〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.200 2011/08/27 ------文献探索シリーズ------------------------ 薬草学を縦断する(その1) 今回から新たな探索をということで、西欧の植物誌を少しめぐってみたい と思います。個人的に古代から中世の医療史全般への関心が高まってきた のですが、その一環として薬草学の歴史も押さえておきたいからなのです が、とはいえこれまた長い研究の蓄積がある分野のようですので、とりあ えずここでは相変わらず私的な入門という感じで、植物誌・薬草学の流れ を大まかに振り返るところから始めたいと考えています。 植物誌の伝統は古代ギリシア・ローマ時代から綿々と続いているわけです が、個人的にその中身というのはよく知らなかったりします(苦笑)。そ んなわけで、せっかくの機会ですから少し中身も読んでみたいところで す。もちろん、様々な文献を渉猟する余裕はないので、とりあえず初心者 らしく、代表的なものの一部をいくつかスポット的に選んで見ていくこと でよしとしましょう。具体的には、植物誌のそれぞれを読破するという感 じではなく、扱っている対象や事項をいくぶん串刺し的に、つまり時代や 場所の異なる著作の事項の扱い方を「縦断」的に見ていけないだろうかと 考えています。同じテーマがあるのか、あるならばどう変奏されていくの か、総じてどう展開していくのかなどなど、少しでも目にできればいいか なと思います。 今回は初回ですので、薬草学のそもそもの「始祖」ということで、テオフ ラストス(前四世紀頃)による『植物誌』に登場願いましょう。よく知ら れているように、テオフラストスはアリストテレスの後を継いでリュケイ オンを率いた人物ですが、その著書(かなり膨大なものだったらしいので すが)はすっかり失われてしまっていて、数少ない現存するものの一つに 『植物誌』があるということでした。以前ブログにも記したことがありま すが、その『植物誌』はアリストテレスの自然学、とりわけその機能主義 的な面を継承し、人間にとっての有用性・操作性の観点を大いに前面に出 している気がします。植物の分類、各部位の分割などを体系的に記してい るわけですが、有用性・効用などに関する記述に、思いのほか多くのペー ジが割かれている印象です。樹液や植物の医療的特性についてまとめられ ている九巻は、そのことがとりわけ顕著です。 たとえばシナモン(とカッシア)についての記述(九巻五章)を見てみる と、まずはその大きさについて(基本的にそれらは低木です)記されてい ます。次いでそれを切る場合に五つの部分に分割されることが記されてい ます。何かに使えるかどうかという有用性をもとに分割されていて、枝よ りの部分から根よりの部分へと五つに分かれ、根に近いほうに行くにした がって有用性が減じると報じられています。ここで言う有用性とは樹皮の 有用性のことです(具体的な使用方法はここには出ていません)。続い て、シナモンには二種類(黒いものと白いもの)があって、それについて の伝説(日の光で火がついた?)が紹介されています。 続く「メッカのバルサム」なる植物についての記述(九巻六章)では、ま ずそれがシリアのごく限定的な場所にのみ生息していることが紹介され、 続いて大きさ(「ザクロと同じくらいの低木」)、枝葉(「枝が多く、葉 はヘンルーダに似ているが色が薄く常緑」)、実(「テレビンノキの実に 類似し、香りが強い等)といった部分の記述が続き、続いて有用性として 樹液の採取の話が紹介されています。夏に木の幹や上部に切れ目を入れて 採取するのですね。樹液は量としては多くなく、芳香を伴っていて離れた 場所からも感知されるほどだといいます。また、採取したままではピュア な状態ではない(混合物が多い)とされています。枝そのものも芳香を出 しており、枝だけでも良い値で売れるのだとか(笑)。さらに、低木であ る理由の一つはそうやって枝が刈り込まれるからかもしれないとしていま す。このように、個別の木々のトピックは違っていても、取り上げる内容 はある程度パターン化されていて(すなわちそれが体系的記述ということ なのですが)、全体的に「有用性」の観点に貫かれているように思われま す。 九巻八章になると、より総論的に樹液について記述されています。とりわ け根などからの樹液の採取方法が取り上げられています。根にはいろいろ な利用価値があるとし、とくに求められるのが医学的特性だとされていま す。根や実や樹液など、医学的な利用は植物の種類によって部位が異な り、また効能も異なるとされ、続いて根の堀り方(「多くの場合には初夏 もしくは晩夏に行う」)、樹液の採取の話が続きます(茎や根、先端部分 などから採取する云々のほか、薬剤師などによるアドバイスなども一部誇 張ありとしながら紹介されていたりします)。長いのでここでは内容のま とめを割愛しますが、このように、本文においては医学的特性が具体的に 挙げられているわけではなく、あくまで植物の特徴を体系的に記していく というのが主旨ですが、いずれにしても有用性への関心が強調されている 点で、薬草学への途はすでにして十二分に開かれているという印象があり ます。