〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.198 2011/07/23 *お詫び 本号は当初7月9日に発行の予定でしたが、当方の身内に不幸がありまし た関係で、二週遅れでの発行とさせていただきました。お問い合わせいた だいた方もいらっしゃいましたが、ご連絡も差し上げず失礼いたしまし た。こうした突発的な遅延などがある場合には、ブログのトップページ (http://www.medieviste.org)でお知らせしていますので、今後また 「メルマガが届かない」というような場合には、まずはそのトップページ をご覧いただけますようお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その14) オッカムの議論を少しばかりですが追ってみて、改めて確認できるのは、 神の知もまた時間の枠内で行使されているというその前提です。ゆえに偶 然的未来に対する神の知見は、被造物の知見にすらパラレルなものである かのように、限定的であるとされています。このことは底本にしている羅 仏対訳本に収録の他のテキストでも確認できます。今回は二つほど、復習 という感じで別テキストを見ておきましょう。 まずは『論理学大全』III-3 32章です。そこでは、オッカムが準拠するア リストテレスにおいてすら、偶然的未来に関する普遍命題は、必然的未来 に関する普遍命題とは違う扱いになっていることが検証されています。 オッカムによるとアリストテレスの場合、前者の命題は、それ自体は真偽 に関わらない中性的なものであるとされ、矛盾する二つの命題があったと しても、どちらが真でどちらが偽になるかはどのような知性であろうとも 知りえないとされています。ここでの「知る」とは真であると認識するこ とを意味します。ですがこれでは、キリスト教的信仰における、たとえば 「聖母は救済される」といった予見が認否されてしまうことにもなりかね ません。 この折り合いをオッカムはどう付けているのでしょうか。オッカムはまず アリストテレスの議論として、偶然的未来に関する限り、全称命題(「す べての偶然は存在するだろう」といった一般的主語についての命題)が知 られても、そこに含まれる単称命題(具体的な「○○の偶然が存在するだ ろう」という命題)は知られないという見解を示します。同じく特称命題 (「ある偶然は存在するだろう」)についても、それが真であろうともそ こに含まれうる単称命題は真にはならない、とされます。「ソクラテスは 明日存在するだろう」という単称命題は、特称命題「ソクラテスがある時 間に存在するだろう」に含まれる命題の一つと考えられますが、その「あ る時間に」という部分に具体的な時間を指定(たとえばa)すると、それ に続く後の時間も推論として同じように指定(たとえばb)できることに なり、論理学的には無限に先延ばしすることができてしまいます。ですが それらの単称命題(「ソクラテスはaの時間に存在するだろう」「ソクラ テスはbの時間に存在するだろう」を取り出すと、その真偽を確定できる 根拠は何もありません。 ですが信仰においては、その単称命題が真であるとされるように思われま す。矛盾する二つの命題があったとしても、一方はあらかじめ真であると され、神によって知られているというわけです。オッカムはそこに、論理 学的な立場と神学的な立場との違いを見出しています。ですが、それと同 時にオッカムは、たとえ信仰の世界において、全称・特称命題が不可避的 な形で(必然のように)真であるとされても、それに含まれる単称命題は 「回避も可能な形で」真となるのだと主張しています。そしてそれが、ア リストテレス論理学と信仰とが類似する点でもあると述べています。現在 や過去の命題の真偽が必然としてあるのとは逆に、未来に関する命題は偶 然によって真偽が決まり、その真偽は必然とはならないという、例の考え 方ですね。 偶然的未来についての神の知見について論じた別のテキスト『オルディナ ティオ』D.38 Q.U.では、神の知見は次のように説明されています。オッ カムは、神の知は偶然的な結果についての作用因にはならないものの、矛 盾するどの部分が真でどの部分が偽であるかは明確に知るだろうと指摘し ます。ただしそれは偶然的未来が神の知に<現前>するような形で知るの ではなく、あくまで神の本質、神的な認識において知るのであるとし、人 知の及ばないことなので通常の論証はできないとしながらも、次のことだ けはしっかりと指摘しています。つまり、神は矛盾する命題のどれが真に なるかを認識しうるが、それが偶然において真にはなりえなかった可能性 も含めて認識されるのだ、と。真であること、存在することに、それが真 ではなかった可能性、存在しえなかった可能性が貼り付いて表裏一体に なっているというこの見識に、オッカムの近代性がよく表れているように 思えます。 オッカムがいわば切り開いたこの神の知見の問題は、その後も長く(二〇 世紀にいたっても)神学的議論の対象となっていくようです。底本にして いる羅仏対訳本にはほかにもいくつかの文章が採録されていますが、大ま かには上のような議論が形を変えて繰り返されています。そんなわけで、 とりあえずここでは、オッカムのテキストをいったん閉じて、全体の総括 に移っていきたいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その14) 「神は質料がいっさいの形相をもたないようにできるか」という問一九の 続きです。前回に引き続き、「形相なしに質料を存在せしめることはでき ない」という立場を取る人々(トマスなどドミニコ会系の論者を念頭に置 いているようです)の議論を紹介しているくだりです。早速見ていきま しょう。 # # # -- Quodsi aliquis diceret quod immo poterunt sibi uniri cum omnimoda simplicitate, ita quod non habeant extensionem vel positionem aut figuram, licet forte hoc sit impossibile, quia talis modus essendi potius est spiritualis quam corporalis, unde non videtur posse competere nisi solis spiritibus et rebus incorporeis : nihilominus tamen huiusmodi simplicitas magis esset formalis quam sint extensio, positio et figura. (承前)−−また、仮に誰かが、部分はたがいに全く端的に、つまり拡が りや位置、形象をもたずに結びつくことができると述べるのであれば、そ れはおそらく不可能であると彼らは言うだろう。なぜなら、そのような在 り方は物体的であるよりもむしろ精神的であるからであり、ゆえにそれが 可能なのは唯一、精神的なもの、および非物体的な事物のみであると考え られるからである。しかしながらそのような端的さは、拡がり、位置、形 象以上に形相的なものである。 Si etiam dicatur quod haec unio non dicit nisi solam relationem : contra, quia sola relatio non potest per motum generari et destrui absque alio formali in quo fundetur: sed unio illarum partium potest per motum generari et destrui; ergo praeter relationem dicit aliquam aliam formam. -- Praeterea, per solas relationes non potest fieri de duobus entibus unum nec de uno duo; sed per huiusmodi unionem et per divisionem ei contrariam hoc fit; nam partes antequam essent unitae, erant plura entia, post unionem vero faciunt unum ens, quae si iterum dividantur, de uno ente fiunt plura entia. -- Praeterea, positio quantitatis et augmentum et figura quae hanc unionem concomitantur non dicunt solas relationes. -- Praeterea, unio continuationis multo est maior quam unio contiguationis; si autem utraque dicit solam relationem, non apparet in quo possit esse maior et stabilior et naturalior. ところで仮に、そのような結びつきは単に関係性を意味するにすぎないと 言われるならば、彼らはそれには反対するだろう。なぜなら関係性だけで は、(その関係性を)基礎づける形相的なものなしに運動による生成や消 滅はなされえないからである。しかしながらそうした部分の結びつきは、 運動によって生成と消滅が可能である。したがってその結びつきは、関係 性のほかになんらかの別な形相を意味するのである。−−加えて、関係性 だけでは二つの有を一つにしたり、一つの有を二つにしたりはできない。 だが実際にそれは、結合やそれとは逆の分割によってそうしたことができ る。結合以前、部分はそれぞれが統一体であり、複数の有だったものが、 結合の後には一つの有となる。それは再び分割されると、一つの有から複 数の有が生じる。−−加えて、かかる結びつきに付随する量的な位置、増 大、形象は、単なる関係性を意味しない。−−加えて、連続的な結びつき は偶発的な結びつきよりもはるかに強力である。ところがそのいずれもが 単なる関係性を意味するとすると、いかなる点においてそれがより強力、 より安定的、より自然でありうるのかがわからなくなる。 Praeterea, haec unio est aliquo modo substantialis ipsis partibus; alias per eam non fiet unum secundum substantiam; ipsa etiam unitas totius constituti ex praedictis partibus sic unitis non dicit solam relationem. Licet enim aliquis modus determinatus unionis partium aquae vel cerae et consimilium sit accidentalis - unde et possunt transmutari secundum positionem et propinquitatem absque destructione sui totius, ita quod una pars recedet a parte cui erat propinquius unita et unietur alteri magis propinquae -: tamen unio huius partis absolute et simpliciter considerata respectu omnium partium et sui totius oportet quod sit aliquo modo substantialis ipsi parti et suo toti. Unde si simpliciter divideretur a suo toto et ab omnibus aliis partibus, ipsa fieret de novo ens per se nec suum totum in quo prius erat esset omnino idem quod prius. In corporibus etiam organizatis, ut est corpus hominis, non solum ipsa unio sed etiam aliquis determinatus modus unionis est substantialis, utpote quod caput sit supra collum et manus iuxta brachium et cor intra pectus et sic de aliis. 