〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.195 2011/05/28 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その11) 引き続き、シリル・ミションによるオッカム仏訳本の解説から、ポイント となる部分を取り出しておきましょう。神の摂理としての必然と人間の自 由の問題を、トマスは認識の様態論でもって処理するのでした。「神が必 然として未来を知る」という場合、未来はあくまで「神の認識としての未 来」(つまり、非時間的な神からすれば現在)であって、人間の認識では (未来の)偶然であっても、神の認識では(現在としての)必然でありう る、というわけです。これに対してドゥンス・スコトゥスは、人間にとっ て偶然であるものは、神にとっても偶然でありうるのではないか、と論じ ます。神において未来が現在として認識されても、それでもなお偶然は偶 然としてあるのではないか、というのです。 神が現在においてある命題を知る場合、同時にそれとは逆の命題も知りえ る、ということは現在においてその命題は未決定であり、その命題の認識 は偶然としてなされている、そしてのその偶然は(「現在における偶 然」)は神の自由意志に由来する……スコトゥスはそんなふうに考えてい るようなのですね。これから見ていこうと思っているオッカムは、この 「現在における偶然」を認めず、むしろトマスに近い形で、神は現在を必 然として認識するという考え方に立ちます(もちろん後述するように、ト マスとは立ち位置がまったく違うのですが)。 一部前回の繰り返しになりますが、運命を神の摂理と同一視する(アウグ スティヌス=トマス的に)と、自由意志の問題、あるいは悪の可能性の問 題が絡んできます。すべてを神が司るとするならば、人間がもつような悪 の可能性もまたその支配下になければなりません。これについてアウグス ティヌスは、人間のもつ自由意志は神から授かった贈り物で、そこには悪 の可能性も含まれるが、神にはそれについての責任はないという立場を取 ります。神は善への志向を助けはするものの、善を志向するかどうかは人 間の選択に委ねられている、というのですね。善を指向する者のみを助け るというのですから、ある意味これは功徳的な考え方です。これを踏まえ つつさらに一歩進めるのがトマスで、運命とは神の恩寵の一つであり、神 の恩寵は必然(第一原因の系列)だけでなく偶然(第二原因の系列)をも 生じさせる、と考えます。この第一原因と第二原因を分けているというの がミソで、人間のもつ自由意志はこの第二原因の側にあって、恩寵のいわ ば偶然的な面をなしている、ということになります。これで、運命と自由 意志を共存可能にできます。 スコトゥスはというと、トマスのような第一原因と第二原因を分けること はせず、偶有が生じるおおもとはやはり第一原因に求めなくてはならない とします。生じてしまった過去は撤回できないものの、現在は偶然に、つ まりは自由意志に開かれていて、神によって運命を定められた人間であっ ても、「現在」の瞬間においてなら、自由意志を行使しうるというので す。神が定める運命さえも、神がそれを「現在」(上に記したように、神 にとっては未来もまた現在)において定める以上、それは偶然に開かれて いるのだとされます。結果的にスコトゥスの議論では、神による運命の定 めは事実上なしえないことになってしまいます。 スコトゥスの場合、すべての偶然(悪も含めて)は神にのみ依存している かのようです。これに対し、オッカムはそれを命題全般に関わる理論とし て示そうとしています。オッカムの議論では、神は非時間的ではなく、神 もまた時間の中にあるとされます。これがトマスやスコトゥスと決定的に 異なる点です。つまり、神もまた、過去や現在の事象ならば必然として認 識し、未来については偶然として認識するしかないというのです。その上 でオッカムは、より一般的な議論として、神の認識や自由意志における過 去(つまり必然)を未来に転位することに改めて反対します。 予見や運命を神のものとする命題は、過去ないしは現在の時制を用いた文 として表されるのが普通ですが、そこで示される事象(内容)は原則的に 未来のものであり、しかもそれは自由な行為に開かれた未来、偶然に属す る未来なので、結果的にそのような命題は必然ではありえない、というこ とになります。たとえば「神はペトロに運命を与えた(与える)」といえ ば、文の形式としては過去(または現在)ですが、内容は「神は(将来) ペトロにしかじかの幸福を与えるだろう」ということで、それは未来の事 象であって、ペトロの将来の選択如何にかかっている、ということになり ます。 整理すると、ここで示されているオッカムの基本的立場は、(一)神に とっても人間にとっても時間は一元的に存在していて、両者は同じ時間認 識を共有している、(二)命題の時制に関わりなく、未来に属する事象は つねに偶然に属する、というもののようです。命題を扱う論理学が、ここ では大きく前面に出ている印象です。さしあたりこうしたことを踏まえ て、少しばかりオッカムのテキストそのものを覗いてみたいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その11) オリヴィの主著『命題集第二巻の諸問題』から、今度は続く問一八を見て いきます。これは短いので予定としては二回くらいで済まし、それから少 し長めの問一九に取りかかりたいと思っています。ではさっそく、今回の 部分です。 # # # QUAESTIO XVIII Tertio quaeritur an materia possit esse per se principium efficiens alicuius Quod quidem utile est indagare, quia in multis praedictarum quaestionum et etiam aliarum frequenter supponitur quod non possit esse. Et hoc quidem credo esse verum. Et primo quidem hoc patet ex indeterminatione materiae. Cum enim causa efficiens debeat magis esse determinata magisque actualis quam suus effectus immdeiatus, qualis est prima influentia seu impressio, qui omnis efficientis est semer primus, ita quod sine eo nihil aliud potest effici, nullus autem effectus nec aliqua impressio potest esse aut cogitari ita indeterminatus quantum ad actum essendi nec etiam quantum ad actualitatem essentiae sicut est materia secundum se et de se : patet quod impossibile est aliquam impressionem fieri ab ea per se et sic per consequens nec aliquem alium effectum. 