あるいは別のテキスト、薬草学プロパーのテキストが、テオフラス トスの失われたテキストの中にあったかもしれない、などと想像してみる と実に楽しいです(笑)。 そうした薬草学プロパーのテキストとしては、いきなり時代はかなり下っ てしまいますが一世紀のディオスコリデスがとりわけ有名です。ちょうど プリニウス(大プリニウス)と時代が重なる人物です。プリニウスも『博 物誌』で知られる大家ですが、ディオスコリデスの比較というのも面白そ うです。というわけで、そのあたりも含めて次回からぼちぼちと見ていく ことにします。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その16) さて、いよいよこのテキスト(『命題集第二巻問題集』問一九)も大詰め にさしかかっています。オリヴィはここで、ドミニコ会系の論者たちを注 視しながら、彼らによって権威として援用されているアウグスティヌスに 言及していきます。 # # # - Praeterea, secundum hoc Deus poterit facere formam absque omni esse formali, quia Deus potest omni causae efficienti tollere suum effectum ipsa causa non ablata, cum existentia causae efficientis non dependeat a suo effectu, sed potius e contrario, et saltem non sic dependet quin possit intelligi esse sine ipso. Si igitur forma sic differt a suo esse sicut causa efficiens a suo effectu : ergo ipsa remanente Deus potest eam impedire ne producat suum esse et ita poterit eam facere esse absque omni esse. ーー加えて、これによると神はあらゆる形相的存在なしに形相を創ること ができることになるだろう。なぜなら神は、あらゆる作用因において、原 因は取り除かずにその結果だけを取り除くことができるからである。作用 因の実在自体はその結果に依存してはおらず、むしろ逆であり、いずれに しても、作用因の存在が結果なしでは解されないほどには結果に依存して はいないのだ。よって、作用因が結果から異なるように、仮に形相がその 存在から異なるのだとしたら、神はその形相の存続にもかかわらず、形相 がおのれの存在を産出しないようにすることができ、よっていっさいの存 在なしにそれを存在せしめることもできることになる。 Adducunt autem isti pro se auctoritatem Augustini, II De libero arbitorio, aliquantulum ante finem, ubi per formas rerum mutabilium vult probare esse aliquam formam aeternam et incommutabilem, dicens sic : "Si quicquid mutabile aspexeris vel sensu corporis vel animi consideratione capere non potes, nisi aliqua numerorum forma teneatur qua detracta in nihilum recidat : noli dubitare, ut ista mutabilia non intercipiantur, sed diversis motibus et distincta varietate formarum quasi quosdam versus temporum peragant, esse aliquam formam aeternam et incommutabilem per quam cuncta ista formari valeant". Ecce quod Augustinus hic vult quod niihl mutabile potest homo etiam mentis consideratione capere, nisi aliqua forma numerorum teneatur, et vult quod illa detracta statim in nihil recidat. Et paulo post dicit quod "omnia quae sunt, forma penitus subtracta, nulla erunt". 彼らは自分たちのために、アウグスティヌス『自由意志について』の末尾 から少し前を権威として引き合いに出している。