〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.201 2011/09/10 ------文献探索シリーズ------------------------ 薬草学を縦断する(その2) 著書がすべて失われている紀元前二世紀のクラテウアスを別とすれば、薬 草学の始祖として西欧で最も著名な人物といえば、なんといってもディオ スコリデスです。一世紀に活躍したギリシアの自然学者で、ネロの軍隊で は外科医を務めていたのだとか。その著書となる『マテリア・メディカ』 は、オリジナルこそ失われているものの、その後に幾多もの写本で伝えら れ、現存する古いものとしてはたとえば絵入りの五世紀の写本があり、 ウィーンの国立図書館に所蔵されているのだとか。これはもとの所有者の 名を取って、アニキア・ユリアナ写本とも言われています。アニキア・ユ リアナは五世紀から六世紀にかけて生きた、西ローマ皇帝の皇女ですね。 『マテリア・メディカ』は、五世紀以後も写本が作られ続け、アラブ世界 にも広く流布したようで、アラビア語版なども多数あるようです。筆写さ れるたびに新しい要素が加わっていったようです。『マテリア・メディ カ』は英訳がオンラインで公開されていますが(http:// www.cancerlynx.com/dioscorides.html)、これの序にあたる分冊に、 1473年以降に西欧で出た印刷本の一覧(抜粋その他の二次テキストも含 めてですが)が載っていて、このリストはなんとも壮観です。活版印刷の 誕生が、その流布に拍車をかけたのでしょうね。1540年代あたりはとく に多くて印象的です。1600年代になると、数は減り刊行ペースも緩慢に なってはいくようですが、それでも着実に出版されています。 同書は五巻から成り、各巻ともテーマごとに大別されて、それぞれに分類 される植物についての解説が続きます。一巻のテーマは「芳香」「油」 「軟膏」「樹液」「果実」。二巻は「(植物関連の)生物」「獣脂」「穀 物」「野菜」「特徴的成分のあるハーブ」。三巻は「根」「とげのある植 物の根」、四巻は「その他の草と根」、そして五巻が「葡萄とワイン」 「鉱物」などとなっています。薬草が主ですが、医術に用いることのでき る動物や鉱物なども素材として扱われています。 この書でとりわけ有名なのは、上のアニキア・ユリアナ写本にある、発明 の女神ヘウレシスからマンドラゴラを受け取るディオスコリデスの挿絵で しょうか。ディオスコリデスは、死せる犬をつないだ紐を握っています。 この挿絵は、Wikipediaでも見ることができます(http:// en.wikipedia.org/wiki/File:ViennaDioscoridesAuthorPortrait.jpg)。 マンドラゴラといえば、あの人間の形をしている根をもっているなどと言 われる「伝説の」植物ですね。『マテリア・メディカ』では四巻にまと まった記述があります(4-76:mandoragoras)。同書の記述では、マ ンドラゴラは根から媚薬が作られる植物だといい、雄雌の二種類があると され、次いでそれぞれの特徴の記述が続いています。特に雄の方は催眠薬 や麻酔薬になり、解毒剤などにも使われるとされています。記述はかなり 具体的で、上の英訳にもとづくなら「甘口のワイン一三ガロンに三ポンド 混ぜて三杯飲ませれば、外科治療の際に痛みを感じなくなる」などと記さ れています。「伝説」めいた話はまったくなく、いわゆる「学術的」見解 が淡々と示されていく感じです。 上の「死せる犬」は何を意味しているのでしょうか。これに関連して、か なり古い論文ですけれど、とても興味深い文章がネットで読めます。 チャールズ・ブルースター・ランドルフ「フォークロアと医術における古 代人のマンドラゴラ」という論考で、なんと1905年のものです(http:// www.jstor.org/stable/20021986?origin=JSTOR-pdf)。ですがこ れ、テオフラストスやプリニウス、ディオスコリデスなどの比較なども あって、今読んでもなかなか興味深い文章になっています。基本線を押さ えておくためには有益な論考ではないかと思われます。 で、それによると、この死せる犬とマンドラゴラの関係というのは、どう やら他の植物の特徴からの「転用」によるもののようです。ヨセフスが紹 介しているバアアラスなる別の植物、あるいはアエリエヌスが記している シノスパストゥスないしアグラオフォティスなる植物は、根を抜こうとす ると、その根の毒によって引き抜く本人が死してしまうといい、そのため 身代わりとして犬を使うのだとされているそうです。根を引き抜いた犬は そのまま死してしまいます。で、その話がマンドラゴラに「転用」された らしいと著者は述べています。別の植物に関連づけられていたオリエント の「神話」が、五世紀ごろまでにマンドラゴラに関連づけられるように なった、というわけです。なかなか興味深い話ですね。 ほかにも、この論文には興味深い指摘がいろいろとありますので、せっか くですのでその内容をまとめておきたいと思います。というわけでそれは 次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その17) 今回の箇所で一応、この問一九は読了になります。ではさっそく見ていき ましょう。 # # # XII etiam Confessionum, in fine, supponit tanquam certum quod materia prima in ipsa creatione non praecessit omnes formas suas tempore, sed solum origine. De hoc autem non posset multum esse certus, si aliquo modo esse potuit absque forma, quia non multum clare posset hoc ex textu sacro elici nec per rationem necessarium probari. Quamvis enim dicat Ecclesiasticus: Qui vivit in aeterum creavit omnia simul, illud potest satis exponi quod aliquo modo creata fuerunt omnia, quando creata fuit eorum materia de qua etiam seu in qua fieri possent; alias enim certum est quod omnes animae hominum non fuerunt simul creatae. Potest et aliter exponi, sicut in quaestione de hoc propria habet tangi. 一方、『告白録』一二巻の末尾でアウグスティヌスは、次のことをほぼ確 かだと考えている。つまり、創造それ自体において第一質料は形相に時間 的に先だっていたのではなく、ただ起源において先立っていたにすぎない ということだ。とはいえこのことから、なんらかの形で形相のない質料が ありえたということはさほど確かではありない。そのことは聖書からそれ ほど明確には引き出せないし、理によって必然であると論証することもで きないからである。伝道の書は「永遠の生をもつものは、すべてを同時に 創造した」と記しているが、これは十分に次のように解釈することもでき る。つまり、あらゆるものは、生成が可能になる大元もしくは外枠をなす 質料が創られたときに、なんらかの形で作られたのでのである、と。他 方、人間のすべての魂が同時に創られたのではないことは確かである。こ の点については、それに特に触れた問において示すように、別様の解釈も 可能である。 Quando autem ab istis quaeritur quare per miraculum potest Deus facere formam sine materia, sicut facit in sacramento Eucharistiae, potius quam materiam sine forma, cum non minus videatur forma dependere a materia quantum ad subsistentiam sui esse quam materia a forma : respondent quod nulla res potest aliquo modo esse sine aliquo modo essendi determinato; esse enim actuale eo ipso quo est actuale est aliquod esse speciale; unde videmus quod moles cerae non potest esse sine determinata unione partium et sine determinata figura nec quantitas potest a Deo fieri sine determinatio modo extensionis seu mensurae. / おのれの実体が存在するために質料が形相に依存するのと同様に、形相も また質料に依存していると思われるが、なぜ神は奇跡によって、形相のな い質料よりもむしろ、伝道の書にあるように、質料のない形相をもたらす ことができるのだろうか−−これらの人々にそう問うてみるならば、彼ら は、いかなる事物もなんらかの限定を被らずに、なんらかの形で存在する ことはできないのだと答えるだろう。たとえば現実態の存在は、それが現 実態であることから、個的な存在である。ゆえに、蝋の塊は部分の限定的 な結合なしには存在できないし、限定的な形象なしにも存在できない。ま た、拡がりもしくは大きさという形での限定のない量も、神によってもた らされることはありえない。/ Materia autem est de se omnino indeterminata, forma autem est de se terminus, unde in se icludit modum essendi specialem et determinatum; et ideo non est ita contra rationem ipsius esse actualis formam fieri sine materia sicut materiam sine forma. Negant etiam isti quod forma tantum dependeat a materia quoad suum esse sicut materia dependet a sua forma, addentes quod hoc dicere est in fide periculosum; quia cum philosophantes et paganizantes viderint quod materia non potest aliquo modo intelligi esse sine forma, iudicabunt secundum hoc quod miraculum de sacramento Euccharistiae non sit verum, quod scilicet ibi sit aut esse possit forma sine materia しかるに、質料はもとよりすべて非限定的だが、形相はもとより境界をな し、よってみずからのうちに、個別的かつ限定的な存在の様態を含んでい る。