〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.196 2011/06/11 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その12) さて、今回からオッカムの運命論について概要を見ていきたいと思いま す。底本とするのは、ヴラン社から出ている羅仏対訳本("Traite sur la predestination", trad. Cyrille Michon, Vrin, 2007)です。これには大 きく四つのテキストが収録されています。一つめは「偶有的未来に関する 神の予定説と予見についての論」というもの。二つめは「アリストテレス 『解釈学』注解」の一部。三つめは「論理学大全」の一部、そして「オル ディナティオ」の一部です。 一つめの論考(以下「予定説論」とします)は、大きく五つの問いを検討 しています。順に挙げておくと、「受け取られる救済予定および予見は、 (救済を)予定された、および予見された当人に対して現実的な関係をも つか」「偶有的未来についての神の知について」「創造された意志および 創造されたものではない意志が外部に何かを帰結させる場合に、それら意 志の偶有性をどう救うか」「運命づけられた者にはなんらかの運命づけの 原因が、排斥される者には排斥の原因があるか」「<ペトロは救済を運命 づけれている><ペトロは救済を撤回されている>の二つの命題は、現実 に連続しうるか」。 最初の問い(「受け取られる救済予定および予見は、(救済を)予定され た、および予見された当人に対して現実的な関係をもつか」)ですが、こ れは同文書の総論的性格をもっていると言えます。オッカムはまず、 (一)救済を予定された(運命づけられた)者は罪を犯しうるか、(二) その場合、運命づけられた当人の現実的関係は損なわれるのかという二重 の設問に分けて考えます。(一)において「否」となれば、救済は必然と なり、自由意志に反しますので、これは斥けられます。「是」となれば次 の(二)の設問へと進むことができます。 もし(二)が「否」であれば、運命づけられた当人の現実的関係は変わら ず、罪を犯して排斥されるはずなのに救済されることになり、矛盾してし まいます。すると残るのは(二)が「是」である場合のみです。その場 合、救済予定はその当人にあったけれども、それは損なわれた、というこ とになります。これには一見矛盾はないように見えます。ところがオッカ ムはここから、それも矛盾するので斥けなくてはならないと論じていきま す。 「過去の事象をなかったことにすることだけは神にもできない」(これは オッカムの神学上の基本的立場です)以上、「運命づけられた」ことは現 在において真であって、偽にはできません。未来にいたっても、それは過 去の事象として変わらず真であり続けます。ところが同様に、「反故に なった」こともまた現在では真だということになります。前回も触れまし たが、現在と過去の事象は神にとっての必然なのですから、同じ現在にお いて、これら二つはいずれも必然となり、相互に矛盾してしまうことにな ります。こうして、救済予定や予見が現実的な関係をもつとすると導かれ る結論はどれも矛盾に至るので、その大前提が間違っている、つまりそれ らに現実的な関係があるとするのが間違いだ、と結論づけられるのです。 オッカムはいくつかの異論を用意し、さらにそれらへの反論を通じて、こ の議論を再度検証していきます。その過程で様々な指摘を行います。たと えば、現在時制で語られながらもその真偽が未来に依存するような命題は 必然とはできないとし、そうした命題(の真偽)は偶然に属するとしてい ます。また、救済が予定されていながらそうならなかった者は、被造物の 自由意志によってそうなったのであり、その場合、それは神の意志に反し たというのではなく、単にその被造物の自由意志には神の秩序・決定を沿 わなくてもよいという自由が与えられているのだ、などとしています。 こうした考え方は預言者(聖書に登場する)についても同様に適用されま す。預言者が語る未来の啓示も、必然的にではなく偶然的に生起する以外 にない、とオッカムは考えます。「啓示がなされた」は真であり、過去に おけるその命題は必然でもあったにせよ、それが示す未来の預言内容は偶 然に開かれていて、偶然により真でもありえたし、偽でもありえた、とい うのです。啓示が成就しなくても、預言者は偽りを述べたことにはなら ず、ただ未来の預言はすべて条件付けがなされているのである(ただしそ の条件は必ずしも明示されない)とされるのです。 このように、オッカムは一つには基本的に命題そのもののレベルとその命 題が指し示す内容の存在論的なレベルとを分けようとします。命題の成立 と、その内容となる事象の成立条件とは別物だというのですね。でも、そ うして見ていくと確かにこれは、未来の事象の不確定さを強調するという 意味でも、預言そのものを認めない方向に向かう議論だと言えそうです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その12) 前回の続きとなるこの問一八は、全体が短いので、今回で一気に読んでし まうことにします。 # # # Secundo patet hoc ex sua informitate. Cum enim omnis prima impressio sit simlitudo suae causae, materiae autem nulla forma nec aliquid formale potest esse propria similitudo, et maxime talis qualis est similitudo influxa quae semper est forma vel aliquid formale : patet quod nulla impressio seu similitudo poterit a materia gigni; nec materiam quidem posset gignere, quia hoc esset vere creare, sicut in quaestionibus de creationi habet tangi. Huius autem experimentum in omnibus agentibus est evidens : videmus enim quod iluminabile nunquam potest illuminare, nisi prius in se habeat actum seu formam lucis nec calefactibile calefacere, nisi prius sit calidum et sic de omnibus aliis. Unde breviter, nullum possibile videmus posse exire in aliquam actionem, nisi prius habeat illam formam a qua nomen et speciem trahit illa actio. Tertio patet hoc ex sua receptione seu receptibilitate. Certum est enim quod recipiens, in quantum recipiens, nunquam potest esse agens; nec posse recipere, in quantum tale, est posse agere, cum pati et agere sint opposita et etiam quod ad pati seu receptionem praeexigitur in patiente quaedam informitas et indeterminatio et determinabilitas. Omne enim quod patitur determinatur ab agente et informatur ab eo quod recipit; agens vero, in quantum agens, semper est actuale et alterius, scilicet patientis, determinativum; et etiam quia patiens, in quantum tale, non habet aspectum ad aliquod aliud patiens, sed solum ad suum agens; e contra autem agens, in quantum agens, non habet aspectum nisi ad suum patiens vel ad suum obiectum. Ex quibus omnibus satis patet quod alia est essentia et natura potentiae passivae et ipsius possiblis, in quantum talis, et alia potentiae activae et ipsius agentis, in quantum talis; et inde est quod omne illud quod potest agere et pati habet in se duas essentias et naturas per quarum unam potest agere et per aliam pati. 第二に、質料における無形性(形相の欠如)からも明らかである。第一の 刻印はすべてその原因の似姿である以上、いかなる形相も、また形相的な ものも、質料に固有の似姿ではありえない。似姿が流入してきたものであ るような場合には特にそうで、それはつねに形相もしくは形相的なものな のである。したがって、いかなる刻印ないし似姿も、質料から生まれえな いことは明らかである。また質料も生み出すことはできない。なぜならそ れは、創造についての問いで触れているように、真の創造ということにな るからだ。しかるに、あらゆる作用者において次の経験は確かである。つ まり私たちは、輝きうるものが輝かしうるのは、あらかじめみずからのう ちに光の現実態もしくは形相を宿している場合のみであり、熱くなりうる ものが熱しうるのも、あらかじめ熱があるからであり、他もみな同様だと 考える。つまり簡単に言うなら、私たちは、可能なものがなんらかの作用 をもたらしうるのは、その作用が担う名称と形象を、あらかじめ宿してい る場合のみだと考えるのである。 第三に、質料における受容性もしくは受容可能性からも明らかである。受 容者が受容者として作動者になることはありないことは確実である。受容 しうることは、そのまま作用しうることにはならない。