〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.193 2011/04/30 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その9) 占いの類のうち、悪魔との契約にいたるものを戒めるトマスですが、とな ると今度は、何がそういう戒めの対象になり、何が対象にならないのかが 問題になってきます。トマスはここでもアウグスティヌスをもとに、「悪 魔との契約は、無益・有害な策術や迷信に頼るときになされる」と見なし ています。「有害な」とは、悪魔の呼び出しとか供犠などの明らかな不正 行為のことを言い、また「無益な」とは、本来の能力・機能から逸れたと いうほどの意味であるとされています(病人の枕元に、まじないとしてな んらかの物品を置いておくなど)。 一方で、たとえば今年は乾燥した夏になりそうかどうかを、占星術師に尋 ねるような行為は、許容されています。天体は自然の全体的な傾向に影響 するとされているので、それを推し量るのは不正行為ではないのですね。 けれども、宝物が見つかるかどうかといった予言や、個人的な未来につい ての予言などを求めることは、すでにして悪魔と関わる行為だとして戒め ています。素朴な卜占の類も同様で、カラスが鳴いているから雨が降りそ うだといった、自然な因果関係があるとされるもの(鳥も天球の影響を受 け、適切な時期を見分けるとされています)については問題はないとして います。ここでも不正行為となるのは、個人の未来について予兆で推し量 るような場合です。 占いが過ちにあたる場合として、トマスは四つの区分を掲げています。 (一)必要もないのに占いを参照しようとする(それは神を試すことにな るので不正行為とされます)、(二)必要がある場合でも、信心のないま ま神の判断を仰ぐ(これも同様ですね)、(三)(聖書のページを無作為 に開くなどして)神託を人間世界、地上世界の事象に当てはめようとす る、(四)(聖職者の昇進などのように)本来なら神的な示唆でもって決 めるべきことを占いに頼る。 前回、このトマスの書簡が成立したいきさつについて、宛先となっている 人物の昇進問題に際して司教座参事会が紛糾し、くじのようなものを用い ようとする動きがあったために、トマスの意見が求められたのではないか という説を取り上げましたが、もしそうだとすると、上の(四)こそが核 心的な部分、ということになります。トマスは、聖職者の人事問題は聖霊 を通じて神の示唆が下されることで決まるものであり、占いやくじに頼る ことは聖霊を侮蔑する不正行為にあたる、と断じています。一方、世俗の 人事を決めるような場合には、そうしたものに頼っても問題はないとされ ています。 トマスは占いについて、ほかの著書でも折りにふれて取り上げているよう ですが、その場合(三)のような行為が占い全般を表すかのように扱われ ています。たとえば『自由討論』第一二巻問二二A一はそういうテキスト の一つですが(参照している仏訳本に収録されています)、その題目は 「占い、とくに書を無作為に開く行為に頼るのは不正かどうか」となって います。聖書をあてずっぽうに開いて、そこに書いてあることをもとに判 断するという行為が、存外に広く行われていたことを示しているのかもし れません。このあたりはもっと調べてみたら面白いかもしれませんね。 そちらも内容を紹介しておくと、基本的な論法は同じで、占いの行為を目 的別に(A)摂理の意図を知るため(B)曖昧な決断を下すため(C)な んらかのモノの所有者を決めるため、と分類し、(B)と(C)について は教会以外の事象についてなら問題はないとします。問題なのは(A) で、これをトマスは上の(一)から(四)にほぼ対応する四つのケースに わけて、それぞれ過ちであると断じています。ここでもまた、世俗の人々 が何かを決めるときに普通に占いに頼ることには許容されるものの、それ が未来を予言するような場合には、悪魔との契約行為だとしてこれを斥け ます。また、聖職者においては、未来の予言は言うにおよばず、何かを決 める場合でも占いに頼ってはならないとしています。 トマスの占いに対する見解は大筋で以上のようなところです。次に今度は 「運命」についての見解も少しばかり取り上げておきたいと思います。こ れは次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その9) 今回は第二〜第四の異論への反論部分になります。例によってまた途中で いったん切っています(あしからず)。では早速見ていくことにしましょ う。 # # # Ad secundum dicendum quod licet tota essentia mateirae attingatur aliquo modo a qualibet forma, non tamen attingitur secundum omnes rationes suas nec secundum omnes suos respectus attingitur; ergo tota secundum aliquam unam rationem et respectum; et tunc secundum illum modum attingitur totum illud reale quod ponunt ipsae potentiae. Simpliciter tamen non dicuntur attingi omnes potentiae eius, quia potentiae nominant rationes et respectus ipsius materiae secundum quas ipsa potest diversimode attingi et non attingi; et est simile huius, quando dicimus quod intellectus attingit totam essentiam Dei seu alicuius alterius simplicis obiecti et tamen non omnes rationes eius. Ad tertium dicendum quod materia non acquirit novas potentias passivas simpliciter, sed ex hoc solum dicitur eas acquirere, quia potentia quam per essentiam suam habet non est ordinata ad omnes formas, nisi prius alias formas in se habeat. Sicut enim soli non acquiritur aliqua potentia activa et tamen non potest agere per suam potentiam in remotiora, nisi prius agat in propinquiora : sic suo modo est de