加えて、かかる結びつきはなんらかの形で、部分そのものの実体をなして いる。さもなくば、その結びつきによって実体的に一つをなすことはない だろう。また、前述した部分の結合によって構成されるその全体の統一性 は、単に関係性を意味するのではない。というのも、水や蝋、その他類似 物の部分がなんらかの限定的な形で結合するのは、偶然によると言うこと ができるからだ。ゆえに全体を損なうことなく、位置や近接性を変化させ ることが可能になるのである。つまり、近接的な結合をなしていた部分か ら一つの部分が離れ、より大きな近接性をもった別の部分に結合するので ある。しかしながら、そうした部分の結びつきは、すべての部分およびそ の全体に対して絶対的かつ端的に考慮されるなら、その部分および全体 の、なんらかの形の実体をなすのでなくてはならない。したがって端的に その全体から、またほかのすべての部分から分離される場合、その部分は みずから新たに有をなし、それ以前にその部分が属していた全体は、以前 とすっかり同じではなくなる。一方、人体のような組織的な物体において は、そうした結びつきのみならず、ちょうど頭がクビの上にあり、手が腕 に隣接し、心臓が胸の中にあるなどのように、なんらかの限定的な形での 結びつきも実体的となる。 # # # ここでの議論(ドミニコ会系の議論とされているもの)では、物体的質料 について、その各部分の結合は拡がりや形象などの限定を受ける以上、形 相的に規定されているのでなければならないと論じられています。今回の 箇所では、そうした部分同士の関係性だけでは有(存在者)にはなりえ ず、拡がりや形象といった形相的なものが必ず伴わなくてはならない、と しています。部分の分離や結合は、そうした形相的なものが介在するので なくてはならないというわけです。 前にも触れたことがありますけれど、かなり大雑把な括りになってしまい ますが、ドミニコ会系の論者においては、形相そのものが不確定要素を孕 んでいる場合があって、形相そのものに増減の余地があるなどと考えてい たとされます。これに対してフランシスコ会系の論者たちは、実体の増減 は形相の付加・削除による以外にないと考えていたようです。このあたり の形相観の違いは、重要なポイントかもしれません。 分割の場合についてはどうでしょうか。フランシスコ会系の議論であれ ば、形相の削除で説明できることになりそうです。ドミニコ会系の議論で はどうでしょうか?さしあたり上のオリヴィの本文では、部分が分離され れば、全体はもとのままにはとどまらないとされています。つまり、分離 した部分には新たな形相が与えられ、分離する前の実体にも形相における 変化(不確定要素における?)に応じた変化がもたらされる、ということ のように読めます。もちろん「頭がクビの上にある」といった、形相の確 定的な部分が損なわれることはない、ということになるのでしょう。いず れにしてもこのあたりの考え方の違いは、文献的にも整理・確認が必要で すね。今後の課題としておきましょう。 さて本文とは別に、前回に引き続きオリヴィの思想の拡がりを見るという 目的で、トイヴァネンの論文による知覚論を眺めていきたいと思います。 前回のところで、認識機能の面でオリヴィが人間と動物を一続きに考えて いたということに触れましたが、この論文の著者は、実際の知覚論の詳細 おいては、オリヴィの考え方は当時優勢だった理論から派生していること を指摘し、基本的に知覚を魂の機能として位置づけていることを論じてい ます。オリヴィはどうやら、外部感覚同士や、それとは別の共通感覚など を区別して考えているものの、それぞれの間には密接な機能的関係がある と見ているようです。 さらに特徴的なのは、オリヴィが当時優勢だったスペキエス理論に批判的 だということです。スペキエス理論は、知覚を受動的なものと見なし、対 象物がいわゆる感覚的スペキエスを通じて知覚の受動的機能を現勢化する プロセスと捉える考え方です。オリヴィはむしろ能動的な志向性 (intentio)の理論を標榜しているといいます。論文著者は、知覚の受動 的側面を強調するアリストテレス的な図式をひっくり返し、新プラトン主 義的な要素を組み込んでいる、と解釈しています。 そして前回も触れたように、諸感覚を統合する機能としての意識が取り上 げられます。オリヴィにおいては、外部感覚はそれぞれの感覚意識を主体 にもたらすのではなく、主体が実際に感覚対象を知覚できるのは統覚的な 意識の働きであり、それは魂の一機能ということになるようです。動物の 場合にはそれは共通感覚が担う役割とされます。著者はこれらの議論を踏 まえて、オリヴィに見られるという心身二元論のほうへと切り込んでいく ようです。 以上は知覚を扱った同論文の第一部から、その導入部分の概観です。さす がに全部のトピックを詳しく取り上げる余裕はありませんので、少しポイ ントを絞って詳しく見ていくことにしたいと思います。というわけで、こ の知覚論のまとめももう少し続けたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は08月06日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------