〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.199 2011/08/06 *お知らせ 本メルマガは原則隔週での発行ですが、例年通り今年も8月は夏休みとい うことでやや変則的な日程になり、次回は8月27日の発行となります。よ ろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その15) 長々と見てきましたが、このあたりで一応のまとめに入りたいと思いま す。オッカムが取り組んでいるのは、預言云々という狭いスパンには収ま らない、長大な歴史をもつ議論です。つまり、神の全能性(摂理)と人間 の自由という、見るからに相容れないテーゼにどう折り合いをつけるかと いうアポリアです。ストア派の因果律による決定論以来の長い伝統を受け 継ぐ問題系です。 ジェラール・ヴェルベケ『中世思想に見られるストア思想』(1983)と いう著書を最近入手しましたが、同書は「運命論と自由」という問題に一 章を割いています。ここに、古代末期から中世初期を中心に、その問題を めぐる様々な論者のスタンスがまとめられています。一読して感じるの は、どの論者も両者の折りのために相当腐心しているらしいことです。系 譜としてまとめることはできますが、細部はかなり錯綜しているようで、 一義的に整理するのは大変そうです。たとえば、ストア派的な運命論を継 承したとされる3世紀のアフロディシアスのアレクサンドロスなどは、一 方で「運命によって生じるものも、必ずしも生起するとは限らない」と述 べていたりもします。運命とされることも、外的な要因によって妨げられ ることがあり、厳密に必然として生じるわけではないというのです。4世 紀のネメシウスも、人間の活動の結果は運命によって制御されているとし ながら、各時点の選択は人間の自由な発案によって行われると述べている といいます。神の恩寵(運命を包摂するものです)は、自由意志に依存し ないものに限られるともいいます。こうした考え方はダマスクスのヨアン ネスなどに受け継がれます。 やはり4世紀ごろのカルキディウスなどは、ある意味オッカムを遙かに先 取りする形で、運命に関する神の知見について考察をめぐらしています。 それによると、神はあらゆることを知るが、それぞれの事物をその本性に 応じて知る、つまり必然であるものは必然として、偶然であるものは偶然 として知るのだといいます。神における予見は、因果関係がはっきりして いる必然については可能だけれども、偶然の出来事については、その結果 がすでに与えられている(確たるものとして見通せる?)場合に限られる としています。オッカムが論理学的に精緻に論じた神の予見の限定性の議 論は、このようなところに先例を見出すことができるのですね。 ボエティウスはこれとは少し違う立場のようです。ヴェルベケによれば、 ボエティウスは運命(あるいはそれを含む広義の摂理)と自由の問題につ いて、人間の自由はそのモラルの水準と密接に連動しているとし、むしろ 自由の側に制限を加えています。と同時に、神の知は偶然的未来について も不確かではないとしています。上のカルキディウスとは対照的な考え方 ですが、これはプロクロスの議論の影響があるようです。ボエティウスの この議論は、はるか後代にまで影響を及ぼします。著者によると、ボエ ティウスの考え方は後のアルベルトゥス・マグヌス、シュトラスブルクの ウルリッヒ、ドゥンス・スコトゥスなどに取り込まれているといいます。 いずれもオッカムとは対照的な論者たちです。さらに後代にいたると、た とえば16世紀初頭のピエトロ・ポンポナッツィなども、ボエティウスの 運命・摂理感を引き継いでいるといいます。 一方でオッカム的な考え方のほうも、後世に再び見直されるなどして波及 していきます。それは現代にまで命脈を保っているといっても過言ではあ りません。たとえばオンラインのスタンフォード哲学百科(Stanford Encyclopedia of Philosophy)の「prophecy」の項(http:// plato.stanford.edu/entries/prophecy/)などを見ると、この摂理と自 由の問題は今なお哲学的議論を呼んでいることがわかります。神が偶有的 未来への予見を持ち得ないという考え方には「Open Future View」(開 かれた未来観)という名称が付いていて、ウィリアム・ハスカー(アメリ カのキリスト教系の哲学者)の論などが紹介されています。オッカム主義 という名称でオッカムの考え方も簡便にまとめられていますが、ちょっと 面白いのは、そこから「我々が今何かをすることで、過去がまったく異 なったものになるという可能性」という議論を引き出していることです。 これは既成の時間概念を覆すかのような、ちょっとスリリングな考え方で もあります。ペトロが自由意志でもって、イエスを否認しない選択をして いたなら、ペトロがイエスを否認するだろうという預言をイエスは決して 行わなかったろうというのです。これをひっくり返して、イエスのその言 が預言になったのは、ペトロがイエスを否認しない選択をしなかったから だ、とも言うことができそうです。このような「過去に対する反事実的働 きかけ」が、預言論やひいては時間論にどういう影響を与えうるかという のはとても刺激的なトピックだと思われます。また、こうしたオッカム的 議論の評価をめぐっても見解は分かれているようで、このあたりは今は深 追いする余裕がありませんが、キリスト教哲学に固有の問題として大変興 味深いものがあります。いずれにしてもオッカムの議論が投げかけた残響 が、現代の哲学・論理学にまで響いているというのは示唆的かもしれませ ん。 * * * 年頭から見てきた預言に関する諸見解ですが、このあたりでひとまずいっ たん休止することにします。預言者の真偽をめぐるアラブ系の内観的な考 え方や、アルベルトゥス、トマス、オッカムのそれぞれの預言観、予見観 を見ただけですが、それだけでもずいぶん興味深い問題が示されていたと 思います。そのぞれぞれに思想史的背景、あるいは系譜のようなものがあ ることを思えば、一筋縄ではいきそうにないそのあたりを探っていくこと も興味のつきない探索になりそうですね。 