〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.207 2011/12/10 ------文献探索シリーズ------------------------ 薬草学を縦断する(その8) 『薬草論』の項目の配列について考えているところです。Aの項目を改め て眺めていてまず思うのは、効能の多さないし大きさの順に並んでいるの ではないかということです。Aの最初の項目となっているアロエには広範 な効能があります。それに続くアロエの木は効能としては少ないですが、 アロエの関連項目ということで二番目に置かれている印象です。次に金と 水銀が来ますが、ここでもまた重要度というか、効力の大きさという点で 先に金が来ている印象を受けます。実際のところ、多少の例外はあるもの の、傾向としては後に置かれる項目ほど記述が短くなっていきます。余談 ですが、Aの最後のほうの項目になっているAlbatra(西洋山桃)では、 薬効についてさえ触れられず、「albatraは木で、その実はcerasis(サク ラ?)に似ている」の一行だけです(笑)。これはそのサクラの項を見よ ということなのでしょう。 では、ほかの文字の項目もそうなっているでしょうか。全体的傾向として は、やはり後に行くにしたがって記述が短くなっていきますが、そうでな い例もしばしば目につきます。Bの項目も最初のBalsamus(バルサム) がやはり長く、内容的にも充実しています。それに続くのはBolusという 宝石の一種、次はBalaustia(ザクロの花)で、このあたりからすでに記 述内容は短くなっていきます。Borrago(ルリジサ?)、Baucia (?)、Borax(ボラックス)と短い記述が続きますが、その次に再び長 い記述のBectonica(カッコウチョロギ?)が来ます。これはどういうこ となのでしょうか。 BalsamusとBectonicaの記述内容を比べてみると、どちらも様々な症状 に効くとされ、用い方もそれぞれ詳細い記されています。Bectonicaが後 のほうに置かれる来る理由は何なのでしょうか。一つ目につくのは、どち らも古来の権威が言及されている点です。前者の項目にはディオスコリデ スの名が挙がり、後者では「スコラピウス」が挙げられています。スコラ ピウスはこのBectonicaなる植物の発見者とされる人物らしいのですが、 詳しいことは不明です。もしかすると両者の扱いの差は、このリファレン スの違いにあるのかもしれません。 このあたり、真偽の断定はなかなかできないのですが、いずれにせよ、項 目配列がなんらかの価値観にもとづいて決められている可能性は高そう で、すると「アルファベット順」というのは一種のアリバイなのではない かとさえ思えてきます。インデクスの便利さが強調されるアルファベット 順ですが、それは結果的にそう見えるだけで、実はアルファベット順に なっていること自体、実はまったく別筋の論理に支配されているためなの では……なんて(笑)。そこまで言うとさすがに行き過ぎでしょうか。 アルファベット順というのは結構古くからある形式ではあります。です が、目録の作成やインデクスにおいて本格的に使われるようになるのはや はり中世になってからだと言われます。ブログのほうでも取り上げた、ベ ス・ラッセル「秘められた知恵と未見の宝物:中世図書館の目録作成再 訪」(Beth M. Russell, Hidden Wisdom and Unseen Treasure: Revisiting Cataloging in Medieval Libraries, Cataloging and Classification Quarterly, Vol 26, no.3, 1998)という論考によれば、 蔵書目録を作成する際に主題をアルファベット順の配列で並べた例が12 世紀ごろから見られるといい、カンタベリーのクライストチャーチや、 デュルハム大聖堂の図書館の例が挙げられています。蔵書の規模が大きく なった場合の目録作成術として、アルファベット順が採用されたのではな いかといいます。 一方で、一部の研究者はアルファベット順の定着には数世紀を要したと考 えているようです。長い間それが合理的な方法とは見なされず、あくまで 情報検索の最速化のための作為的な方法として、どちらかといえば否定的 に捉えられていたのだ、と。この点に関しては「知識の再発明:アルファ ベット順をめぐる中世の論争」(Reinventing Knowledge: The Medieval Controversy of Alphabetical Order)というネットの書評 記事(http://lmd.sla.org/2009/07/reinventing-knowledge-the- medieval-controversy-of-alphabetical-order/)がうまくまとめてい ます。合理的とされたのは、要するに神学的秩序や価値体系(自由七科な どの序列)にもとづく配列法だったというのですね。 もともとギリシア語では数字の順番(章立てなどの)を表すのにアルファ ベット文字を用いていたりもしました。アルファベット順の着想源はもし かするとそのあたりにあるのかもしれませんね。いずれにしても、それが 定着するまでのいわば「移行期」においては、従来の序列や価値体系が幅 を利かせていたりして、全体が錯綜している可能性もあります。