〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.203 2011/10/08 ------文献探索シリーズ------------------------ 薬草学を縦断する(その4) 1905年のランドルフによるマンドラゴラ論文を眺めています。マンドラ ゴラの医学的な利用法は多岐にわたるようで、まずは炎症を鎮めるための 用法があり、皮膚病への汎用的な湿布・塗り薬としての利用が挙げられて います。たとえば痛風について、テオフラストスでは根とビネガーをまぜ た湿布薬を推奨し、一方のプリニウスでは葉と大麦のミールの湿布、ある いは根とキュウリないし根のみを水に浸して湿布とするといったことが記 されているようです。また、体液の調整にも有効とされ、樹液をハチミツ や水などと混ぜたものに、粘液や黒胆汁の分泌を抑制する効果があるとさ れていたようです(ヒポクラテスによる)。総じて特徴的なのは、なにか ほかの成分と混ぜて用いるということですね。薄めないと相当に激しい効 果があるとされているのでしょうか。 さらに、上の体液の調整とも関連すると思われますが、神経系の疾患にも 効果があるとされていたようです。痙攣の発作、憂鬱状態、狂気などで す。論文著者によれば、ケルスス(一世紀前半の『医学論』De medicinaの著者)に言及があるということですが、これはマンドラゴラ に催眠効果があるとされていたからのようです。この催眠作用については 数多くの言及があるようで、著者は様々な著者の断章を引用してみせてい ます。クセノフォン、プラトン、デモステネス、アリストテレスから、 フィロン、フロンティヌス(一世紀後半)、ポリアエヌス(二世紀)、さ らにはマクロビウス、初期教父らなどなど、実に多岐にわたっています。 中世の著者たちもしばしばそうした催眠効果について記しているといいま すが、大半はそうした古典期の作家たちの借用のようです。みずからの観 察による記述はほぼ皆無だと著者は述べていますね。うーん、このあたり は現時点ではどう評価されているのでしょうか。 催眠効果により、痛みを和らげる鎮痛剤・麻酔剤としての使用が導かれる わけですが、実際、ガレノスの著書などでも、マンドラゴラは鎮痛剤とし て何度も言及されているといいます。とりわけ、外科手術前の麻酔薬とし ての利用法が有名です。古代にそうした麻酔の利用が実際あったのかどう かについて、この論考が書かれた当時には賛否両論があったようなのです が、著者はこれについて、従来の検証があまり数も多くなく、はなはだ不 完全なものにすぎなかったとしています。ディオスコリデスの場合には、 根をワインで煮詰め(ワインが三分の一になるまで)て漉し、その汁を催 眠剤もしくは麻酔として用いると述べています。あるいは煮出すのではな く、根の皮をワイン漬けにしておく方法も紹介されています。ディオスコ リデスが記す雄雌以外の第三の種類のマンドラゴラなら、麻酔効果が三, 四時間も続く、ともあります。 プリニウスになると、麻酔効果は患者の強壮さによって異なるとも記して います。匂いを嗅いだけで寝込んでしまう人もいるのだとか……。ところ がプリニウスの後、五世紀ごろまでマンドラゴラのそうした属性について の記述は見当たらなくなるといいます。その後はイシドルス、九世紀のセ ラピオン(ヤハヤ・イブン・サラフユン:シリアの自然学者)、一一世紀 のアヴィセンナ、ブルノ・アステンシス、一三世紀のバルトロメウス・ア ンゲリクス、そして一五世紀のピエリウス・ヴァレリアヌス、一七世紀の ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ポルタなどが触れているようで す。 こうした記述のそれぞれは、単に古典作家の一節を引いているだけなので しょうか、それとも、実際に手術前に麻酔を施す習慣があったことを意味 するのでしょうか。これについて著者は、個々の言及箇所に丹念に当たっ た上で、それらが基本的にはディオスコリデスやガレノスその他の引き写 しだということを指摘しています。ただセラピオンについては、ディオス コリデスをベースにしつつも、人称が違うとか、与える量の記述が細かい など、個人的な知見を交えている(つまり麻酔投与を経験していた)可能 性を指摘しています。アヴィセンナも同様の可能性があるのだとか。一一 世紀のアラビア医学の世界では、麻酔投与が実際になされていたのかもし れませんね。 麻酔投与の可能性をめぐって著者はさらに遡ります。そもそものディオス コリデスとプリニウスが、植物学に関して共通のソースを用いている可能 性にも触れています。なるほど、そういう説も当然ながらあったわけです ね。紀元後の初期に流通していたセクストゥス・ニゲルの書ではないかと いうのですが、これ自体が編纂もので、ディオスコリデスらがどの部分を 利用したのかはそれ以上遡れないようです。ただ、ディオスコリデスは (プリニウスとは違い)批判精神に満ちていることが知られ(怪しい記述 には伝聞形式を用いているといいます)、しかもみずからも医者として活 動していたとされ、そこから察するに、ディオスコリデスの活躍した一世 紀ごろ、そうした麻酔投与が実際に行われていた可能性は十分あると著者 は結論づけています。このあたり、確証があるわけではないにせよ、なか なか興味深い議論です。