recipiendo in proposito, sicut si dicerem quod non possint recipi centum, nisi prius secundum naturam recipiantur triginta. Dicitur ergo potentia acquiri, non quia aliqua essentia potentiae passivae acquiratur, sed solum quia ipsi potentiae prius in materia existenti novus ordo et nova formalis habitudo ad aliquam formam recipiendam datur; quantum autem ad hanc formalem habitudinem vel formalem inaptitudinem potest verificari illud de naturali potentia et impotentia, quod scilicet sint in praedicamento qualitatis. / 第二の異論についてはこう述べなくてはならない。質料の本質全体はなん らかの様態で、任意の形相により結合される。ただし、そのすべての理、 あるいはすべての関係において結合されるのではない。つまり、なんらか の一つの理、一つの関係において全体は結合されるのである。するとその 様態において、みずからの可能性が定立したその現実の全体が結合され る。しかしながら、そのすべての可能性が汲み尽くされると端的に言うわ けにはいかない。なぜなら、ここでの可能性とは、みずからが様々な様態 でもって結びついたり結びつかなかったりする、質料そのものの理および 関係を指しているからだ。そしてそれは、「知性は神あるいは何かほかの 端的な対象の本質全体に結びつくが、そのすべての理に結びつくわけでは ない」、と私たちが言うときも同様である。 第三の異論についてはこう述べなくてはならない。質料は端的に新たな受 動的な可能性を獲得するわけではなく、ほかの形相があらかじめみずから のうちに宿っているがゆえに、おのれの本質によって有する可能性がほか の形相に対して秩序づけられ、まさにそのことゆえに、そうした可能性を 獲得すると言われるのである。 なんらかの能動的な可能性が太陽によって得られるのではないのと同様 に、また、みずからの可能性でもってまずはより近くのものに働きかけて はじめて、より遠くのものにも働きかけられるのと同様に、前提として、 受け取ることがその様態なのであれば、本性にもとづきまずは30を受け 取ることができてはじめて、100も受け取ることができるのだと私は言お う。したがって可能性が獲得されたと言われるのは、なんらかの受動的可 能性の本質が獲得されたからではなく、あらかじめ質料に存在する可能性 そのものに、なんらかの形相を受け取る新しい秩序、新たな態勢が与えら れるからにほかならない。ただし、そうした形相的態勢もしくは形相的不 適合性に関して、本性的な可能性・不可能性、つまり質の範疇に属してい るかどうかを検証することができる。/ # # # 第二の異論というのは、「形相は質料のもつ可能性の全体と結びつくので はない(可能性がもし質料の本質であれば、形相はその全体に結びつかな くてはならないはずだ)」という議論でした。オリヴィはこれに対して、 質料の可能性は形相と結びつくその都度、全体として結合されはするのだ けれど、可能性がすべて汲み尽くされるのではないと述べています。別の 形相と後から結合することをオープンにしている感じでしょうか。続く第 三の異論がまさにその点を問題にしています。 第三の異論は、「任意の形相と結びついた後も、質料は新たな可能性を獲 得するように思われる(よって可能性が質料の本質であるというのはおか しい)」という議論でした。オリヴィの議論は、一つの形相と結びつくと 可能性の秩序付けが変化し、別の形相を受け入れる余地ができる、という 感じに読めます。総じてオリヴィは、質料のもつ可能性(質料の本質) を、規定や解除、組み替えが可能な、しなやかなものと捉えている印象で す。 第四の異論は、これも上の議論に関連しますが、「近接する可能性と遠隔 的な可能性は異なる(可能性が質料の本質であるなら、その違いが説明で きない)」というものでした。前回のところでオリヴィは、可能性の遠近 についてアヴェロエスがらみで触れていましたが、可能性の遠近の話は、 大元はアリストテレスにあります。たとえば『動物発生論』の735a8〜 10では、「可能性をもち、それによって存在するのは明らかだ。可能性 にはそこから近いものも遠いものもある」と記されています。これは胚に 魂があるかどうかという問題を扱った箇所です。たとえとして、測量の可 能性について(?)「寝ている測量士は起きている測量士よりも遠くにあ り、起きている測量士は測量中の測量士よりも遠くにある」という一節が 続きます。どれも可能性は持っているものの、別の属性によってその遠近 が決まるというのでしょう。オリヴィがこれを直接参照しているわけでは ないでしょうが、その解釈においては、「別の属性」とはつまり、もとか らある可能性に「形相を受け取る態勢」が新たに加わることだと考えてい るのでしょう。 ブログのほうで触れましたが、2008年にフライブルク大学で行われたシ ンポジウムの論集『ペトルス・ヨハネス・オリヴィ:哲学者・神学者』 (De gruyter, 2010)があります。これに収録された論考の一つに、ア ンナ・ロドルフィ「ペトルス・ヨハネス・オリヴィと、質料の現実態をめ ぐる議論」があり、『命題集第二巻注解』の質料形相論に正面から取り組 んでいます。オリヴィの特徴的な考え方がどのように導かれてきたのか を、特に明示されていない異論の出所・提唱者を特定しつつ明らかにしよ うという、とても興味深い論考です。そこに次のような言及があります。 オリヴィがとりわけ間違いと見なしていたのは、形相が質料を限定する場 合に、その形相に対応する一部の可能性ばかりでなく、その質料の可能性 をすべて汲み尽くしてしまうという考え方だったようだというのです(暗 示されているのはダキアのボエティウス?)。 同論考によれば、オリヴィは基本的に「可能性」を、秩序(ordo)また は関係性(respectus)として、きわめて形式的に捉えているのだといい ます。形相が(質料と結合して)現勢化しても、そこで変化するのは質料 がその形相に関連づけられる様態だけであって、質料にもとからある (オープンな?多様な?)関係性自体は変わらない、というのですね。 うーん、関係性という語の意味がちょっと曖昧な感じもしますが、これは 今読んでいる箇所の少し先の本文にも関係しますので、次回に再び考えて みることにしたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は05月14日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------