〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.209 2012/01/21 *遅くなりましたが、今年もまたぼちぼちと再開していきたいと思いま す。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 薬草学を縦断する(その10) 『薬草論』に限らず、こうした薬草関連の一種の医学書の読み手は、それ らの内容をどう受け止め、どう活用していたのでしょうか。ここで少し パースペクティブを拡げる意味でも、少し異なる場所や時代について概観 しておくのもよいかもしれません。というわけで、今回はビザンツを取り 上げてみましょう。といっても、一次資料はこれまた多岐にわたるようで すので、二次文献の論考を眺める程度でお茶を濁したいと思います(苦 笑)。 今回取り上げるのは、ジョン・スカーボロー「ビザンツ薬学における野生 の草木と庭園の草木」(John Scarborough, Herbs of the Field and Herbs of the Garden in Byzantine Medicinal Pharmacy, in "Byzantine Garden Culture", 2002)という論文です。ビザンツ学方面 には、修道院などが併設していた庭園での植物栽培について数々の研究が あるようなのですが、この論文はそれを補完するものとして、野生の草木 を採取する人々の存在に光を当てています。 庭園作りの伝統は古代ギリシア以来綿々と継承されていたといいますが、 これがひとたび文書に記されると、すべてがある種の「理想化」(しかじ かの薬草、しかじかの草木を植えるべきだ云々)でもって彩られ、出来上 がった文献は実際の造園の手引きというよりも、むしろ「あるべき理想の 庭園」の示唆に重きが置かれていたとされます。西欧中世において庭園が 文学作品のトポスになっていたことと、これはどこかパラレルな関係にあ りそうですね。ビザンツでも「庭園本」は、ディオスコリデスの『マテリ ア・メディカ』やプリニウスの『博物誌』など、広く流布していた書から の引用で織りなされていました。庭園本はビザンツからラテン世界、さら にはイスラム世界までさほど大きな違いなく存在しているようで、どこで も同じような「理想化」が見られるようです。 そんなわけで、古代から中世にかけての薬草学においては、もっぱら庭園 での栽培が重視されていたようなのです。一方でディオスコリデスなどに は野生の植物についての記述もたくさん出てきます。論文によれば、ビザ ンツの薬草治療の概念は基本的に、西欧のルネサンス期に医学部などで教 えられていた薬草学に受け継がれていくのですね。そうした教育施設では 自前の「教育用庭園」を備えていて、辺境から集めた野生の植物なども育 てていたといいます。 ビザンツの薬草学の伝統は厚く、古代からの文献の見識も絶えず刷新され る形で受け継がれていったようです。ディオスコリデス『マテリア・メ ディカ』は薬草学の基本書であり続け、またテオフラストゥスの『植物 誌』『植物原因論』も重んじられていきますが、一方で最高権威の扱いを 受けたガレノスの影響も大きなものでした。『マテリア・メディカ』の ウィーン写本に描かれた挿絵では、ガレノスが権威の象徴として中央に陣 取り、その脇をディオスコリデスとクラテウアス(前1世紀ごろの薬物学 者)が固めているのですね。このあたり、とても興味深いところです。 ですが、6世紀のビザンツで実際に流布していたのは『マテリア・メディ カ』の抜粋版なのでした。抜粋版は様々な書のものが出ていたようで、そ のさらに粋を集めたものとして、一〇世紀の『ゲオポニカ』という書もあ ります。研究という意味では抜粋版は結構重要であるらしく、そこから当 時本当に有用とされていた植物が何だったのかが窺えるというのですね。 いずれにしてもそうした版は、旧来の文献の組み替えであり、新たな文献 的伝統の萌芽となっていくようなのです。論文著者はいくつかの例を挙げ て、そのあたりの具体的な話を展開しています。まず取り上げられている のはケシです。『マテリア・メディカ』では、栽培されたケシと野生のケ シが区別されたほか、さらに第三の種類もあるとされています。野生のケ シの乳液は重厚で催眠性にすぐれ(死する場合もあると警告もしていま す)、各種用途に有用だとされています。ですが、後代のビザンツの薬学 者たちは、ケシにはそれ以上に多様な変種があったことを知っていたらし いのです。新しい世代の薬学者たち(四世紀のオリバシオス、六世紀のト ラレスのアレクサンドロスなどの名が挙げられています)は、文献的な伝 統を重んじながらも、後に追加情報を書き入れたりして、それまでとは別 の文献的伝統を形作ったりしていったようです。 別の例としてアスパラガスの話も取り上げられています。『マテリア・メ ディカ』では、砕いた羊の角を埋めるとそこからアスパラガスが成長する という話が伝聞として記されていますが、ビザンツ時代(一四世紀より以 前)の注解書においては「それは信じるにあたらない」と斥けられている といいます。興味深いことに、ディオスコリデスの写本のうち10種類ほ どには、「私はそれを否定してきた」との一文が本文に加えられていたり するそうです。