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その2) さて今回から具体的にテキストを訳出していきたいと思います。まず取り 上げるのは、オルディナティオ(命題集注解)から、第三区分、問六で す。さっそく見ていきましょう。 # # # Ordinatio, Distinctio 3, Quaestio VI Utrum prima notitia intellectus primitate generationis sit notitia intuitiva alicuius singularis. Quod non : Singulare sub propria ratione singularis non intelligitur, igitur eius notitia intuitiva non est prima. Antecedens patet per Philosophum, quia intellectus est universalium, et sensus est particularium. Ad oppositum : Dictum est prius quod omne singulare praecedit, et quod omnis notitia rei abstractiva praesupponit notitiam intuitivam. オルディナティオ、区分三、問六 知性により最初に生成される認識は、なんらかの個物の直観的認識である か 否定的見解: 個物はそれに固有の側面においては知解されない。したがって直観的認識 は最初のものではない。それに先行するものは哲学者の議論から明らか だ。なぜなら知性は普遍と関係し、感覚は個別と関係するからである。 異論: 先に、あらゆる個物は(認識行為に?)先行すると言われ、また抽象的な 事物の認識は直観的認識を前提とする、と言われていた。 Responsio auctoris ad quaestionem Primo, quod singulare intelligitur. Secundo, quod prima notitia singularis est intuitiva. Tertio, quod singulare primo intelligitur. 問いに対する著者の回答 第一に、個物は知解される(と述べよう)。第二に、個物の最初の認識は 直観的である。第三に、個物は最初に知解される。 Primum patet, quia si singulare non posset intelligi, aut hoc esset ratione perfectionis intellectus, aut ratione imperfectionis. Non ratione imperfectionis, quia sensus est imperfectior intellectu et tamen apprehendit singulare. Nec ratione perfectionis, quia si sic, aut hoc esset quia non potest intelligere aliquid ita imperfectum sicut est singulare materiale, aut quia non potest immutari ab aliquo materiali, aut quia nihil recipit materialiter. Primum non impedit, quia universale abstractum a materialibus non est perfectius ipso singulari, et tamen intelligitur. Nec secundum impedit, quia ab eodem potest poni immutari ad cognitionem singularis sicut ad cognitionem universalis. Si enim immutetur praecise ab intellectu agente ad cognitionem universalis, ita potest aeque faciliter poni quod immutatur praecise ab intellectu agente ad cognitionem singularis. (...) Nec tertium impedit, tum quia non plus repugnat huic singulari recepi immaterialiter quam universali; tum quia cognitio singularis sequens post cognitionem universalis recipitur immaterialiter, igitur non repugnat sibi primo recipi immaterialiter. 第一(の議論)は明らかだ。なぜなら、仮に個物が知解されえないとする と、それは知性の完全性の理によるか、あるいはまた不完全性の理による かである。だが不完全性の理によるのでありえない。なぜなら、感覚は知 性より不完全であるが、それでもなお個物を把握するからだ。また完全性 の理によるのでもない。