思えば三月の震災を挟んだこともあって、個人的には予見や預言といった 問題系がやけに生々しく感じられたりもしました。予見や預言はそうした 災禍と切り離せないものですが(預言が預言として成立するのは災禍があ るから、また災禍が象徴として際立ったものになるのは預言によって囲い 込まれるから……といった循環的な関係があるように思えるので……)、 ここまで見てきた議論には、そうした災禍に関連する話はごくわずかしか 出てきません。そのあたりの(期待と実際との)落差に、ちょっと戸惑い を覚えたりもしました。もちろんそれは、ここで取り上げたのが預言をめ ぐる議論のほんのさわり程度にすぎないからかもしれませんが、今後もま た折をみて、そうした災禍と預言といった問題も改めて(また別の切り口 で)取り上げていきたいものだとも思っています。 さて、夏休み明けからは、新たに今度は西欧の本草学方面での散策を試み たいと思っています。またお付き合いくださいますよう、お願いいたしま す。 (了) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その15) 「神は形相なしの質料をなしうるか」の三回目です。相変わらずドミニコ 会派の論者の議論を追っています。さっそく見ていきましょう。 # # # Hoc ipsum etiam probant in materia spirituali. Cum enim non possit esse sine modo existendi simplici et determinato, et hoc simplici simplicitate intellectuali, quae non videtur posse intelligi sine forma vitae et intellectus aut sine forma simplicitatis intellectualis; videtur quod ponere eam in esse sine forma sit ponere eam simul esse et non esse. 彼らはこれを、霊的質料においても論証している。霊的質料は端的かつ限 定的な実在の様態がなければ存在しえないが、その端的な様態は知性の端 的さに属し、生命と知性の形相なしに、あるいは知性の端的さの形相なし には理解されえないと思われる。霊的質料を形相なしに存在に置くこと は、それを存在に置くと同時に非在に置くことと同義であると思われる。 Tertio probant hoc de materia in generali; quia illud esse formale et determinatum sine quo saltem esse non poterit aut dicit aliquam essentiam aut nullam. Si nullam, ergo nihil est penitus. Si aliquam - et utique non dicit aliquam essentiam materialem - : ergo dicit essentiam formalem. - Praeterea, cum omne quod inhaeret materiae et est receptum in ipsa et est ipsam perficiens, ita quod per ipsum existit et est ens actu, videatur dicere aliquam essentiam formalem, cum omnes praedictae conditiones sint conditiones formae, illud autem esse formale, omnia ista in se habebit; ergo et cetera. / 第三点として彼らは、質料全般においても論証している。その形相的で限 定的な存在は、質料がそれなしには存在すらできないものだが、それは何 らかの本質を意味しているか、あるいは何の本質も意味していないかのい ずれかである。何の本質でもないとしたら、まったくもって無であること になる。もし何かの本質であるとしたら、いずれにしても何らかの質料的 本質を意味することはないので、よってそれは形相的本質を意味すること になる。ーー加えて、質料に内在するすべてのもの、またそれに受け入れ られるすべてのもの、そしてそれを完成させるもの、つまりみずから実体 として存在し現実態の有であるものは、何らかの形相的な本質を意味する のだと思われる。ここに挙げたすべての条件は形相の条件であることか ら、その形相的存在は、それらすべてをみずからのうちに持つだろう。ゆ えに(以下略)。 - Praeterea, iste actus essendi aut erit actus primus aut actus secundus. Si est actus primus : ergo erit forma, quia actus primus et forma idem sunt secundum Aristotelem. Si autem est actus secundus, esset operatio, quod nullus concedit; et posito quod esset, adhuc oporteret materiam habere aliud esse ab ipso. - Praeterea, posito quod esse differat ab essentia, non tamen sic videtur posse differre quod sit effectus formae et talis qui ab ipsa possit separari, quia tunc forma causaret suum esse et ita, ut videtur, causaret se ipsam; quod est haereticum. Et non solum esset causa formalis, sed etiam efficiens suae materiae et sui suppositi, quoniam vere efficeret esse suae materiae et esse sui suppositi. Quicquid autem efficit esse alicuius facit ipsum esse de non ente ens, quoniam sine illo esse erat non ens et adhuc esset. / ーー加えて、この存在の現実態は第一の現実態かもしくは第二の現実態と なる。