後代における知見をもとに、本文まで一部改編されたとい うわけですね。ちなみにその伝聞話は上の『ゲオポニカ』にも再録されて いるようですが、そちらでは5世紀のディディムス(アレクサンドリア の)という自然学者からの引用とされています。このように、文献の権威 はいちおう温存しつつも、より現実に即した知見へと伝統が開かれていっ た様子が、そのあたりの端々からも窺えそうです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その8) 引き続き、『レポルタティオ(講義録)』の問一二・一三を見ていきま す。 # # # Si dicas quod obiectum non est hic praesens, nec debito modo approximatum, respondeo: licet cognitio intuitiva non possit naturaliter causari nisi quando obiectum est praesens in determinata distantia, tamen supernaturaliter potest. Et ideo differentiae quas dat Ioannes inter cognitionem intuitivam et abstractivam, quod "cognitio intuitiva est praesentis et exsistentis ut praesens et exsistens est", intelligitur de cognitione intuitiva naturaliter causata, non autem quando supernaturaliter. Unde absolute loquendo non requiritur necessario ad cognitionem intuitivam alia praesentia nisi quod possit actum intuitivum terminare. Et cum hoc stat quod obiectum sit nihil, vel quod sit distans per maximam distatiam. Et quantumcumque distet obiectum cognitium intuitive, statim virtute eius possum iudicare illud esse si sit, modo praedicto. Sed tamen quia cognitio intuitiva naturaliter non causatur nec coservatur nisi obiectum sit debito modo approximatum, in certa distantia exsistens, ideo non possum iudicare illud quod cognoscitur naturaliter intuitive nisi obiectum sit praesens. もしあなたが、対象がここに現前していない、適切な形で接近できないと 言うのであれば、私はこう答えよう。当然ながら、直観的認識が自然に生 じうるのは、対象が一定の距離にある場合に限られる。ただし、それが超 自然的に生じることもありうる。ゆえに、ヨハネス(ドゥンス・スコトゥ ス)が直観的認識と抽象的認識の違いとしたこと、つまり「直観的認識 は、現前し実在するものとしての現前と実在の認識である」という理解 は、自然に生じた直観的認識についての理解であって、超自然的に生じた 直観的認識についての理解ではないのである。したがって、断定的に言う ならば、直観的認識に必然的に求められるのは、直観的営為を完結させう るものの現前だけである。そしてその場合、対象が無であったり、最大限 の距離で離れていたりしてもよい。直観的認識の対象がどれほど離れてい ようと、先に述べたように、それが存在しているならば、その認識の力に よって、私は直ちにそれが存在していると判断できる。しかしながら直観 的認識は、対象が適切な形で接近され一定の距離にある場合にのみ自然に 生じる、あるいは自然に保持されるのであるから、直観によって自然に認 識されるものを私が判断できるのは、対象が現前している場合のみとな る。 Eodem modo per cognitionem intuitivam possum iudicare rem non esse quando non est. Sed ista cognitio non potest esse naturalis, quia talis cognitio nunquam est, nec conservatur naturaliter, nisi obiecto praesente et exsistente. Ideo ista cognitio intuitiva naturalis corrumpitur per absentiam obiecti. Et posito quod maneat post corruptionem obiecti, tunc est supernaturalis quantum ad conservationem licet non quantum ad causationem. Ideo oportet quod cognitio intuitiva qua cognosco rem non esse quando non est sit supernaturalis quantum ad causationem vel conservationem vel quantum ad utramque. // 同様に、直観的認識によって私は、事物が存在していないときにはそれが 存在していないと判断できる。