アウグスティヌスはそこ で、可変な事物の形相を通じて永劫かつ不変ななにがしかの形相が存在す ることを論証しようとし、次のように述べている。「いかなるものであれ 可変なものを考察しようと場合、身体感覚もしくは魂による考察によって それが掌握できるのは、それを取り除いてしまえば無に帰してしまうよう な、数のなんらかの形相が保持されている場合のみである。そうした可変 性が中断せず、様々な運動と個別の多様な形相によって、あたかもなにが しかの時間の中を縫っていくようにするためには、そうしたいっさいが形 成されるもととなる、なんらかの永劫かつ不変の形相が存在することを 疑ってはならない」。アウグスティヌスがここで述べようとしているの は、どのような可変なるものも、人間は精神的な考察をもってしても把握 できず、できるとしたら、数のなんらかの形相をもつ場合だけで、それが なければただちに無に帰してしまう、ということである。その少し後にア ウグスティヌスは、「存在するすべては、形相が完全に取り除かれるやい なや、何でもなくなってしまうだろう」と述べている。 Et iterum infra : "Istae igitur duae creaturae, corpus et vita, quoniam formabilia sunt, sicut superius dicta docuerunt, amissaque omni forma in nihilum recidunt, satis ostendunt se ex illa forma subsistere quae semper eiusmodi est". Intelligit autem nomine vitae spiritus incorporeos. Et iterum infra : "Quid enim maius in creaturis quam vita intelligens aut quid minus potest esse quam corpus? Quae quantumlibet deficiant et eo tendant aut ut non sint, tamen aliquid formae eis remanet, ut quoquomodo sint". Sed si per miraculum potest materia esse sine forma, poterit intellectu capi et etiam cogitari esse sine forma, pro eo quod omne illud in quo non cadit contradictio potest intellectu capi et cogitari. Non etiam erit verum simpliciter quod substracta omni forma vertantur in nihil. Simpliciter enim videtur hoc Augustinus dixisse quoniam ex necessitate formae seu formationis rerum mutabilium probat esse formam aeternam per quam semper formari possint ad hoc ut habeant esse, acsi sine huiusmodi formatione non possint ab ipso recipere esse. / さらに続く箇所には次のようにある。「したがって、上記に示されたよう に、身体と生命というこの二つの被造物は形成可能であり、すべての形相 を失えば無に帰してしまうのだから、それらは、みずからが常にそのよう な様態にある形相によって存続していることを、十分に示している」。し かるにアウグスティヌスは、生命という名詞を非物体的な霊と解してい る。さらに続く部分には次のようにある。「知解する生命以上にすぐれた 被造物には何がありえようか、また身体よりも劣ったものとは何がありえ ようか?どれほどの欠陥があろうと、またどれほど存在しないことを志向 しようとも、それらにはなんらかの形相がとどまり、なんらかの形で存在 するのである」。だが、もし奇跡によって、形相を伴わない質料がありえ るならば、知性によってそれは形相なしに存在しているものと掌握され、 認識されるだろう。矛盾に陥らないすべてのことは知性によって掌握さ れ、認識されうるからである。また、あらゆる形相を取り除くと無に帰し てしまうということも端的な真理ではないだろう。というのも、アウグス ティヌスがそのことを述べたのは、形相の必然、あるいは可変な事物の形 成の必然から、個々の事物が形成されて存在できるようにする永劫の形相 が存在することを論証しているからにすぎない。あたかもそのような形成 がなければ、存在を受け取ることができないかのように。/ # # # ちょっと切り方が悪かったのですが、最初の段落(便宜的に段落分けして います)は前回の部分に直接繋がっています。