〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.217 2012/05/26 ------文献探索シリーズ------------------------ タンピエとその周辺(その5) 前回はピシェの研究書による議論を見てみましたが、もうしばらく少し続 けてみることにしましょう。前回もちらっと触れましたが、禁令への序文 をなすタンピエの書簡では『恋について』という書を名指しして(冒頭と 末尾を掲載しています)やり玉に挙げています。同書はいわゆる宮廷恋愛 の作法についての書で、12世紀末ごろにアンドレアス・カペラヌスが著 したとされています。これについては邦訳がいくつかあり、ネットでは丑 田弘忍訳をCiNiiで読むことができます(6分冊で、最初のものがhttp:// ci.nii.ac.jp/naid/110004643560)。 ピシェは、この書が当時、学芸部において大きな人気を博していたにちが いないと考えています。だからこそタンピエは序文の中で、これ見よがし のように同書について触れているのだろうというわけです。とはいうもの の、禁令が糾弾するような命題がその書物の中にそのまま出てくるわけで はありません。同書は暗示的な表現を多用しているのですが、それらはど うやらセクシャルな描写のコードをなしていて、学生たちの間では、そう した表現をもとに、より生々しい話が語られていた可能性があるとピシェ は見ています。あるいはまた、検閲する側のほうがそうしたコードを、糾 弾された命題のような歪曲した解釈で解読していたのかもしれないといい ます。 いつの時代もそうですが、学生は時代が課す倫理的規範を侵犯することに 楽しみを見出していたのでしょう。とはいえ、教師の側が練り上げていた 理論的ないし実践的な「身の処し方」は、たとえ価値転覆的であったとし ても、より繊細であったようだとピシェは指摘しています。もちろん、そ れが既存の価値体系からすれば不安定要素であることは間違いなかったは ずです。とはいえ、禁令が挙げる命題の「不道徳さ」と、教師たちの倫理 問題についての考え方との間には、これまた根本的なギャップがあったよ うなのです。ピシェによれば、教師たちの姿勢はそうした糾弾とは真逆で さえあったのだとか。 たとえばブラバンのシゲルスですが、過激とされるイメージとはうらはら に、婚姻以外の自由恋愛をどうこう言う文言は見られず(『倫理問題 集』)、ただ、哲学者にとって未婚(純潔)と婚礼のいずれの状態が望ま しいかという議論をしているだけなのですね。シゲルスは、まずは異論と して「婚姻しているほうが望ましい」という議論を出し、アリストテレス に準拠したその理論を再構成してみせます。次にそれに対して反論を加 え、結論としては未婚の状態を称揚しています。異論を提示しそれに反論 して結論にいたるというのは、伝統的な議論の方法でさえあります。結論 からすれば、シゲルスも検閲する側と同様に純潔を擁護しているわけなの です。ところが禁令はというと、なんと反駁の対象となっている異論のほ うを要約する形で取り上げているというのです。ピシェによると、命題 169「肉の行為を完全に断つことは、徳と種とを滅ぼす」がそれにあたる とされています。 このあたりの曲解はどう考えればよいのでしょうか。ピシェは次のように 解説します。シゲルスの議論は基本的にトマスの貞節擁護の議論に沿った ものらしいのですが、ここで大きな違いがあります。トマスが宗教上の目 的として貞節を説くのに対して、シゲルスはこれを哲学的瞑想のための議 論としているのですね。そのため、両者の議論の意味合いは大きく異なっ てきます。学芸部の教師たちが「哲学者」を名乗るのは、古来からの異教 的な知の残滓を受け継ぎ、それをキリスト教信仰の中で完成させるため だったといいます。独身主義もそうした文脈で改めて擁護されているわけ なのですが、教会の側からするとこれは面白くありません。独身主義はそ れまで聖職者の専売特許のようなものだったのに、それを別様に称賛する 人々が出てきたからです。 かくして、そうした在俗の「哲学者」たちが独身主義を称揚することを快 く思わない、あるいは独占的支配を部分的に奪われたとすら考えた教会側 は、反動的にそうした在俗者たちを糾弾し、信憑性を貶め、かなり歪曲し た形で攻撃を加えることになったというのです。そのような歴史的文脈の 妥当性を検証する材料は手元にはありませんが、ピシェによるとたとえば アラン・ド・リベラなども同じような見解を示しているそうで、教会が最 も危惧していたのは知的奔放さの高まりなどではなく、キリスト教の教説 が徐々に哲学に同化されていくように思えた点だったのではないかと指摘 しているといいます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その16) 当初の問いに対する回答が前回の箇所で示されたわけですが、それに続く 今回の箇所では、逆の立場からの疑念が自問という形で提示されていま す。言ってみればこれは幕間のようなもので、この後にその自問に対する 自答が示されていくわけですが、とりあえず今回はこの「幕間」を味わう ことにします。 # # # Dubia circa responsionem Contra ista sunt multa dubia. Primo videtur quod intellectus non potest habere notitiam intuitivam respectu singularis, quia intellectus abstrahit a condicionibus materialibus, puta ab esse hic et nunc. Sed nec singulare nec cognitio intuitiva abstrahunt a condicionibus praedictis, igitur etc. Item, illud quod ponit intellectum in errore non debet poni in intellectu; sed notitia intuitiva est huiusmodi. Patet, quia si destruatur res et maneat cognitio intuitiva, tunc per illam iudico rem esse quando non est, igitur etc. 回答への疑念 これらの回答に対しては様々な疑念がある。まずは、知性には個物に関す る直観的認識をもつことはできないと考えられる。なぜなら知性は、たと えば今ここでの存在など、質料的条件を捨象するからである。ところで個 物も直観的認識も、上記の条件を捨象することはない。よって……以下 略。 また、知性を誤りに導くものは知性に掲げてはならない。ところで直観的 認識とはそののようなものである。そのことは明らかだ。というのも、も し事物が破棄されてからも直観的認識が存続するのなら、その認識によっ て私は、事物が存在しない場合でも存在すると判断してしまうからだ。 よって……以下略。 Item, quod singulare non intelligitur intuitivae nec abstractive probatur, quia quando aliqua sunt simillima, quidquid est similitudo unius et alterius. Exemplum: si accipiantur multae albedines in eodem gradu, quidquid est simile uni et alteri. Sed intellectio est similitudo obiecti, et per hoc intellectus intelligit per quod assimilatur obiecto. Hoc autem est per intellectionem, non per species secundum praedicta. Si igitur accipiantur multa individua simillima, - puta multi angeli in eadem specie vel animae intellectivae -, qua ratione intellectio per quam intelligo unum est similitudo unius, et omnium aliiorum simillimorum, ex quo sunt simillima. Igitur per talem intellectionem vel intelligo quodlibet singulare vel nullum, loquendo semper de simillimis. Sed non quodlibet, patet de se, igitur nullum intelligitur in se, nec intuitive nec abstractive. Item, contra hoc quod dicitur de cognitione intuitiva perfecta et imperfecta. Quia secundum illud videtur quod nulla sit cognitio abstractiva simpliciter in intellectu, quia nullus est quin per eam possim intelligere quod res aliquando fuit. また、個物は直観的にも抽象的にも理解されないことが論証される。なぜ なら、事物が最大限類似している場合、一つのものに類似するものはすべ て他のものにも類似するからだ。例を挙げるなら、同じ程度の白さが複数 あると認識される場合、ある白さに類似するものは他の白さにも類似する のである。しかしながら知性の働きは対象物への類似をなすのであり、ゆ えに知性は、対象と同等と見なされるものを通じて知解する。ただしこれ は知性の働きによるのであり、上述の通りスペキエスによるのではない。 したがって、最大限類似した個物が複数ある場合−−たとえば同じ種の複 数の天使あるいは知的魂がある場合−−、私が個物の一つを理解する知性 の働きの原理とは、その一つの個物との類似性、そして他のすべての最大 限類似した個物との類似性にある。なぜならそれらは最大限に類似してい るからである。