〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.215 2012/04/21 *お知らせ 本メルマガは原則として隔週での発行ですが、5月の連休は例年通りお休 みとさせていただきますので、次号は変則的に5月12日の発行となりま す。よろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ タンピエとその周辺(その3) 予言と魔術について扱ったブデの著書では、1277年の禁令からさらにい くつかの命題を取り上げています。(74)「天体が人体に影響するよう に、天空の動因をなす知性は理性的魂に影響する」(133)「意志と知性 はみずからによって動くのではなく、永遠の原因、すなわち天体によって 動かされる」(161)「星辰にが自由意志にもたらす効果は隠されてい る」(162)「私たちの意志は天体の力に従属する」。 ブデはこのうちとくに74と161が、星辰魔術を扱ったものと解釈された と述べています。これは天空を統治する天使を呼び出して、魔術的な操作 を行うというもので、ブデによるとアルキンディの『光線について(De radiis)』などがそれを扱った文献とされているのだとか。同書はすでに 1270年ごろに、エギディウス・ロマヌスによる糾弾を受けています。で すが、これらの命題で問題になっているのは、むしろそうしたものの背景 をなしているコスモロジーであるような印象を強く受けます。 イセット本によるコメントを見ておくと、74(イセット本では76)より も161(同じく153)に多くのコメントが割かれています。それによる と、「可能態から現実態への移行には外的な原因が必要だ」というアリス トテレスのテーゼは、新プラトン主義の発出論と接合して、「存在するも のはすべて第一原理の秩序に従う」というテーゼに変容しました。そこで 考えられている原因のヒエラルキーでは、天体は末端部分を占めるにすぎ ないのですが、ではそれは人間の知性や意志にとっての十分な原因をなし ているのでしょうか。それを認めるなら、人間の自由が否定されてしまう というわけです。 イセットもちらっと指摘していますが、そうした運命論・決定論的なもの の見方に対しては、初期教父の時代から綿々たる批判が形作られてきまし た(それについては、マリー=エリザベト・アラマンディ編『初期教父と 占星術』(Marie-Elisabeth Allamandy, "Les Peres de l'Eglise et l'Astrologie", Migne, 2005)の序文が詳しく記しています)。星辰によ る決定論は、アルキンディのほか、アヴェロエスにも帰される考え方のよ うですが、一般にそれは主に物体への影響に限られるとされて、禁令の同 時代の論者たち(ブラバンのシゲルスやダキアのボエティウス、さらには トマスなども)は、星辰が仮に人間の知性や意志に影響するとしても、そ れは偶発的なものにすぎないとする点でほぼ一致していたようです。 再びブデ本に戻ると、禁令はさらにより広範な「占い・予言の類」をも糾 弾しています。たとえば167(イセット本では178)です。「なんらかの 徴によって、人間の意図、意図の変化、その意図が成就したかどうかを知 ることができる。また、かかる形象によって、旅人の命運、人の捕縛、捕 虜の解放、また将来において、しかじかの人物たちが賢者となるか泥棒と なるかを知ることができる」。ソーンダイクはこれを占星術に関する命題 と解釈しているといいますが、ここでの「徴」が占星術に限らないことを イセットは指摘しています。この命題は出典は不明のようですが、いずれ にしても占いの類に信憑性を与えようとする文面なので、キリスト教の伝 統的な考え方に反しているのは間違いありません。 さらにまた、魔術の利用についても禁令は糾弾しています。とくにそれが 見られるのは、序文とされる冒頭のタンピエの書状です。この中に、「同 様に、巻子本または冊子本で、降霊術を扱ったものや、魔術の実験、悪魔 の召喚、魂の死滅を図るまじないを含むもの、さらには正当な信仰および 正しい慣習に明らかに反した、同種の題材を扱ったものをも糾弾する」と あります。上のアラマンディ編『初期教父と占星術』によれば、こうした 悪魔との関連を指摘する伝統も初期教父の時代からあり、一つにはそれら 魔術や占いの実践者が大衆(信徒も含む)において得ていた信憑性を覆す ために、信徒に怖れや警戒感を吹き込む狙いがあったのだろうということ です。ただブデ本によると、序文のところでこそ魔術の糾弾が見られるも のの、禁令の本文をなす命題には対応するものがなく、そのあたりが禁令 のある種ちぐはぐな部分なのだといいます。この問題についてはまた次回 に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その14) 『レポルタティオ』問い一二および一三の続きです。早速見ていきましょ う。 # # # Si dicas quod cognitio intuitiva imperfecta est simpliciter absractiva quia abstrahit ab exsistentia rei, igitur non est intuitiva, resopondeo: pro tanto dicitur intuitiva quia mediante ea potest intellectus assentire alicui complexo quod concernit differentiam temporis, puta quod "hoc fuit", sicut per intuitivam perfectam potest iudicare "hoc est". Sed aliquam cognitionem est dare in intellectu per quam vel mediante qua intellectus nec assentit quod illud obiectum est nec fuit, immo utrumque ignorat. Puta si Deus causaret in me cognitionem abstractivam alicuius rei singularis quam numquam vidi, mediante illa nec iudicarem quod illa res est nec fuit. Similiter quando intelligo aliquod singulare - quod nunquam vidi - in conceptu communi sibi et aliis, tunc habeo de illo singulari cognitionem abstractivam, licet non in se, tamen in aliquo conceptu communi, et tamen per illam nec iudico quod praedictum singulare est vel fuit nec horum opposita. あなたが次のように言うとしよう。「不完全な直観的認識は端的に抽象的 認識である。なぜなら事物の存在を抽象してしまうからだ。ゆえに直観的 認識ではない」。私はそれにこう答えよう。それは十全な理由があって直 観的認識と言われているのだ。それを介することによって、知性は時制の 違いに関わるような複合命題を認めることができるからである。たとえ ば、知性は完全な直観的認識によって「これは存在する」と認められるの と同様に、「これは存在した」と認めることができるのである。しかしな がら、知性の内には次のような認識が与えられなくてはならない。知性が それを通じて、あるいはそれを介して、この対象が存在するとも存在した とも認めず、反対に両者ともども無視してしまうような認識である。たと えば、仮に神が私のうちに、私がまったく見たことのないなんらかの個物 についての抽象的認識を生じさせたとしたなら、私はその認識を介して、 この事物は存在するとも存在したとも判断しはしないだろう。同様に、 まったく見たことのないなんらかの個物を、それとほかのものとに共通す る概念において私が理解する場合、私はその個物について抽象的認識をも つ。私はその個物そのものを認識するのではなく、なんらかの共通概念に おいて認識するが、その認識を通じて私が、先の個物が存在するとか存在 したとか判断することはないし、そうした判断の逆の判断をすることもな い。 Similiter forte cognitio illa absractiva quae ponitur simul cum intuitiva est talis quod nec mediante illa iudico rem esse vel fuisse nec horum opposita. Ideo licet illa cognitio per quam iudico rem aliquando fuisse sit simpliciter abstractiva, quia tamen mediante ea assentio et iudico rem aliquando fuisse et non mediantibus aliis duabus cognitonibus, ideo respectu earum potest dici cognitio intuitiva, imperfecta tamen. 同様に、直観的認識と同時に成立すると考えられる抽象的認識はおそらく そのようなもので、それを介して私が、事物が存在するとか存在したとか 判断することはないし、そうした判断の逆の判断をすることもない。ゆえ に、かつて事物が存在したと私が判断する際のその認識は、端的に抽象的 認識であると言えるのかもしれない。なぜなら、私はそれを介して、かつ て事物が存在したと認め、判断を下すのであって、ほかの二つの認識を介 して判断するのではないからだ。したがってそれらの認識に対して、それ を直観的認識と、ただし不完全な直観的認識と言うことはできるだろう。 # # # 今回の箇所には、個物の認識が共通概念を通じて行われるという一節があ ります。