よって、質料なしの形相をもたらすことは、形相なしの質料をもたら すことほど、現実態の存在の理に反しないのである。彼らはまた、おのれ が存在するために質料が形相に依存するように形相も質料に依存するとい うことを否認し、そのように言うことは信仰において危険であるとも付け 加える。というのも、哲学や異教にかぶれる輩は、質料がなんらかの形で 形相なしで存在することなど理解できないと考えるとき、それをもとに、 伝道の書の秘蹟についての奇跡は真実ではない、そこには質料なしの形相 がある、もしくはありうる、と判断するからである。 Quae igitur istarum opinionum sit verior aliorum iudicio derelinquo; mihi enim sufficit hoc tenere quod si in hoc contradictio non implicatur, Deus hoc potest, si autem implicatur, Deus hoc non potest. そんなわけで、これらの見解のどちらがより真実であるかという判断を、 私は他の人々に委ねよう。私にとっては、それが矛盾をはらまないのなら 神はそれをなすことができるだろうし、矛盾をはらむのなら神はそれをな しえない、と考えるだけで十分である。 # # # オリヴィはドミニコ会系の論者(おそらく念頭にあるのはトマスでしょ う)の説を追ってきたわけですが、末尾のところでは、先に挙げられてい たもの(フランシスコ会系の立場?)とどちらがいっそう真理に近いのか という点について、さしあたりの留保を表明しています。とはいえ、とこ ろどころ反照的にオリヴィ自身の質料観が示されているのはほぼ間違いあ りません。 今回の箇所では、まずアウグスティヌスから、質料(第一質料)は時間的 に先行して創造されたのではなく、起源として(ロジカルな順序の上で は)先行的に創造された(時間的には形相と同時)という議論が取り上げ られています。これはトマスなども踏襲していたと思います。この最初の 段落の末尾にある別様の解釈というのは、オリヴィの同じ書の問三一にあ るもののようなのですが、目下のところ確認できていません(あしから ず)。 続く段落では、形相が質料に依存するように質料もまた形相に依存し、そ れぞれになんらかの限定が加えられている(形相はもとより限定的であ り、質料も空間的に限定されている)というのがオリヴィら(?)の見解 であることが窺えますね。これに対してドミニコ会派の議論は、質料は非 限定であるという前提に立っています。その理屈で言えば、形相は質料に 依存してはおらず、形相なしの質料はありえないことになります。形相な しの質料がありえないことを示す一例として蝋の塊が挙げられています。 それはすでにして量的な限定を受けているではないか、というわけです ね。トマスなどは現実態におけるそうした三次元の限定を認めていまし た。 ですが、オリヴィなどが考えるような、質料がそれ自体でなんらかの本質 をもち、もとより限定的だという話(それゆえに、オリヴィ的には形相が ない質料もまた、形相のない質料として認識できることになるのでしょ う)と、この現実態における三次元の限定という話は、案外それほど大き な違いのある話ではないのかもしれません。可能態も含めた限定か、現実 態のみにおける限定化かという問題はあるにせよ(これだけを取り出せば 大問題かもしれませんが)、少なくとも現実的な質料認識についての立場 はそう違ってはいないようにも見えます。 便宜的に分けた次の段落では、ドミニコ会側が言う「哲学や異教にかぶれ る輩」は、神が「すべてを同時に創造した」という聖書の記述に対して、 それでは形相なしの質料が示唆されてしまうので真実ではないと否定して しまう人々だといいます(これが具体的に誰のことを指しているのかはわ かりませんが)。いずれにしても、形相と質料の依存関係をそもそも問題 にすること自体が、「信仰において危険」とされるのだというのです。で すがこれもまた、形相と質料の緊密な一体性を説いていたボナヴェントゥ ラ以来のフランシスコ会派の伝統を思い起こすと、どちらも案外似通った 立ち位置にあるように思えてきます。 前回も少し触れた山内志朗氏が先の著書で指摘しているように、このあた り、連続の相で見るか断絶の相で見るかによって、両派の関係性のイメー ジはだいぶ異なったものになってしまいます。うーん、実際のところはど うだったのでしょうか。これは意外に大きな難しい問題という気がしま す。簡単にこうだと言い切れるようにはとうてい思えません。とはいえ、 思想的な検証を重ねようとするなら、なんらかの形で答えを見出していか なくてはならない、そんななんとも悩ましい問題だと思われます。 オリヴィについても、ここでのテキストの訳出は今回でいったん終了とし ますが、いろいろな問題が未消化ですので、引き続き折を見て検証してい きたいと思っています。さしあたり次回からは、やはり同じフランシスコ 会派の後代の要人、オッカムのウィリアムを取り上げてみたいと考えてい ます。よろしければまたお付き合いくださいますよう、お願いいたしま す。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月24日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------