〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.202 2011/09/24 ------文献探索シリーズ------------------------ 薬草学を縦断する(その3) 前回触れたランドルフ「フォークロアと医術における古代人のマンドラゴ ラ」という論考をざっと見ておきましょう。マンドラゴラといえば、人間 の形をした根をもっているなどと言われる「伝説の」植物ですが、当然と いうべきか、まず取り上げられているのはその植物をめぐる迷信です。そ の最たるものが、根を掘る際に行うべきしきたりや注意です。 さっそくここで、テオフラストス、プリニウス、ディオスコリデスの比較 が始まります。テオフラストスは、根に毒性がある植物の場合、根を掘り 出す際に、体が触れる箇所に油を塗っておくとか、風下で作業するとかの 注意は有効であるとしています。一方、夜間にのみ掘れとか、特定の鳥が 近くにいないようにせよなどの注意は、根堀人のでっち上げだと評してい ます。マンドラゴラについては、掘る場所に刀で三重の円を描き、西を向 きながら掘れとか、その円の中で一人が踊り、催淫性の呪文を口にせよ、 といったことがそうした虚構として記されています。 プリニウスは、マンドラゴラを掘る人は風を受けないよう注意せよ、また 刀で三重の円を描き西を向いて掘れということに言及しているようです。 論考の著者によれば、プリニウスは『博物誌』の植物編の執筆に際し、テ オフラストスを参照していたといいます。一方、ディオスコリデスにはこ うしたしきたりの記述は見あたりません。前回も触れましたが、マンドラ ゴラをめぐる迷信の多くの特徴は、ほかの植物をめぐる迷信から取り込ま れているようで、三重の円の話も「クシリス」(?)の記述からの転用だ といい、また西を向きながら掘れという話も、「東を向いて」掘るという 「ヘレボルス」(クリスマスローズ)の迷信の転用なのですね。テオフラ ストゥスみずから、マンドラゴラを掘る際に唱える呪文はクミンを植える ときの呪文に似ていると記しています。 マンドラゴラをめぐる迷信や話は、ラテン世界というよりはギリシア世界 において広まったものとされていますが、中世においても内容的に増幅さ れているのですね。例として、「根堀人は金曜日にの夜明け前に行き、耳 に綿をつめてピッチか蝋で固めること」といったディテールの追加が挙げ られています。この金曜、つまりウェヌス(ヴィーナス)の日は示唆的で す。というのも中世において唱えられたマンドラゴラの効能の一つに、媚 薬としての効果もあったからです。 マンドラゴラが人体に似た形で成長し、性別すらあるという迷信も中世の ものとされていますが、この迷信のもと、つまりマンドラゴラに雄雌の二 種類があるという話は、ディオスコリデスにもプレニウスにも出てきま す。ですが著者によると、これは何もマンドラゴラに限った話ではなく、 古代においては多くの植物について雄雌の区別が付けられ、しかもそれは 性別とは関係なく、健勝な種(葉が大きいとか背が高いとか)とそうでな い種を区別するために用いられていたにすぎません。マンドラゴラの場合 には根の形状が人の体(下半身)の形をしているといった話がすでにあ り、それがこの雄雌の区別と結合して性別があるという話になったのでは ないか、と著者は述べています。 このように、迷信は既知の様々な要素の組み合わせでできあがっているよ うです。マンドラゴラには、上に挙げた媚薬としての効能のほか、狂気の 誘発、催淫作用、多産化作用などの効能があったとされています。ただし テオフラストゥスとディオスコリデスはこれをあくまで噂話として取り上 げています。このあたりの効能話の成立にも長い歴史的経緯・変遷がある ようなのですが、とりあえずここでは割愛します。さしあたり注目される のは、この論考から次の点が指摘されていることですね。つまり、テオフ ラストスと、ディオスコリデスおよびプリニウスでは、マンドラゴラと称 している植物が同一ではない、さらにはギリシアとイタリアでも同一のも のを指していない、というある意味衝撃的な(笑)事実です。ディオスコ リデス自身、マンドラゴラには複数の名称を挙げているようで、そのあた りが後世の混乱を呼んでいるらしいのです。 論考ではそのあたりの差異も細かくまとめられています。たとえば雌のマ ンドラゴラについてディオスコリデスは、葉は細く、果実はザイフリボク (service berry)の実のようで、根は表皮が黒く、茎はないとしている のに対し、プリニウスは葉がレタスの葉より細く、果実はハシバミの実に 似て、根は赤みがかり、茎もあるとしています。さらに雄のマンドラゴラ についても、ディオスコリデスは葉がビートに似ているというのに対し、 プリニウスはスイバ(garden sorrel)に似ているとしています。とはい え、これらの記述は同じ植物を対象にしている可能性は高いとされていま す(記述の揺れの許容範囲、ということのようですが、本当でしょう か?)。 テオフラストスにあっては、マンドラゴラは茎があり、実は葡萄のように 黒く、樹液に毒があるとされています。これは上の二者の記述とまったく 違っていて、おそらくは別の植物を指しているというのですね。また、 ディオスコリデスには第三の種類のマンドラゴラの記述もあり、それが実 際には何の植物を指していたのかも、過去においてさかんに議論されてき たといいます。とはいえ、確実な結論は出じまいになっているのだとか。 古来の文献記述は複雑な問題をはらんでいて興味は尽きませんが、さしあ たりここではさらっとかわして先に進んでおきましょう(苦笑)。論考は この後、マンドラゴラの医学的な利用についての記述を紹介していきま す。