したがって、これもまた最大限類似するものについてだ が、かかる知解を通じて、私は任意の個物を理解するか、あるいは何も理 解しないかのいずれかとなる。しかし私が任意の個物を理解するのではな いことはおのずと明らかだ。したがって、本質においては直観的にも抽象 的にも、何も理解されないのである。 また、完全な直観的認識、不完全な直観的認識と言われるものについても 疑念がある。というのも、それにしたがうなら知性には端的にいかなる抽 象的認識もないと思えるからである。なぜなら事物がかつてあったこと を、私が知解できるような認識はまったくないからだ。 # # # 本文が幕間的ですので、コメントも少しばかり余計に「幕間」的にいきた いと思います(笑)。それにしても前回もちょっと触れたのですが、オッ カムの意志論は本当に作用因の連鎖(認識もそれに含まれます)から完全 に独立したものなのでしょうか。少しそのあたりを確かめてみないといけ ないのですが、そこでのキーとなるのはどうやら「ハビトゥス」の概念で す。 前回も取り上げたアダムスの論考を引き続きみてみましょう。一般にオッ カムが考える「意志」は、きわめて自由度の高いものとされるわけです が、アダムスが言うには、その「意志」にはもとより善性などに向かう傾 向が見られるといいます。これはアンセルムス以来のテーゼでもあるわけ ですが、オッカムもその伝統には与しているわけですね。もちろん意志は それを乗り越えることすらできるのですが、いずれにしても重要なのは、 意志を規定する部分的原因としての傾向(inclinatio)を、オッカムが認 めているらしい点です。その場合、そうした傾向に沿うか逆らうかで、意 志の決定が容易に、あるいは難しくなるのだとされます。傾向には意志に あらかじめ内在しているもののほかに、獲得されたハビトゥス(性向)も 認められるようで(?)、そちらもまた意志の作用を容易もしくは困難に する部分的原因であると見なされます。 とはいうものの、オッカムは意志におけるそうした傾向が「自然のもの」 であるとは認めません。つまりそれは因果関係によって束縛されてなどい ないというのです。あくまで意志にもともと内在しているか、意志が自己 決定をした結果として獲得されるかのいずれかで、それ以外に作用因をも たないというわけです(この後者の場合が、意志における一種のハビトゥ スなのでしょうか)。 アリストテレスにおいては、合理的判断を司る働き(理性的魂)には認識 力と意志力とがあり、それぞれがある種の倫理を内包していると考えられ てました。オッカムも基本的にそれに従っていると見るならば、ハビトゥ スは認識と意志の両方で獲得されうるものとされているのかもしれませ ん。ハビトゥスという概念はなかなかのくせ者で、オッカムがその外延を どう設定していたのかは案外微妙な気がします。最近出た『西洋哲学史 IV』(講談社選書メチエ、2012)所収の乗立雄輝「オッカムからヒュー ムへ」という論考では、稲垣良典『習慣の哲学』(1981)の一節が引か れています。オッカムの習慣(ハビトゥス)概念がトマスのような形而上 学的な秩序への連関を排して、心理学的な事実として捉えられていたとい うあたりの箇所です。 『習慣の哲学』では、オッカムは「人間活動の全般を習慣概念によって経 験的に説明しようと試みている」(p.163)とされています。もともとは 形象(スペキエス)を排した代わりに、過去の認識の想起や普遍的認識の ための何らかの媒介的な仕組みとして援用された概念だとされますが、そ れをオッカムが認識論を越えて敷衍しようとしていたのかどうかは改めて 検討に値する問題かもしれません。とはいえ、仮にハビトゥスが認識だけ でなく、意志においても成立するとされたとしても、ハビトゥスの役割は それぞれで異なってくるはずです。認識は自然的な因果関係によって決定 づけられているため、成立したハビトゥスはそれなりの強い拘束力をもつ のでしょうけれど、意志の力は本来的に自由であるとされるため、そこで のハビトゥスは、意志そのものの志向にさほどの影響を与えない、という ことになりそうです。 でも、オッカムが考えているハビトゥスが、外界に対する精神現象の全般 的な関わり方を指すのだとしたら、オッカムにとっての認識と意志との間 というのは、これまで考えられてきた以上に密接で相互作用的なものだと いうことにならないでしょうか。また、もしそうなら、前回の話でちょっ と触れたように、あるいはそこに、はるか後世のマクダウェルに連なる 「受動的認識にすら能動的判断が介在する」という議論の萌芽が見いだせ たりしないだろうか、なんて夢想をつい思い描いてしまいます(具体的な テキストに即した議論は、現段階では望むべくもないのですが……幕間と いうことで放言をご勘弁いただきたいと思います)。ちなみみ上の乗立論 文によると、そうした議論の系譜は19世紀から20世紀初頭のパース、そ の前には18世紀のトマス・リードが連なっているようですが、ある議論 では15世紀のクザーヌスあたりまで遡れるようです。ちょっと面白そう ですね。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月09日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------