なぜなら、もし完全性の理によるのであるなら、 (知性が)物質的な個物のような不完全なものは知解できないからか、物 質的なものには対応しえないからか、物質的には何も受け取らないからか のいずれかである。最初の理であるなら妨げとはならない。なぜなら、質 料を捨象した普遍は、もとの個物と同程度の完全性であるが、にもかかわ らず知解されるからである。二つめの理も妨げとはならない。なぜなら、 同じ事象(対象)によって、(知性は)個物の認識にも、普遍の認識にも 対応すると考えられるからだ。能動知性ゆえに普遍の認識にいたるのであ れば、同じく能動知性ゆえに個物の認識にいたることも容易に考えられ る。(……)三つめも妨げとはならない。非物質的に受け取ることは、個 物でも普遍でも同様に斥けられるからである。また、普遍の認識の後に個 物の認識が来るとすると、それは非物質的に受け取られることになり、し たがって最初に非物質的に受け取られることも斥けられなくなるからであ る。 # # # いきなり直観的認識(直知)についてのテキストですが、オッカムの基本 的立場はストレートに示されています。個物は直観的に、しかも最初に知 解(認識)されるというわけです。ここでは個物の知解を妨げるものと考 えられる理由を分岐させつつ挙げていき、それらがいずれも成立しない (矛盾をきたす)ということを示すという論法を取っていますね。わりと 平坦な文章です。最後の「物質的には何も受け取らない」という理由への 反論は、もう少し先まで続いています。 さて、いつもどおり参考文献も眺めながら進んでいきたいと思います。少 し基本的なものから見ていくことにしましょう。前回触れたように、底本 としている羅仏対訳本の訳者の解説で、直観的認識と抽象的認識の違い が、観念が指示する対象の存在が明確に判断できるかどうかにあるとされ ていました。これに関連して、『中世哲学を学ぶ人のために』(中川純 男、加藤雅人編、世界思想社、2005)所収の渋谷克美「抽象と直知ーー オッカムの直知理解」という考察があります。それによると、オッカムに おいては直知と抽象知とは種として異なっており、しかも心の喜びや悲し みといった純粋に知性によってのみ認識される事柄にも直知と抽象知の区 別を付けているといいます(オルディナティオ、序章、問一)。つまり、 自分の喜びを「喜んでいる」と認識できるときには直知、他人の喜びを察 するような場合には抽象知(喜びが実在するかどうか確証をもって判断で きないから)とされるのですね。 同論考では興味深い問題が扱われています。それが明証的判断(認識)と 直知・抽象知の関係です。直知か抽象知かの区別はその明証的認識の有無 によるといわれるわけですが、では明証的認識とはどういうものなので しょうか。オッカムはこれについて、認識が(一)真であり(肯定判断が 下される)、(二)確実であり(認識の確実性)、(三)非複合的な語 (つまり端的に事象を表す語)から成る命題の認識の場合という条件を設 定しているといいます。ですが、なにやらこれではよく分かりません。 (一)の肯定判断や(二)の確実性は、なにやら論点先取のようにも思え ます。明証的判断があれば直知とされるわけなのですが、一方では直知で あることが明証的判断の根拠になっているようにも見えます。一種の循環 論法のようだというわけです。 実際にオッカムの文言には、直知と抽象知の識別の可能性を排除するよう なものまであるというのです。「同じ対象が同じ様態において、直知の対 象でもあり、抽象知の対象でもある」(オルディナティオ、序章、問一) というのですね。かくして現代的な論者たちの間で、オッカムの示す明証 的認識の条件の解釈をめぐって議論が巻き起こりました。その中でとりわ け優勢となったのは、オッカムが考えているのは肯定判断や認識の確実性 をめぐる議論ではなく、あくまで論理学的なものだ、という解釈だといい ます。上の条件のうち(一)や(二)は排除し、(三)のみを立てて、 オッカムの議論は思考言語(命題とそれを構成する語)の構造のみを分析 したものだと解するのですね。 これに対し渋谷氏は、そうではないと主張しています。オッカムの直知 は、やはり(一)と(二)の、肯定判断や認識の確実性をめぐる議論なの だというのです。その論拠として、オッカムと同僚のチャトンとのやりと りが挙げられています。オッカムは、直知の肯定判断をもたらすのは自分 の認識活動を直知する直知だといっているのですね(自由討論集、一巻、 問一四)。これはちょうど、上の「純粋に知性によってのみ認識される事 柄にも適用される直知と抽象知の区別」が適用されている一例なのでしょ う。しかもそれは、ここでいわば反省的意識を形作っているわけですね。 しかも、それが自然本性的に直知が無限後退に至ることはないとオッカム は述べているのですね(同箇所)。うーん、このあたりは少しこだわって 吟味してみたいところです。とりわけ(二)の認識の確実性については、 直知の直知という構造を持ち出してきても、なにやら問題含みという感じ がします(笑)。さしあたり、このあたりの検討を念頭に置きながら、ほ かのテキストも眺めつつ、本文を読み進めていきたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月22日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------