そのあたりはまた次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論を読む(その1) さて、ここではしばらくオッカムを取り上げたいと思います。訳出は次回 からということにさせていただき、今回は扱うテキストや問題の所在を確 認しておきたいと思います。まずテキストですが、底本とするのは、フラ ンスはヴラン社から出ているダヴィッド・ピシェ編訳・解説の羅仏対訳本 『直観と抽象』です("Intuition et abstraction", trad. David Piche, Vrin, 2005)。これは認識論関係のオッカムのテキストを集めたアンソ ロジーで、『オルディナティオ』の序文や『レポルタティオ』の一部(問 一二から一四)、『自由討論集(quodlibet)』からの抜粋など、重要な テキストが収録されています。ここでは、このうちの一部を訳出していき たいと思っています。 ここのところフランシスコ会系の論者のテキストを眺めてきましたが、そ こで問題となったテーマの一つに、トマスなどが唱えるスペキエス論への 反論というのがありました。ボナヴェントゥラを始めとし、歴代のフラン シスコ会系の論者たちはむしろアウグスティヌス主義への傾斜を見せ、ス ペキエスを極力排して一種の直観認識・直接的認識を論じようとしていま した。スペキエスというのも若干曖昧ですが、要は感覚器官から魂の認識 機能を架橋する一種の形象、すなわち像、イメージのことです。これも、 感覚器官に生じる感覚的スペキエス(可感的形象:表象に相当するとも言 われます)と、認識機能が処理する際に知性に与えられる知的スペキエス (可知的形象)とに分かれ、論者によもよりますが、ボナヴェントゥラの ようにスペキエスそのものを排するような方向性の論者もいれば、スコ トゥスのように、スペキエス(とくに可感的形象)をある程度認めなが ら、その役割を縮小しようとしている論者もいます。 今回見ていくオッカムは、明らかにこの前者のほうに与しています。オッ カムの場合には、主にスコトゥス批判を軸としてスペキエスを真っ向から 否定していく方途を取ります。ですが(中世の論者全般に広く言えること ですが)、実はこうした議論は認識論プロパーのような問題設定ではな く、オッカムが語っているのはむしろ神学的な諸問題であり、認識論はそ うした諸問題のほんの一部を構成しているにすぎません。全体は神学的思 想体系をなし、オッカムが唱えたとされる「認識論」なるものは、あくま で後代の読み手たちがそうした全体的議論から抽出してきたものでしかな いのですね。改めて言うのもナンですが、このあたりは注意が必要です。 実際、今回の底本の訳者でもあるピシェは、序文として掲げている解説で そのことを次のようにまとめています。「オッカムにとって認識形而上学 (gnoseologie)は、神学的問題を解く哲学的な手段であって目的では ない」。ゆえに「オッカムの作品中に独立した認識形而上学、あるいは別 の言い方ならそれ自身として練り上げられた認識哲学の理論を見出そうと 考える人々は、考えを改める必要がある」。 同書に収録されたテキストでとりわけ問題になっているのは、現世におけ る不完全な人間知性が、神学的真理の確証を得られることをどう担保する のかという問題です。ピシェによれば、オッカムはこの問題に対応するた めに、「直観認識」と「抽象認識」を区別します。というか、知性による 認識にはその二つの側面があると論じているのですね。いずれも不完全な ものなのですが、解説文によれば、オッカムにおける直観認識の定義とは 「命題の項で表される認識対象が実在するかどうか、知性が判断できるよ うな場合の認識」を言うようです。「この事物は存在する」が真であると 判断できる場合というのは多々あるわけですが、それを総じて直観認識と まとめているのでしょう。 対する抽象認識は、そうした認識対象が実在するかどうかが、知性に判断 できないような場合の認識とされます。これもまた色々な場合がありそう ですね。解説文によれば、ここで言う抽象には三重の意味があるといいま す。まず、その認識においては認識対象の実在性が問われないという意味 があります(定義の言い換えみたいですが)。また、複数の個を捨象した 普遍を対象とするという意味もあります(唯名論を標榜するオッカムの場 合の普遍は、あくまで意味論的な抽象物にすぎないのでした)、さらに質 料を捨象したという意味もあります(このあたりはスペキエス論批判とも 関係してきます)。 いずれにしてもオッカムの場合、直観と抽象の区別は対象にも原因にもよ らず、ただ単に確証的な判断を下せるかどうかの違いによるというので す。これはまさに、直観認識と抽象認識の区別を対象が偶有的か本質的か に置いていたスコトゥスと、真っ向から対立している部分です。一方で上 にあるとおり、オッカムは認識論プロパーな話をしているわけではなく、 直観認識そのもののプロセスを内観的に考察してはおらず、むしろその成 立に必要な条件などの話に始終しているようです。直観認識のプロセス的 な解釈(あえてそうするならば、ですが)は読み手側に委ねられるという ことでしょうか。そのあたりに立ち入ることは、あるいはオッカムの「真 意」から離れてしまうかもしれませんが、哲学研究・哲学史研究という観 点からすれば、意義のないことでもありません。ですから、そのあたりの 是非の問題も含め、本文や二次文献などを読みながら考えていきたいと思 います。というわけで、次回からテキストに当たっていきたいと思いま す。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月08日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------