〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.216 2012/05/12 ------文献探索シリーズ------------------------ タンピエとその周辺(その4) 1277年の禁令では、序文において魔術が糾弾されていますが、本文のほ うにはそれに対応するような命題が挙げられていません。これはどういう ことなのでしょうか。ジャン=パトリス・ブデは著書の中で、これは禁令 の編纂プロセスがかなり性急に行われた結果なのではないかと指摘してい ます。十分な時間をかけられなかったため、検閲しようとする側は、学生 や教師が隠していた魔術書そのものなどを入手できなかったのではないか というわけです。 前にも少し触れましたが、禁令はかなり急ピッチで仕上げられています。 ほとんど二ヶ月程度の突貫工事のようです。そんなに急ぐ理由が何かあっ たのでしょうか。そのあたりの事情は今一つ見えてきません。とりあえず その序文を見ておくと、タンピエはまず、「聡明で真摯な人々からの、度 重なる報告により」、パリ大学学芸部の一部の関係者たちがおのれの領分 をわきまえず、「明らかで重大な誤り、あるいはむしろ虚偽、誤謬に満ち た錯乱を説き議論している」ことを知るに至ったとしています。しかも、 「彼らは自分たちが仄めかしいる主張が知られないように、(教会側へ の)回答を避けている」とも述べています。 タンピエによれば、それら関係者たちが言っていることは要するに「哲学 上では真でも、カトリック信仰では真でない」という二重真理説だという のですね。信仰とは相容れない哲学上の真理のほうを彼らは選ぶのだとい うのですね。次いでタンピエは、彼らは賢者の忠告に従って(聖書や慎み 深い人々の忠告)口をつぐむべきだと述べ、ゆえに自分たちはそうした教 説を禁じ、糾弾し、それらを説く人々を破門に処するのだと宣言します。 聴衆の側についても同様で、「7日以内にわれわれないしパリ大法官に過 ちを告発しない限り」、しかるべき罰に処すとしています。 その後には、「恋について」(12世紀に書かれたアンドレアス・カペラ ヌスの愛の手引き書)や、前回に取り上げたように各種の魔術書などの糾 弾が続きます。そして同じく、それを教える者も聴衆も、7日以内に告発 しないならば処罰を科すとして書状は終わっています。この7日以内に報 告せよという部分が、なにやら教会側の焦りのようなものを感じさせま す。この序文については、イセットの研究書は正面切って取り上げておら ず、単にそれが当時のパリ大学の道徳的な堕落をも物語っていると指摘す るにとどめているのですが、それほどまでにパリ大学の状況は不品行に満 ちていたのでしょうか? 一方のピシェの研究書を見てみると、禁令が糾弾する、道徳的な堕落とい う意味での性に関係した命題をいくつか取り上げています。183「独身者 同士の単純な姦淫は罪にあらず」、169「肉体的行為を完全に断つこと は、力と種とを絶やすことになる」、166「性交の悪しき使い道など自然 に反する罪は、種の自然に反しはするが、個人の自然には反しない」 ……。キリスト教的な倫理からすると、なにやら奔放な性の思想が跋扈し ていたかのような印象を与えますが、ピシェはこれらについて実際はどう だったのかとの問いを発します。 しかしながら、もちろん当時の道徳・品行を再構成することは容易ではあ りません。当時の学生たち、あるいは教師たちが実際にどのような行動を 取っていたかを、史料から割り出すことは不可能に近いと思われます。そ んなわけでピシェは、禁令が糾弾するような教説が当時の学芸部関係者た ちの文献資料(講義録などでしょう)から読み取れるかどうかに絞って検 討を加えています。本当にそうした教説が教えられていたのかどうかを、 ある程度推測できるだろうということなのですが、その結果はという と……またしても浮かび上がるのは、教会の権威筋が糾弾する命題の中身 と、実際に書き記された自由学芸部の教師たちの教説との間には、まった く一致する部分がないということのようです。禁令が指弾するような性行 為に関係するテーゼなど、いっさい見当たらないというのですね。 結局、上の不品行のテーゼは、要するに検閲する側が推論を重ねに重ねた 産物ではないかという嫌疑が深まってきます。つまりこういうことです。 アヴェロエスに帰される単一知性論(可能知性は人類全体を通して一つだ というテーゼ)から推測するに、個々人の魂が死後も存続するのは不可能 ということになり、人間は地上世界にしか存在できないことになる。する と地上世界での行いについて死後に報いがもたらされるということも否定 されてしまい、したがってそういう教説を吹き込まれた学生たちは、「今 ここで」の性的欲望を満足させようとするだろう……。ですがピシェは、 そもそもそうした「アヴェロエス主義」的教説と不品行とを結びつける文 献的根拠はないと指摘し、仮に学生たちに不品行が見られたのだとして も、その因果関係は立証されていないと結論づけています。このあたり は、そうした不品行の存在を、因果関係も含めてそのまま受け入れている イセットに対する批判にもなっています。