eadem cum essentia materiae, partim diversa : contra hoc est, quia aut ideo dicitur partim diversa, quia aliquid addit diversum, aut quia licet nihil addat diversum, non tamen dicit totam essentiam materiae, sed solum aliquam partem eius. Primum autem stare non potest, quia ad additionem illius diversi sequuntur inconvenientia prius tacta et praeter hoc sequitur quod potentia materiae esset compisita ex essentiis diversorum generum, scilicet ex essentia materiae et ex illo diverso quod addit ad eam; quod quantas absurditates continet satis patet. - Secundum etiam stare non potest, tum quia in essentia materiae non est dare talem compositionem, tum quia illa alia pars quae cum ipsa potentia constitueret materiam non esset potentia et ita, ut videtur, esset actus et sic materia esset composita ex potentia et actu. 三つめはさらにありえない。質料はおのれの可能性を形相から受け取るの ではないからであり、また、おのず十分明らかであるように、その場合に は上に述べたあらゆる不都合のほか、より大きな不都合も生じるからであ る。加えて、仮にその可能性が質料の本質でも形相の本質でもないとする と、どのような本質を意味するのかと私は考えてしまう。特に、質料が形 相を受け取って支えることを可能にするような、かつそれなくしてはまっ たく可能とはならないような本質を、どうすれば意味しうるのか考えてし まう。私にはそれがそのような意味をもたらしうるとは思えない。このよ うなわけで、可能性の理は、的確に考察するならば十分にそうしたことを 示すのである。おのれを基礎づけているもの以外の本性を、みずから意味 しうるとは考えられないのだから。 もし誰かが、(可能性は)部分的には質料の本質と同一であり、部分的に は異なると述べるのであれば、それには異論を唱えねばならない。「部分 的に異なる」と言うのは、何かが違いを付加するからであるか、もしくは 何ら違いを付加しないものの、質料の本質全体ではなく、あくまでその一 部を意味するにすぎないからかのいずれかだからである。しかるに前者は 成立しえない。そのような差異の付加には、先に触れたような不都合が付 随し、またそのほかにも、質料の可能性が類の異なる本性から成る複合 物、つまり質料の本質とそれに付加される差異から成る複合物であること になってしまう。そこにどれほどの不条理があるかは十分明らかである。 後者もまた成立しえない。質料の本質にはそうした複合は与えられないか らであり、また、その可能性とともに質料を構成する別の部分は、可能性 ではないことになり、考えられる通り、それもまた現実態ということにな り、質料が可能性と現実態から構成されることになってしまうからであ る。 # # # 可能性が質料の本質とは別ものだとすると論理的な不都合が生じる、とい う例をオリヴィは三つあげてそれぞれ論じています。前回の箇所はそのう ちの二つまででしたが、今回は三つめとして、「可能性とは、形相によっ て質料に生じる別ものである」と考えた場合の不都合について論じていま す。質料がもつ可能性すらも形相によって生じるとしたら、質料の原理と しての性格は損なわれてしまいますし、その場合の可能性は形相でも質料 でもないことになり、まったく得体が知れなくなってしまいます。二つめ の段落では折衷案のような見解を批判していますね。ここでもまた、「違 い」の偶有性が引き起こす論理的不整合、本質を異質なものから構成され た複合物として扱うことになってしまう論理的不整合が問題になっていま すね。 さて、オリヴィの質料論にいたるフランシスコ会派の思想的な流れという ことで、このところボナヴェントゥラ以降について振り返ってみました が、ボナヴェントゥラ以前も多少とも気になります。というわけで、今度 はそちらにも食指を伸ばしてみることにしましょう。 まず、ボナヴェントゥラのいわば「先輩」にあたる人物として、ラ・ロ シェルのジャン(生年不詳〜1245)がいます。ほぼ同年代で、ヘイルズ のアレクサンダー(フランシスコ会で初めてパリ大学の教師となった人物 ですね)のもとで同門でもあった人物です。ジャンは、アレクサンダー当 人の後を継ぐ形でパリ大学の教壇に立ちますが、その後急逝してしまい、 さらにその後をボナヴェントゥラが継ぐようです。ジルソンの『中世哲 学』によると、ジャンは哲学擁護に熱心だったといい、アヴィセンナを経 由する形でアリストテレス思想を吸収しているようです。早くから能動知 性の考え方をアウグスティヌスの照明説と整合させようとしたりしている のですね(アルベルトゥスと同じように、能動知性は各人の魂に内在する と考えていたようです)。 質料形相論の関連では、魂や天使が質料と形相から成るという説をジャン は斥けています。そうした非物体的なものに質料と形相による複合性を認 めるかどうかは、形相と質料をそれぞれどう捉えるかという点に決定的な 違いをもたらすように思われます。非物体的なものにも質料を認めるな ら、質料というものが一様に無定型な可能態というよりも、むしろ個体の 構成原理としての機能的実体であるといった考え方が出てきても不思議で はありません。 ジルソンも言及していますが、実際に主著の『霊魂大全』の校注版 ("summa de anima", J-G. Bougerol, Vrin, 1995)を見てみると、第 一五章(節)が「魂は質料から成っていないこと」となっていて、非物体 的なものに霊的質料は認められない、とはっきりと述べられています。も し霊的質料があるとしたら、それは霊的存在すべてについて連続している ものでなくてならないはずだが、実際には霊的実体はそれぞれ別個に分離 しているではないか、また、知性(を含む魂)は質料の捨象を本来の作用 としている以上、それ自体もまた非質料的なものでなくてはならないでは ないか、というのが主な理由です。ジャンにとっては、物体的なもののみ が質料と形相から成るのですね。ボナヴェントゥラとは明らかに違います (ボナヴェントゥラは、神以外のいっさいは天使も含めて質料と形相から 成る、としています)。 ジルソンは、ジャンはアリストテレス思想の受容がフランシスコ会派内で もそれなりになされていたことの証しである、としています。その上で、 とはいえ後には、ボナヴェントゥラが多くの会士たちをアウグスティヌス 主義へと連れ戻したのだ、とも述べています。やはり転換点はボナヴェン トゥラにあるのでしょうか。うーん、このあたりを探るべく、続いてボナ ヴェントゥラの師匠、ヘイルズのアレクサンダーも見てみないといけませ んね。それはまた次回に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月19日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------