もし第一の現実態であるならば、それは形相となるだろう。なぜな らアリストテレスによれば、第一の現実態と形相は同義であるからだ。も し第二の現実態であるならば、それは作用となるだろうが、何人もそのよ うなものであるとは認めない。もし作用であるとするならば、そのために は質料が、みずからとはまた別の存在を持っていなくてはならないだろ う。ーー加えて、存在が本質とは異なると仮定しても、だからといって存 在が形相の結果であるがゆえに異なり、形相から分離できるようなものと して異なるとは考えられない。なぜならその場合、形相はおのれの存在を 生じせしめ、みずからの原因となるように思われるからだ。けれどもそれ では異端的になってしまう。しかもそれは形相因であるのみならず、みず からの質料や代示の作用因にもなってしまう。なぜなら、実際にその質料 の存在と代示の存在をもたらすからである。だが何らかの存在をもたらす ものは何であれ、その存在を非有から有へといたらしめる。その存在がな ければ、それは非・有であったのだし、なおも非・有であるだろう。 # # # 形相なしの質料を措定することはできない、という線での議論が引き続き 取り上げられています。ドミニコ会派の論者たちは、必ずしも霊的質料の 区分を認めてはいないと思われますが、ここではオリヴィが自家薬籠中の ものとしているその概念でもって議論を整理しています。面白いのは三つ めの節でしょうか(実際には二つめと三つめは同一段落ですが、例によっ て便宜的に分けています)。おそらく念頭にあるのはトマスでしょう。本 質と存在は異なり、形相は本質を与えるけれども存在を与えるのではな い、という議論がはっきりまとめられています。存在を付与できるのは神 だけで、形相がみずから存在までも付与できると主張すれば、それは多神 論的になってしまう(つまり異端)というわけですね。オリヴィはこれら にどう対応していくのでしょうか……。 さて、前々回から見ているトイヴァネンの論考から、今回はスペキエス関 連の部分に注目しておきたいと思います。以前にも出てきましたが、スペ キエスというのはいわば対象が感覚器官に刻印する印影のようなもので、 対象物でもイデアでもない、存在論的にはかなり微妙というか特異な「中 間物」のように思われます。中世においてはそれが感覚受容の理論として 大いにもてはやされていたのでした。で、オリヴィは基本的に、そうした スペキエスを知覚の説明に持ち出すことに反対していたとされています。 このトイヴァネンの論文では、そのあたりを子細に問い直そうとしていま す。 オリヴィがスペキエス概念を批判するのは、とりわけそれが知覚を受動的 に受け止めている点です。一般にスペキエスは対象物の側から感覚器官に 「立ち上る」もので、感覚器官はそれをただ受け入れるだけだとされるの ですが、オリヴィは知覚というものはもっと能動的ではないのかと考えて いるようなのです。 とはいえ、論文の著者によると、オリヴィがもっぱら批判しているスペキ エス理論は、ごく限られた一部の理論にすぎないようなのです。著者の分 類では、中世の受動的な知覚論は大別して(A)認識作用は対象物によっ て直接生じる、(B)認識作用は、対象物がもたらすスペキエスによって 生じる、(C)認識作用は、魂の機能がもたらすスペキエスによって生じ る、などがあり、Bはスペキエスのみを作用因とするか(B1)、あるい は魂の機能も作用因に含めるか(B2)でさらに下位区分され、さらに多 くのヴァリエーションが存在するといいます。またCも対象物の役割がな いとするか(C1)それともあるとするか(C2)で下位区分されます。著 者によれば、オリヴィがもっぱら取り上げて批判するのはB2に入る各種 の議論で、とりわけ洗練の度合いが低い、スペキエスを一種の表象・記号 と見なすような立場(トマスもそれに類するといいます)を主たる批判対 象にし、ほかの理論にはそれを敷衍する形で対応しているのだとか。 スペキエスを単なる表象と見なしてしまうと、衝立一枚を挟んで人間が対 象物とやりとりをすることになり、人間が対象物を把握・理解する契機が 失われてしまう、下手をすると感覚器官の信頼性そのものが損なわれてし まう、というのがその批判の主眼なのですね。スペキエスがあるとした ら、それは対象の表象などではなく、対象そのものでなくてはならないは ずだ、というわけです。さもなければ魂は外部世界をまったく掌握できな いことになってしまう、と。 ここにはすでにして、オッカムの剃刀のごとき「無駄なものは定立しては ならない」という発想が見られるようです。とくにC1の場合など、スペ キエスは冗長で、魂が対象物を直に把握するとするほうがすっきりする議 論もあります。ただ、オリヴィは必ずしもスペキエスの存在を全否定して いるわけではないようで、異端の嫌疑に対する弁解の書で、「認めないの ではない」といった主旨のことを述べています。とはいえそのスペキエス 理解は、トマスなどの場合のように精神的なもの(=表象)とは受け止め ず、オリヴィはあくまで物質的なもの(対象物の側にあるもの)として解 釈しようとし、その立場からスペキエスを精神的なものだと考える必要は ないのではないか、としているらしいのです。質料形相論の絡みからする と、事物に宿る形相の把握ということが問題になってくるように思われま す。このあたりをオリヴィがどう見ていたのか、とても気になりますね。 というわけで、この話、本文とも絡んでまだ続きます。 *本マガジンは隔週の発行ですが、夏休みを挟みますので、次号は08月 27日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------