『薬草 論』もさることながら、より一般論としての項目配列の問題は、もしかす ると歴史の興味深い側面を開いて見せてくれるかもしれません。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その6) 今回から『レポルタティオ(講義録)』から問一二および一三(一つの章 にまとめられています)を読んでいくことにします。ではさっそくその始 まりの部分を見ていきましょう。 # # # Utrum angelus intelligat alia a se per essentiam vel per species Utrum angelus superior intelligat per pauciores species quam inferior 天使は自分以外のものを本質によって理解するか、それともスペキエスに よって理解するか。 上位の天使は下位の天使よりも、より少ないスペキエスでもって理解する か。 De cognitione intuitiva et abstractiva Ideo circa istam questionem primo praemitto quasdam distinctiones. Una est quod quaedam est cognitio intuitiva, et quaedam abstractiva. Intuitiva est illa mediante qua cognoscitur res esse quando est, et non esse quando non est. Quia quando perfecte apprehendo aliqua extrema intuitive, statim possum formare complexum quod ipsa extrema uniuntur vel non uniuntur; et assentire vel dissentire. Puta, si videam intuitive corpus et albedinem, statim intellectus potest formare hoc complexum "corpus est", "album est" vel "corpus est album", et formatis istis complexis intellectus statim assentit. Et hoc virtute cognitionis intuitivae, quam habet de extremis. Sicut intellectus apprehensis terminis alicuius principii - puta huius "omne totum est maius" etc. - et formato complexo per intellectum apprehensivum, statim intellectus assentit virtute apprehensionis terminorum. 直観的認識と抽象的認識 この問題について、まずはいくつかの区別を示そう。一つめは、認識には 直観的認識と抽象的認識があるということだ。直観的認識とは、その媒介 により、事物が存在するときにその存在が、また事物が存在しないときに その非在が認識されるような認識である。というのも、私が何か外部の事 象を直観的認識によって完全に掌握する場合、私はすぐさま、それらが結 びつくか結びつかないかを判断して複合命題を形成でき、その真偽を判断 できる。たとえば、もし私が直観的にある物体と白さを目にしたとする と、知性はすぐに「物体がある」「それは白い」「物体は白い」といった 複合命題を作ることができ、そうしてできた複合命題を知性は正しいと認 める。それは外部の事象について知性がもつ直観的認識によってなのであ る。ちょうど、知性がなんらかの原理の項を把握し−−たとえば「全体は (部分よりも)つねに大きい」など−−、その把握的な知性によって複合 命題が作られると、知性はすぐさま、項の把握をもとにそれが正しいと認 めるように。 Sciendum tamen quod licet stante cognitione intuitiva tam sensus quam intellectus respectu aliquorum incomplexorum possit intellectus complexum ex illis incomplexis intuitive cognitis formare modo praedicto et tali complexo assentire, tamen nec formatio complexi nec actus assentiendi complexo est cognitio intuitiva. Quia utraque cognitio est cognitio complexa, et cognitio intuitiva est cognitio incomplexa. Et tunc, si ista duo, abstractivum et intuitivum, dividant onmem cognitionem tam complexum quam incomplexum, tunc istae cognitiones dicerentur cognitiones abstractivae; et omnis cognitio complexa diceretur abstractiva, sive sit in praesentia rei stante cognitione intuitiva extremorum sive in absentia rei, et non stante cognitione intuitiva. しかしながら次のことは知っておくべきだ。