ドミニコ会系の議論を採録 する形で、質料が形相と不可分であるという議論をたどってきたオリヴィ は、ここで形相的「存在」なしに形相がありうるという話をもってきま す。これはつまり、形相が可能態のままで、現実態としての存在をもたず にいることを示してると思われます。そのこと自体はとりたてて意外な議 論ではありません。で、そうした可能態としての形相という話を権威に よって裏付けるべく、次の段落ではアウグスティヌスの文章が引用されま すが、ここでオリヴィは議論を別の次元、つまりは認識論的な次元にシフ トさせているようにも見えます。 知解する生命(つまりは魂ということでしょう)は矛盾に陥らない限り、 形相の存在、あるいはその非在を認識できる、とオリヴィは考えているよ うです。ではそれはどのような認識なのでしょうか。とくに言明されては いないようですが、それはアウグスティヌスにもとづくとされる照明説 (神が照らすことによって、人間の不完全な知が補われるという考え方) のようなものなのでしょうか−−というのも、照明説はときにスペキエス 不要論において援用されたりもするからです(ボナヴェントゥラなど)。 前回まで挙げていたトイヴァネンの論文ではなく、今回はスペキエス論 (可知的形象)の歴史を追ったリーン・スプルートの大作『知的スペキエ ス - 知覚から知識へ』第一巻(一九九四)でもって、そのあたりを見てい くことにします。それによると、アウグスティヌスは、感覚的現実は感覚 器官のレベルにまでしか達しないとし、魂に内在する知性が扱うのはあく まで刻印された像だ、といった言い方をしているようです。それがいわゆ る知的スペキエス(可知的形象)を意味するかどうか、感覚と知性を媒介 するものがあるとアウグスティヌスが考えていたかどうかは曖昧らしく、 後世の論者たちの間でも見解が分かれているといいます。オリヴィはとい うと、この点についてコメントし、アウグスティヌスはすでにしてスペキ エスと認識行為とを同一視している、と論じているらしいのです。 著者のスプルートによれば、アウグスティヌスのテキスト(『音楽論』な ど)からは、感覚的な形象(像)が魂にまで届く場合があると、アウグス ティヌスは認めていたことが窺えるらしいのですが、とはいえその場合で も、像は受動的に刻印されるわけではなく、魂の側がそうした形象に対し て一種のリアクションを起こすことで、形象の認識が生じるものと考えら れているようです。そしてどうやらそれが、(大まかには)オリヴィが唱 えている議論でもあるらしいのです。 オリヴィも感覚と知性の世界を厳密に区分しようとし、感覚対象からの働 きかけを認めず、むしろ認識能力の側の能動性を強調しています。認識は 心的な原理にもとづいて、外界とはまったく独立して作用するものとさ れ、外部の対象物はあくまで知性が向かう先、その終着点にすぎない…… オリヴィはそのように考えているのですね。こうして逍遙学派的な能動知 性の考え方も、一方のスペキエスの理論も、オリヴィは冗長であるとして 斥けているといいます。魂の認識能力がありさえすればそれで済むではな いか、というのでしょう。 ですがいずれにしてもその場合、「では形相の理解はどう成立するのか」 という疑問が残ります。心的機能が独立していて、対象へのリアクション として内的に認識が成立するのであれば、単純に考えて、形相は知解する 魂の側にあらかじめなければならないようにも思えますね。と同時に形相 はやはり事物の側になくてはなりません。最近出たばかりの山内志朗『存 在の一義性を求めて』(岩波書店)には、「オリヴィにおいては、個体の 直接的認識を可能性にさせる前提が、普遍が被造物の中にあるということ です」(p.51)との一節があります。著者はそれに続いて、オッカムの ように唯名論と個体主義が結びつくのではなく、実は実在論と個体主義が 結びついている点に注意を促しています。 この「直接的認識」なるものはなにやら悩ましい問題で、オリヴィもあま り詳しい説明を加えてはいないようなのですが、いずれにしても、こうし たことを踏まえて上のテキストを見直してみると、なかなかに示唆的で す。そもそも個体が個体として認識されるのは、とりもなおさず形相が認 識されるからということになるのでしょうけれど、形相は事物の中にあっ て、必ずしも存在(現実態としての)を伴っていなくてもよく(つまり可 能態であってもよく)、ということは、知性によって認識された状態の形 相はまさしくそうした可能態としての形相だ、ということになりそうで す。で、仮に形相のない質料があったとすれば、それもまた「形相なし」 として認識される……と。その場合はもはや個体としての対象の認識では なさそうですが、ではそれはどういう認識だということになるのでしょう か。このあたりの話と呼応するかのように、上で読んでいるテキストも続 いて第一質料などの話へと進んでいきますが、それはまた次回に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月10日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------