被作用と作用は対 立するからだ。その上、被作用もしくは受容に際して、受容者にはなんら かの無形性、非限定性、決定可能性があらかじめ必要とされるからであ る。作用を受ける者はすべて、作用者によって限定され、受け取るものに よって形成される。一方の作用者は作用者としてつねに現実的なものであ り、それ以外のもの、つまり被作用者を限定しうる。さらに被作用者は、 そのようなものとして、ほかの何らかの被作用者への志向性をもたず、お のれの作用者への志向性のみをもつ。また逆に作用者は、作用者として、 その被作用者もしくは対象への志向性のみをもつ。 これらすべての所見から、受動的な潜在性の本質や本性、そしてそのよう なものとしての可能性は、他の能動的な潜在性、またそのようなものとし ての作用者とは別物であることは十分明らかである。よって、作用しうる ものと作用を被りうるものは、異なる二つの本質と本性をもっており、そ れにより一方は作用し、他方は作用を受けるのである。 # # # 前回の部分に引き続き、質料が作用原理となるかという問いについて、オ リヴィは否定的見解をさらに二つ挙げています。いずれも一三世紀当時の 考え方(作用原理はすべて形相の側にある)からすれば、ごく常識的な議 論という感じですが、ちょっと引っかかりがあったのは、第三の議論に出 てくるaspectusという語です。訳語としては「志向性」としてみました が、一見する限りそれほど強い意味であるようには思えません。「そちら のほうを向いている」くらいの意味だと思うのですが、仮にこれを、形相 (作用者)への根源的な方向性が、無定形である質料(被作用者)にすで にして宿っている、というふうに取ると、前回触れた「形相の萌芽」ある いはシゲルスの「可能態と現実態の中間物」などの議論にも通じる話にも 見えてきます。この箇所だけではわかりませんが、形相と質料の関係性を オリヴィはどう捉えていたのか、改めて検討してみる必要があるかもしれ ません。 さて、それと同時に少しパースペクティブを拡げる意味でも、オリヴィの 質料観を支えている(?)であろう全般的な思想的拡がりのほうにも目を 向けていかなくてはならない気がしています。少し質料観から離れた議論 なども取り上げていきたいと思います。というわけで、今回はフランスの 研究者フランソワ=グザヴィエ・ピュタラズの小著『フランシスコ会派の 人々』(Francois-Xavier Putallaz, "Figures franciscaines", cerf, 1996)から、オリヴィについて触れた箇所をまとめておきたいと思いま す。この著書は13世紀のフランシスコ会の思想潮流を、巨視的・大局的 にまとめた概説書です。 それによるとオリヴィには「哲学書の渉猟について(De perlegendis philosophorum libris)」という著書があり、その中でオリヴィは、哲 学にはその問題設定においても方法論においても誤謬に陥る危険が多々あ ることを指摘し、神学の観点から批判しているといいます。多少とも神学 にとって有益であるとされるのは論理学だけ、と手厳しい扱いのようです が、ちょっとこれには面食らいますね。オリヴィはその一方で哲学的な論 考の数々を巡らしているらしいからです。「哲学書の渉猟について」は 1277年のタンピエの禁令のころの文書らしいので、アリストテレス思想 などに対する教会側の反動的な空気の中で書かれたものなのでしょうけれ ど、それを差し引いても、オリヴィの中でこの哲学批判と自身の哲学的議 論とはどうバランスを取っていたのか気になります。 著者のピュタラズによれば、これまでにもオリヴィのこの哲学批判の解釈 はいろいろあったようで、保身のための隠れ蓑だとする説や、学位が認め られなかったことに関する謙虚さの表れだとする説などが研究者の間には あったといいますが、より新しいものとして、実はそこには一貫性がある とする説も唱えられているといいます。どういうことかというと、つまり オリヴィは、哲学が取るに足らないものであることを示すために、やや執 拗とも言えるほどに、様々な異論を紹介しては反論してみせたのではない か、というのですね。うーん、これはどうなのでしょうか……。真理では ないのだから、それについて語っても問題はないという立場だったのかも しれない、というのですが……。 ピュタラズもこれを支持しているようで、オリヴィ本人が実際に「自分は 哲学の各種の「憶見」を提示(recitare)しているだけだ」と述べてもい るようです。紹介はしていてもそれに与しているわけではない、というス タンスでしょうか。これだけだとなにやら不誠実な感じもしなくありませ んが、オリヴィはさらに、そうした憶見(つまりは感覚的な諸情報)を脱 ぎ捨てた先に真に自由な精神が得られ、その精神はより十全に働く、つま りはよりよく信仰を実践することができると考えていたのではないかとい うのです。それは世俗の財を捨てて信仰を貫くというフランシスコ会派の おおもとの思想に通じるものがある、と。なるほど。ですがそれにして も、それだけのために精力的に哲学的議論を展開する、というのもちょっ と解せない気もするのですが……(苦笑)。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月25日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------