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その15) 長い長い導入部を経て、このテキストはやっと本題(らしき部分?)に入 ります。つまり天使も人間も認識論的には変わらないという議論です。 さっそく見ていきましょう。 # # # Responsio ad primam quaestionem His visis dico ad primam quaestionem, loqendo de cognitione intuitiva naturali, quod angelus, et intellectus noster, intelligit alia a se non per species eorum nec per essentiam propriam, sed per essentias rerum intellectarum. Et hoc prout ly per dicit circumstantiam causae efficientis, ita quod ratio intelligendi, ut distinguitur a potentia, est ipsa essentia rei cognitae. Quod probatur: quia illud quo posito potest aliud poni, circumscripto quocumque alio, et quo non posito non potest aliud poni naturaliter, est causa illius. Sed posita ipsa re praesente et intellectu angelico sive nostro sine omni alio praevio, sive habitu sive specie, potest intellectus illam rem intuitive cognoscere. Igitur talis res est causa illius cognitionis. Sed non potest esse nisi causa efficiens, igitur etc. 最初の問いへの回答 以上を見た上で、最初の問いに次のように答えよう。自然な直観的認識に ついて述べるなら、天使、そして私たちの知性は、自分以外のものをそれ らの像(スペキエス)によって理解するのではないし、みずからの本質に よって理解するのでもない。そうではなく、理解する対象の本質によって 理解するのである。そしてその場合の「によって」という語は作用因の状 況を意味し、かくして理解するという行為の根拠は、それが潜在態(認識 の)と区別される限りにおいて、認識する事物の本質そのものにある。そ れは次のように論証される。あることを措定したことによって別の措定が 可能になり、かかる別のものが何かは省略するとして、一方でそれを措定 しなければ、別の措定が自然には可能でない場合、その措定したことはそ の別の措定の原因となる。ところで、いかなる先行例、つまりハビトゥス (性向)もスペキエス(像)もなしに、天使、もしくは私たちの知性に、 事物そのものが現れるとするなら、知性はその事物を直観的に認識でき る。したがって、かかる事物はその直観的認識の原因であるということに なる。しかしながらそれは作用因である以外にはない。よって……以下 略。 Loquendo vero de notitia abstractiva, tunc aut loquimur de illa quae semper consequitur intuitivam aut de illa quae habetur post corruptionem intuitivae. Si primo modo, sic ad illam requiritur obiectum et intellectus et cognitio intuitiva tanquam causae partiales. Quod probatur sicut prius: quia "illud quo posito" etc. Si secundo modo loquamur, sic ad illam requiritur intellectus et habitus generatus ex cognitione abstractiva elicita simul cum intuitiva. Et non requiritur obiectum in ista secunda cognitione abstractiva tanquam causa partialis, quia illa potest haberi etsi obiectum adnihiletur. Et est utraque istarum notitiarum abstractivarum incomplexa. Et ista secunda est causa partialis notitiae complexae qua iudico quod res aliquando fuit. 