ただしこの認識は自然の認識ではありえな い。というのも、かかる認識は、対象が現前し実在している場合にのみあ りえ、また保持されるからである。それゆえ、この認識は対象がなくなれ ば自然に消失する。対象が消失した後も認識がとどまると考えるのなら、 それは認識の成立という点ではなく認識の維持という点で超自然的という ことになる。ゆえに、対象がないときに私がその事物はないと認識するそ の直観的認識は、認識の成立もしくはその保持という点で超自然的である か、あるいはまたその両方の点で超自然的なのである。(この段落続く) # # # オッカムは直観的認識を自然的なものと超自然的なものとに下位区分して います。直観的認識(自然的)は対象が存在してはじめて成立するものと され、いわば対象があるときにその都度生じるものという位置づけです。 「対象が存在する」という判断を伴うのが「自然な」直観的認識ならば、 「対象が存在しない」と判断する場合はもう一つの下位区分、つまり超自 然的なものということになるのですね。それはすなわち神の介在というこ とになるのでしょう。本文でのこの議論はまだ続いていますが、私たちは ちょっとばかり先走りしておきましょう。 オッカムのこの「対象が存在しない場合」をめぐって批判的な見解を示し たのが、同じくフランシスコ会派に属する同時代人ウォルター・チャット ンでした。前回取り上げた論考(エリザベス・カーガー「誤解されたオッ カムの直観的・抽象的認識理論」)を再び参照しておくと、オッカムは対 象が存在しない場合の直観的認識は超自然的に成立し(神によって)、そ の結果、知性は正しくその対象が存在しないと判断できると考えていま す。これに対してチャットンは、そうすると神は、存在しない対象を人が 存在すると判断するよう仕向けることはできなくなってしまうが、実際の ところそれは可能であり、矛盾をはらむこともないと論じます。 オッカムはそれに対して、神がそう仕向けることは可能だと認めた上で、 その場合は神が判断そのものを人に吹き込むのだと反論します。存在・非 在の判断は知性にもとからある「性質」なのであり、全能の神はそれに直 接働きかけることができるというのです。 ここで重要なのは、神が直接働きかけるのは判断の部分であって、どうや ら認識そのものではないという点です。ところがチャットンは、オッカム が認識そのものを神が操作するかのように議論していると受け取っている のですね。その上で、神ならば誤った認識(存在しない対象についての、 それが存在するとの判断を伴った認識)自体を吹き込むことができると主 張しているのです。論文著者は、これは現代の研究者の議論にも幅広く見 られる誤解だとして批判しています。ま、それはともかく、さしあたりこ こではオッカムが、認識そのものが誤りを導き入れることはない(知性を 誤った判断に導くような性質は認識そのものにはない)と考えていたらし いこと(論文著者によれば)に注目しておきましょう。 しかもその点は直観的認識でも抽象的認識でも違いません。後者は必然的 真理の認識に、また前者はそれプラス現在時制の偶有的真理の認識に関わ るとされますが、いずれであろうと本性的に正しい判断をもたらすものだ と考えられているのですね。誤った判断は本来的には最初から除外されて いる、というわけです。 では人間の認識が誤ることはないというのでしょうか。もちろん誤謬性は ないわけがありません。そのあたりのことをオッカムは、やはりフランシ スコ会に属するオリオールのピエールの認識論への反論として記していま す。たとえば水中に浸かった棒が曲がって見えるときにそれを本当に曲 がっていると認識するといった誤りですが(ピエールはそれを、意思的な だけの存在を実在すると感覚器官が見誤るせいだとしていました)、オッ カムはそうした誤りがありうることは認め、その上で、そうした場合は常 に特定の周辺状況(今の場合なら水という媒質の存在)に依存しており、 それによって引き起こされるのだと説明づけます。そうした周辺状況のな い本来的な状態ならば、直観的認識は随伴する判断を誤らせることはな い……この立場をオッカムは堅持し続けるのですね。 うーむ、上の論考の解釈が妥当かどうかはやはり改めて確認していきたい ところですね。チャットンやピエールその他とのやり取りについても、い ろいろと別の論考や、テキスト自体にも当たってみたいと思います。とい うわけで、そのあたりはまた次回以降に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月04日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------