なんらかの非複合命題に対し て感覚もしくは知性の直観的認識がある場合、上述のようにその非複合命 題の直観的認識から知性が複合命題を作り、その複合命題の是非を判断す ることは可能だが、複合命題の形成も、その複合命題の認証の行為も直観 的認識ではないのである。なぜなら、どちらの認識も複合命題の認識であ り、直観的認識は非複合命題の認識であるからだ。ここで、抽象的認識と 直観的認識の二つが複合命題と非複合命題のあらゆる認識を分けるのだと すると、この認識は抽象的認識であると言われるだろう。現前する事物が あり、その外部のものを直観的に認識する場合でも、また事物が不在で、 現前の直観的認識ではない場合でも、すべての複合命題の認識は抽象的認 識であると言われるだろう。 # # # 『レポルタティオ』は、オッカムによるペトルス・ロンバルドス『命題 集』への注解のうち、第二書以降に相当します。前回まで取り上げた問六 が含まれる『オルディナティオ』は、その注解の第一書をなし、これは オッカムみずからが改訂して流布させたものとされています。残りの部分 をなす『レポルタティオ』のほうは講義録として残るのみとなっているよ うです。成立年代はオッカムのイングランド時代のうち、1317年から18 年ごろとされています。 オッカムは1287年の生まれで、イングランドで教育を受けました。オッ クスフォードで神学を学んで準教師となり、その後は、異端の疑いを晴ら すべく1324年にアヴィニョンに向かうまで、グレイフライヤー(ロンド ン)で教鞭を執っていたようです。で、その頃にウォルター・チャットン ほかとの論争を通じて神学思想を練り上げていったとされます。この、 チャットンその他との議論についてはまた改めて取り上げることにしたい と思っています(オッカムの生涯その他については、スタンフォードの哲 学百科が参考になります:http://plato.stanford.edu/entries/ ockham/)。 さて、今回の冒頭の箇所では、いきなり直観的認識についての説明が記さ れています。認識対象の有無を、それとして判断できる場合が直観的認識 だというのですね。対象がひとたび直観的認識で認識されると、その対象 同士を結合させることで複合命題を作ることができます。で、複合命題に ついて認識する段になると、それは認識対象の有無(およびその判断)か ら遊離した、抽象的認識になるというわけです。 直観的・抽象的認識については、『オルディナティオ』の序文(問一)の ほうでもっと細やかな議論がなされています。『オルディナティオ』の序 文は結構長いので、要約するのもなかなか難しいのですが、全体として オッカムは、複合的なもの(命題)の理解を問題にしています。まず知性 の働きには把握的作用(apprehensivus)と判断的作用(judicativus) があるとされ、前者はあらゆるもの(命題、論証、不可能性、必然性など など)を対象とし、対象となるものに複合・非複合の別はないとされま す。後者は、対象を理解するのみならず、その対象の是非を認めるという 作用です。これは複合的なものをのみ対象とします。このことを逆に複合 的なものから見るなら、それを扱える知性の働きとして、把握的作用と判 断的作用の二つがあるとういことになります。そして、判断的作用は把握 的作用を前提とすると考えます(結論一)。 さらに、複合的な命題についての判断的作用は、あらかじめ非複合的なも のの把握的作用が行われていることを前提とすると考えます(結論二)。 次いで、感覚的な作用がこの非複合的なものの把握的作用に重ね合わさ れ、複合的なものの判断的作用のほうは、知性の中にあるものだけで事足 りるとされます(結論三)。これらの結論を検証する過程でオッカムは、 複合命題の項をなす非複合的なものは、知性によって認識され、その実在 の有無はおのずと明らかであるということを指摘します。そしてそこか ら、直観的認識と抽象的認識の区別を立てるのですが、スコトゥスのよう にそれを認識対象の違いで区別するのではなく、そもそもの認識の在り方 が異なるのだという立場を取ります。 やや煩雑なオッカムの議論ですが、そこでは把握的作用と判断的作用が協 働する場合が直観的認識、すでに把握ずみのものを扱う判断的作用の場合 が抽象的認識という括りになる感じです。『オルディナティオ』の序文 (問一)は、「人間の知性は神学的真理の明確な理解をもつことが可能 か」という表題になっていて、この「明確な理解」を、オッカムは「項の 非複合的理解により生じる、真なる複合命題の理解」と規定していていま す。最終的には神性についての複合命題の理解(抽象的認識)が人間の知 性に可能であるということを論証しようというのが、そこでのオッカムの 意図なのでした……。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月24日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------