ここではさらっと触れているだけですが、前回のピーター・キン グによる議論にもあったように、個物と概念との関係は実はかなりやっか いな問題を含んでいます。しかもキングによれば、それは唯名論全般に関 わる問題なのでした。個物と普遍がどう結びつくのかという問題を突き詰 めていくと、必ずや主体の意図的な操作を持ち出してこなくてはならず、 それが説明されない部分として残ってしまう、というのがその主旨でした が、こうした議論に対して、オッカムの唯名論には難点があることを認め つつ、キングの議論はその難点を正確に引き出したといえないと批判する 文章がネット上に公開されています。ギウラ・クリマによるコメント (http://www.fordham.edu/gsas/phil/klima/King.htm)です。今回 はそれを眺めてみることにします。 まず、オッカムのいう「類似性」についてキングが指摘する難点が再検討 されています。二つの事物の類似の関係は、第三項をもとに関係づけら れ、しかもその第三項は「抽象的実体」(すなわち普遍)で占められるの で、唯名論的には解決できないということをキングは言うわけですが、ク リマはこの第三項が抽象的実体で占められる必要はないとしています。ソ クラテスとプラトンを「白さ」で比較するとき、ソクラテス固有の白さと プラトンの白さが比較されればよいだけで、「白さ」という抽象的実体を 据える必要はないというわけですね。オッカムは「全体的類似」という言 い方で、第三項を立てずに二項だけで処理しようとしているのですが、そ もそも抽象的実体を据えないという立場に立てば、ことさらにそうした 「全体的類似」を立てる必要もなくなります。 もう一つ取り上げられているのは、外的事象と概念が取り結ぶ因果関係に ついてです。オッカムは、外的事象が概念の自然な原因であるからこそ、 概念は外的事象の自然な表象をなすのであると論じるわけです。原因から 結果がどう成立するのかという点はブラックボックスですが、それでも図 式としては一見妥当な考えです。ただ、一般概念の場合には、その同じ概 念が複数の個物から生じなくてはなりません。さらに言うなら、同種のあ りうるすべての個物はその概念を導けなくてはなりません。ですが、そこ で言う同種のすべての個物は、その概念が措定されるからこそ同種と認め られるのではないか、という疑念が残ります。こうしてキングは、ここに 循環論法に陥る可能性を指摘します。循環論法に陥らないためには、オッ カムはあらかじめ概念を引き合いに出すことなく、そうした個物が同種に まとめられる根拠を示せなくてはなりません。しかも実在論に規定されず に、あくまで心的な操作のみにおいてそれができなくてはなりません。 クリマはここで、オッカムの因果関係の議論が上の類似性の議論と密接に 結びついていることに注目しています。二つの個物が同種であるかどうか はその個物の本性に関わり、共特性(co-specific)があるかどうかは本 性的に決まっている(とオッカムは主張する)と述べています。それがあ るなら、その二つの個物は相互に類似し、その概念が成立するというわけ です。ただそれが心的な操作にのみ依存するという点はやはり論証できて はいません(本性を持ち出すことで、それは実在論のほうへと傾いてしま います)。クリマによれば、ここにオッカムの議論体系における真の弱点 があるといいます。循環論法がどうのこうのというのは本質的な話ではな い、というわけです。 キングが問う、なぜ一般概念がアリストテレスの示す序列に従うのかとい う問題も、この共特性という考え方ならば、たとえば雄猫とソクラテスが 「動物」と「雄」という類に分類されることは、両者にそれぞれの類の特 性が本性として備わっているからだということになるだけで、どちらかだ けが優先される点は取り立てて問題ではなくなります。オッカムはいちお う絶対的な項と副次的な項とを分けて考えているようですが、その区別だ けを批判したところで本質的議論にはならないということです。 真の問題はやはり、概念と個物の関係性にあります。限定的な数の個数か ら導かれる概念は、直接的な認識のない個物をも含め、あらゆる同種の個 物を表せなくてはならず、そのための説明が求められます。ですがオッカ ムは、概念と個物の関係性として類似性を挙げてしまっていて、しかも概 念はその個物を絶対的に表す(つまり類似の関係を結ぶ)としているせい で、多対一の対応を説明づけることができなくなってしまっているので す。このように、結果的にキングの議論はさらに精緻化され、オッカムの 何が本当のブラックボックスなのかが改めて浮かび上がっているわけです が、クリマはその本当の解決策を、より急進的な唯名論にではなく、上の 第三項を意味論的に復活させたある種の実在論(意味論的実在論)に求め られるのではないかとして、16世紀のドミンゴ・デ・ソトの例をちらっ と挙げています。このあたり、もっと詳しく知りたいところですが、それ はまた次回以降に。 *本マガジンは隔週の発行ですが、次号は変則的に05月12日の予定で す。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------