問一八 三つめとして、質料は本来、何かの作用原理でありうるかを問う。 少なくとも検討することは有益である。先述の問いやその他の問いの多く は、質料は作用原理ではありえないということを前提にする場合が多いか らだ。 しかるにこれは正しいと思われる。 まず、そのことは質料の非限定性により明らかである。作用因はその直接 の結果よりも一層限定され、かつ現勢的でなくてはならない。(直接の結 果とは)つまり、あらゆる作用のなかで常に第一のものとなり、それなく してはいかなるものももたらされえない、第一の印象もしくは刻印のこと である。しかしながら、質料が本来そうであり、おのずとそうであるよう に、存在の現実態と本質の現勢化のいずれに対して非限定でなければ、い かなる結果も刻印も存在しえないし、思惟しえない。よって、なんらかの 刻印が質料からおのずと生じることはありえず、同様に他のなんらかの結 果が帰結として生じることもありないということは明らかである。 - Praeterea, omne agens creatum habet determinatum aspectum ad suum patiens, sicut in quaestionibus de creatione habet ostendi; sed materia de se nullum habet determinatum aspectum, cum sit de se omnino indeterminata; ergo in nullum patiens poterit agere. - Praeterea, posito quod haberet aliquem effectum : ille saltem esset ita indeterminatus sicut et ipsa et tunc a tot et tantis formis esset determinabilis sicut ipsa; determimari autem ab eis non posset, nisi ab eis informaretur; informari autem non potest nisi quod habet in se veram rationem materiae; ergo et cetera. ーーさらに創造についての問いにおいて示すように、被造物である作用者 はすべて、被作用者に対して限定された関係をもっている。ところが質料 は本来すべて非限定であることから、限定された関係をもたない。した がって、いかなる被作用者に対しても働きかけることができない。 ーーさらに、質料がなんらかの結果をもたらすと考える場合でも、その結 果は少なくとも原因と同じく非限定であり、原因と同じく、多くの異なる 形相で限定されうる。だがそれらの形相で限定されうるのは、それらに よって形が与えられる場合のみである。形が与えられうるのは、みずから のうちに真に質料的な理がある場合のみである。よって……以下略。 # # # この問一八では、異論などは示されず、いきなり本論が淡々と展開してい ます。「質料それ自体は作用原理ではない」というテーゼは、一三世紀当 時、確かに広く共有された共通認識であったようです。本文の二節めに出 てくる「創造についての問い」というのは、仏訳本の解説によれば後続の 問二四、あるいは問二三から二六を指すらしいのですが、残念ながら手元 にテキストがないので、どういった議論なのか確認できていません(苦 笑)。 さて、これまた前回に引き続き、アントニーノ・ペタジーネの論文の続き から要点を抜き出しておきましょう。オリヴィとの関連で、ドミニコ会系 の論者の質料観をまとめている論文です。とくに中心的に取り上げられて いるのはブラバントのシゲルスです。シゲルスはまず、可能性は質料の本 質ではなく偶有であるという立場を取ります。ここからシゲルスは、トマ スというよりはアルベルトゥスに回帰するような形で、「形相の萌芽」を 再考します。ただ、もちろんドミニコ会系の伝統を踏襲しているので、う かつに質料になんらかの現実態を認めるような話には行きません。 オリヴィは、可能性が質料にとっての偶有であるというシゲルスの議論を 批判します。偶有はあくまで、本質に付加されるなんらかの形相のことを 言うのだから、質料について偶有云々と言うのはおかしい、というのがそ の中心的な批判です。ですがシゲルスはこの批判を先取りしていて、実体 こそが偶有の原因であるという議論を展開していくようです。ちょっと脇 道に逸れますが、ここで面白いのは、シゲルスが準拠しているアヴェロエ スの主張です。アヴェロエスは、質料の実体と質料の可能性を分けつつ も、そこでの可能性というのは質料の「実体的形相」のようなものだと主 張しているのですね。なにやらこれは、むしろオリヴィの唱える「可能性 =質料の本質」と親和性があるようにも見えてきます。 話をシゲルスに戻すと、シゲルスは質料の実体をどう捉えているかという と、どうやらそれは存在と非在との中間物、純粋な可能性と現勢化した現 実態との中間物のようです。質料にはなんらかの実体性があり、ゆえにそ のものとして存続できるもの、とされています。そしてそれは、「生成さ れはしない(ingenerata)ものの、生起しないもの(incausata)ではな い」として、その生成に天空の力が与っているとされているようです。論 文の著者が指摘していますが、これはある種プラトン主義への回帰という ふうにも取れます。ガンのヘンリクスなどは、同じような中間的存在とし ての質料を認め、『ティマイオス』への恩義を公然と認めたりしていると いいます。なるほど、現実態ではないものの、完全に無形の受容体でもな く、不完全ながら実体性がある中間物という規定は、トマスの指定された 質料という考え方や、アルベルトゥスの形相の萌芽などの折衷案としては 妥当なもののように思えますね。 質料をそれ自体で存続するなんらかの実体性を備えたものと考えている点 で、シゲルスのこの質料観には、オリヴィの質料観とどこか通底するもの があるように思われます。ペタジーネの論文の主眼もそこにあるようで、 シゲルスとオリヴィの間には対立点ももちろんあるわけですが、それを越 えて、なにやら同時代的な空気、思想潮流としての基本認識の共有が見ら れるような……。そんなわけで、シゲルスやヘンリクスの質料観も、少し 確認を取ってみたいところです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月11日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------