一方で抽象的認識について述べるなら、つねに直観的認識に付随する認識 についてか、あるいは直観的認識が破損した後に有する認識について私た ちは語ることになる。前者の場合であるなら、対象、知性、直観的認識 が、その抽象的認識の部分的原因として必要となる。それは先と同様に論 証される。「あることを措定したことによって……」以下略。後者の場合 について述べるなら、そのためには知性のほか、直観的認識と同時に成立 する抽象的認識から生じるハビトゥスが必要となる(部分的原因とし て)。この後者の抽象的認識では、部分的原因として対象は必要とされな い。対象が破棄されても、その抽象的認識をもつことができるからだ。こ れらの抽象的認識はどちらも複合的なものではない。そしてこの後者の抽 象的認識は、事物がかつて存在したと私が判断する拠り所となる複合的認 識の、部分的原因をなすのである。 # # # 前回・前々回のコメントでは、オッカム的な唯名論の躓きの石として、概 念と事物との「類似」関係の問題を見てみましたが、オッカムにおいては もう一つ、この事物と認識が作用因としての関係で結ばれているという関 係性が議論されていて、その作用因の関係と類似の関係はいわば両輪をな しているのでした。それは今回のテキストでも示されていますね。事物が 認識(直観的認識)の作用因であるという考え方は、オッカム以降も長く 温存されていきます。 いずれにしても、オッカムにとって作用因はかなり重要なキーワードで す。以前にも取り上げた『オッカム・ケンブリッジ必携』所収のマリリ ン・マッコード・アダムズの論考(Marilyn Mccord Adams, 'Ockham on Will, Nature and Morality', pp.245-272)によれば、オッカムは自 由意志の機能を高く評価するがゆえに、たとえば自然の善性といった目的 因的な議論を放棄し(意志はそれをオーバーライドできるわけです)、自 然において事物を事物ならしめる根本的な力は作用因に帰されると考えて いました。作用因は自然界の根本原理をなしていて、たとえば主体が知性 をもって行う認識すらも、意志にとっての部分的な作用因をなすとされて います。部分的とはつまり、主たる原因にともだって作用する原因だとい うことです(ここで主たる原因をなすのは、意志そのものということで しょう)。 今回見た上のテキストでも、事物の本質が認識のうちに現れるとはつま り、認識が潜在態から現実態へと移行するということで、事物はそうした 認識の現勢化の作用因をなしているという話が出ています。アダムスの議 論と合わせると、自由意志以外はみな、そうした自然の原理として作用因 の連鎖をなしているということになりそうです。それだけに、意志の自律 性がひときわ際立ってもくるわけですが……。オッカムにおいては、意志 はそうした自然の作用因の因果律から独立した(あるいは独立しうる)機 能と解釈されているのでしょう。 ですが、そのような意志とて、その発動するためのトリガーとして外部世 界を必要とするのではないか、という疑問が出てきます。あるいは、そう した外部世界とのやりとりをもたない意志というものがあるとすれば、そ れはどのような在り方をなしているのだろうか、という疑問です。ちょっ と脱線めいてしまいますが、最近邦訳で出たジョン・マクダウェルの『心 と世界』(勁草書房)では、マクダウェルは認識と事物がどう結びついて いるかについて人が覚える「哲学的不安」の内実を描き出そうとしていま す。 そこで言う「哲学的不安」というのは、まさに上の疑問に対応する心的機 制です。心と世界がどう関係しているのかを考えるときに、心が世界のほ うを向かざるをえず、結果的に自立していないという仮説と、心は完全に 自立しているために世界のほうを向くことができないという両極端の仮説 との間で、自己の概念がひき裂かれてしまうことを表しているからです。 マクダウェルは、世界を受容するという機能にすら心的な能動性(ミニマ ルな)があるのだとする立場でもって、この相反する二つの極端な仮定を 調停しようとします。あるいは心と世界とを架橋しようとします。 オッカムが唱えた外的世界と心象との「類似」の関係は、後代の唯名論の 流れにあっては失効せざるをえませんでしたが、マクダウェルにおいて は、事物と認識が作用因の関係で結ばれているというもう一つのオッカム の基本的立場もまた問い直されていると言ってよいかもしれません。もち ろんこれはとりわけ近代以降の哲学の事案なわけですが、この問題もすで にしてオッカムの中に胚胎しているとも考えられそうです。そうなると、 確認しておきたい点が一つ出てきます。オッカムが考える「意志」は、マ クダウェルが唱えるような「受容(つまりは認識)にすら働くミニマルな 能動性」のような契機をまったく孕んではいないのでしょうか。次回以 降、少しこのあたりを検証していきたいと思っています。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は05月26日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------